第20話 地球産

 金曜日の夜、突然双子が現れた。


「ふざけるな!」


 悟は帰ってきてまず泉の頬を殴った。

 なかなか痛かった。本気だったようだ。


 熱を持った頬に触れると唇の端がぬめった。焼けたようにひりつく。切れて出血したのだろう。


 たまに帰ってきたと思えばこれだ。さすがに殴られたのは初めてだったが、悟が怒りを真正面からぶつけてくるのは珍しいことではない。


 そう思うと、逆に、悟はわりと素直な青年に育ったのかもしれない。普段は喜怒哀楽がまるでないかのごとくわかりにくい朔と暮らしているので、感情を爆発させて親を殴る悟が新鮮だ。


 悟が泉の和服の襟をつかんで引きずった。


「やめろ」


 そんな悟の手首を昇がつかむ。


「朔が見てる」


 昇も真剣そのものの顔をしていた。ただし、悟が怒りで真っ赤になっているのとは対照的に、昇は幽霊でも見たかのように蒼くなっている。


 泉からすると昇のほうがわかりにくくて難しい子だ。誰よりも理性の人で、感情の発露を堪えるからだ。


 誰に対しても物腰穏やかに接する昇は、泉にとっては何を考えているかわからない子であった。親族一同は彼を善良だと評価するが、悟のような『悪い子』のほうが扱いやすい。あるいは朔のようにそもそも感情の起伏がほぼない子のほうがわかりやすい。朔に比べると泉はかなり喜怒哀楽が激しいが、ものの考え方は朔寄りの人間だった。


 それにしても、この双子はずいぶん対照的に育った。悟も昇も同じ顔で同じ体格をしているのに言うことがまるで違う。それでも揃えたかのようにふたりともVネックのセーターシャツを着ているのもおもしろかった。このふたりはさほど仲がいいわけではないので打ち合わせておそろいを着たわけではないだろうが、やはり双子には彼らにしかないテレパシーのようなものがあるのだろうか。


 悟が朔のほうを見た。


 朔は部屋の隅に正座をして無言でこちらを見ていた。


 特におびえている様子ではなかった。見守っている、とも違う。感情のない緑の瞳でこちらを眺めている。遠くの出来事を無感動に観察している目だ。

 いつもの朔だった。


 朔には基本的に感情がない。時々驚いたり面倒臭がったりすることはあったが、初めて触れるものへの警戒感があるだけだ。おそらく原始的な快不快しかないのだと思う。


 そんな朔と接しているうちに、泉はいつしか自分は特別な存在なのではないかと思うようになっていた。

 朔のそういうところを真正面から受け止めて肯定してやれるのは、この世で自分だけなのではないか。

 そう思うと朔を手元に置いておきたいと思うし、これが愛なのかもしれないと錯覚する。誰かを肯定することは自分を肯定することだ。


「おい、こっち見ろよ」


 悟に揺さぶられた。視線を悟に戻した。


「あんたにとって大事なペットなのはよくわかった」


 昇が強引に悟の指を開いて泉から手を離させる。


「悟もそういう言い方すんな」

「じゃあ他の何だって言うんだよ」

「それは今日これからゆっくり話をして聞いていこうと思うけど、少なくとも朔本人を前にして言うことじゃないよね。朔は当事者でしかもこどもなんだ」

「善人ヅラしやがって、この偽善者!」


 怒りで暴走する悟の手首を握ったまま、昇がこちらに向かって苦笑する。


「まあ、泉だって、ひとりじゃ寂しかったんだよね。みんな出ていって、この広い家でひとりで……、ふみさんだってあくまで仕事で、時間になったらさっさと帰っちゃうんだろうし。だから、誰かいたらいいと思ったんだよね」


 そして顔をゆがめる。


「そうだと言ってよ泉」


 泉は不承不承ながらも頷いた。この場を丸く収めるにはそうするしかないように思われたからだ。


「そう――」

「嘘つけ」


 悟が遮る。


「この人でなしにそんな感情があったら誰も苦労してねえんだよ。お前だってこいつのせいでどんな目に遭ったか忘れたのかよ」


 しかし昇は首を横に振った。


「俺は外岡の両親に育ててもらってよかったと思ってるから、この家に残った悟のほうが大変だったんじゃないかな、と考えることある」


 悟が黙った。


 昇の言うとおりだ。泉が手元で育てた悟のほうがありとあらゆる意味で失敗だ。


「まあ、でも、血縁だからさ。家族じゃん。やっぱり俺にとっての『お父さん』は外岡の家のあの人ただひとりだけど、それでも、泉を捨てていっていいとは思えないんだよ」

「血なんて一番厄介な代物だ。鎖につながれてる気分だ」


 悟が吐き捨てる。


「俺の人生最大の汚点はこの家の長男に生まれたことだ」


 否定しない。泉も若い頃はそう思っていた。ただ、今となっては、自分のようなサイコパスを世間で野放しにするよりはこの屋敷に閉じ込めておいたほうがいい、と思う。朔の過去話を聞いていると、自分たちのような人種はどこに行っても問題を起こすのを痛感する。


 朔の顔を見た。


 やはり、いつもと変わらぬ顔でぼんやりこちらを見ていた。


 柔らかな黒髪に不思議な緑の瞳、年相応のにきびもない、綺麗なこどもだ。人形のように美しく、野生動物のように聡く、天使のように無垢で残虐なこどもだ。

 あのまま社会に解き放ったらどれほどの人間を陥れたのか、危険で甘美な可能性に満ちている。現に過去には何人もの人間を破滅させてきたらしい。


 自分の人生も同じように破綻していくのだろうか、と思うと、誇らしささえ覚える。


 まさに、生きている。


 自分も人間であることを知る。

 朔が教えてくれた。


 手放したくない。


「こどもを捨てたり拾ったりすんな」


 悟が言う。言われなくても朔が最後だ。


「こどもにとっちゃ人生がかかってんだよ」


 それについては、昇は口を挟まなかった。


 不意に悟が朔のほうへ歩み寄った。泉は本能で危険だと察知して立ち上がった。悟を止めようとする。


 悟が朔の目の前にしゃがむ。

 朔の石のような緑の瞳が悟のほうを向く。


 悟が泣きそうな笑みを浮かべて言った。


「お前はどういうつもりだ?」


 朔が長い睫毛をまたたかせる。


「何がですか?」

「この家の財産を狙ってこの家にいるんだろ? ここには泉のおもりに見合うだけの資産があると思ってんのか?」

「悟!」


 泉の声に反応して、悟が顔を上げてこちらを向いた。

 驚いた顔をしていた。

 彼の顔を見てから、泉は感慨深く思った。

 そう言えば、自分が悟を怒鳴るのも何年ぶりだったか。


「朔に手を出すのはやめろ」


 朔はまだ悟をぼんやり見上げている。彼には恐怖心がない。これから先悟に何をされるかわからない、というところまではわかっても、その先がない。


 でも、生きている。

 それは、生き物だ。乱暴に扱ったら壊れてしまうかもしれない。こんなにも華奢な少年だ。


 しばらくの間、みんな沈黙していた。


 悟が唖然とした顔で泉を見上げている。昇も唖然とした顔で泉を見つめている。朔も、唖然としているわけではなさそうだが、次の反応を窺って泉のほうを見ている。


 泉は、溜息をついた。


 めちゃくちゃだ。


「もう出ていけ」


 そう呟くと、昇が歩み寄ってきて「まあまあ」と言った。


「ごめんごめん、泉にとって朔は大事なこどもなんだね。それなら俺にとっても大事な弟だよ。どうにかして守っていくからね」


 そうなのだろうか。そこまで踏み込んでいくとわからない。だが朔を奪われたくないのだけは紛うことなき真実なので、そういうことにしておいたほうがいいだろう。そのほうが人間は理解してくれるものだ。


 おもむろに朔が立ち上がった。

 何をするのかと思いきや、三歩分こちらに近づいてきた。


「朔は何ともないですよ。心配されずとも大丈夫です」


 泉は苦笑した。

 この子もまた、今この場では何を言うのが適切なのか考えたのだ。


 正解であったほうがいい、とは思っている。特に、関係を持続させたい、あるいはさせなければならない相手とうまくやるために正解を模索するのは、我々のような人間が一般人に擬態して生きていくには肝心なことだ。


 そして思うのだ。


 自分たちも、一応、人間だ。




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