第19話 カクテル

 蔵の中で大きなつづら――つづら! 実在するのか、すずめの話だと思っていた――を何個も抱えて行ったり来たりしているうちにエネルギーを消耗したらしい。小腹が空いてきた。

 この時間なら文恵が台所にいるはずだ。夕飯にはまだ早い時間なので、おやつに味噌おにぎりでも握ってもらおうか。


 そんなことを考えて台所に向かうと、話し声が聞こえてきた。泉と文恵が何か喋っているらしい。


 台所を覗くように見た。


 土間に、昭和の団地みたいな古くて低いキッチンが備え付けられている。現代人女性としてはそんなにすごく背が高いわけでもない文恵でも腰が痛そうだ。かまどは使わないのでビニールシートをかけられている。


 文恵がコンロの前に立って煮物を煮込んでおり、泉がそのすぐ脇の作業台に寄りかかっている。泉は何もしない。本当にまったく家事をしない。忙しそうな文恵を前にして手伝う気配がぜんぜんない。


 作業台の上に見慣れない瓶が置かれている。この屋敷にしては珍しくラベルが横文字アルファベットだ。よくよく見ると泉がガラスのコップを手にしている。洋酒を飲んでいるらしい。


 え、泉さまがお酒? 初めて見た。しかもまだ日は暮れていないというのに。


「――けど、朔ちゃん自身の希望を聞いてみないことには」

「でも――」

「いけません。泉さまはいつもそうやってこどもに自分の要望を押しつけるんですから。だから嫌われるんですよ」


 泉が文恵に説教されていた。まあ、文恵からしたら仕事で忙しい中酔っ払いの相手をさせられていることになるので仕方がない。


「朔の話ですか?」


 声をかけると、ふたりが朔のほうを見た。


 つっかけサンダルを履いて土間に下り、ふたりに近づく。


「何か手伝うことはありますか?」

「ううん、これに火が通ったら一回休憩するところだったから今はいいわ。ありがとう」


 文恵が微笑む。


「休憩にお付き合いしてもいいですか?」

「もちろん。何かおやつ作ろっか」

「では、味噌おにぎりをお願いします」

「おにぎり、おやつで食べるの……育ち盛りね」


 泉が朔をじろじろと眺める。今日の彼はなんだか調子が悪そうだ。昼間から酒を飲むくらいなので何かむしゃくしゃしているのだろう。文恵に八つ当たりをするのは感心しないが、朔は特に気にならなかった。


「泉さまが朔ちゃんに武道を習わせたいんですって。どう思う?」

「武道ですか?」

「そう。空手とか柔道とか、あと合気道とか少林寺拳法とかかな? 今の流行りは剣道だけど、泉さまの希望とは違いそう」


 泉の顔を見上げる。泉が一口酒をあおってから口を開く。


「何か護身術になるものを、と思ったんですが」

「あまり必要だとは思いませんが、泉さまがやれとおっしゃるならやります」

「朔はやってみたいと思うものはありませんか?」

「まず定期的にこの山を下りてどこかに通うというのが嫌です」


 文恵が「あら」と声を上げる。


「というか、学校で部活でやればいいじゃない! 朔ちゃんの学校、柔道部があるわよ」


 どうして文恵が朔の学校のことを知っているのかと思ったが、例の小鳥ちゃんが同級生なのだった。


「いやね、永遠に私とこの屋敷にふたりきりだというならぜんぜん構わないんだけど、私もいつまで生きられるのかわからないから。もう人生折り返し地点だし」


 いつもよりちょっと口調が砕けているのがおもしろい。


「やめてくださいよ、同世代の私も人生折り返し地点意識しちゃうじゃないですか」

「平均寿命が八十年なら私もふみさんも残り四十年切ってるんですよ。残り四十年ですよ。あっと言う間だ」

「ほへへ! 嫌ですよ、私は孫が嫁に行くか嫁を貰うまで長生きしますからね」

「孫! 翼もカノジョいないし小鳥もカレシいないのに孫の結婚!」


 そうか、このふたり、同世代なのか。だから仲が良さそうに見えるのか、と思ったが、単にふたりの性格かもしれない、ふたりともおおらかで大雑把だ。


「ちょっと、泉さま、酔っているんですか? かなりお酒が入っているようにお見受けするんですが」

「想像よりきつい酒を開けてしまいましたね……あの子こんなの飲んでるんだ……」


 泉の大きな手が瓶をつかむ。

 彼はしばらくしげしげとラベルを眺めた。

 朔も泉の手元を覗き込んで、アルコール分40%と書かれているのを確認した。一般的な缶チューハイが5%、ストロングゼロが7%、日本酒が15%である。なぜこんなに詳しいかというと、昨日泉と話していた養父が酒飲みで、朔に毎晩お酌をさせていたからである。朔が飲んでいるわけではない。


「あの子? 泉さま用に買ってきたお酒なんじゃないんですか?」

「悟が家で自分でカクテルを作るために置いていった酒なんですよ」


 文恵がぷんすかする。


「私ならこんなの買ってこないわよ、何が起こるかわかったもんじゃない。悟さまがどうしてもボトルキープするって言うから仕方なく泉さまに黙って戸棚に隠しておいたの、勝手に開けちゃって。また悟さまと喧嘩になっても知らないんだから」


 朔は目をまたたかせた。


「悟さまというのはどなたですか?」


 泉が答えた。


「私の息子です」


 その瞬間、ぶわっと鳥肌が立った。


 しまった。朔はこの前泉にかかってきた電話を勝手にとってしまったのだ。完全に忘れていた。

 あの時の電話の相手も泉の息子だと言っていなかったか。


 彼は昇と名乗った。泉が双子だったと言っていたので、たぶん昇は双子で、悟という兄がいるのだろう。そういえば昇も、悟は知ってるの、というようなことを聞いてきた気がする。


 今度の週末は世間では三連休だ。明後日からは土日で、月曜日に祝日がある。


 昇が、今度の連休でこっちに来る、と言っていた。


 明後日からかもしれない。


「その悟さまは頻繁にこの屋敷に帰ってこられるんですか?」

「年に一回か二回、昇が帰ってくる時に合わせて帰ってくる」


 この週末は最悪の場合この家に泉の双子の息子がいるということか。


「あ、昇というのは次男のほうな。養子に出したほう」


 文恵がのほほんと微笑む。


「次に戻られるのは年末年始かな。悟さまはちょっと気難しい方だけど、昇くんは本当にいい子だから大丈夫。でもふたりとも朔ちゃんからしたらお兄さんになるんだし、ちゃんとご挨拶しなさいよ」


 明後日から、と言おうとして口をつぐんだ。


 泉は気づいていないのだろうか。まさか例の既読スルーはそのままにしているのだろうか。ちなみに着信履歴は削除した。完全犯罪である。そもそも泉の性格からして着信履歴まで確認するとは思えなかったが、念のためだ。


「はい、どうぞ」


 文恵が皿の上におにぎりをふたつのせてよこしてきた。朔は無言で食べた。





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