第10話 誰かさん
こどもを引き取ろうと考えたのは、本当にただただ純粋に家のためだった。
四十代も半ばになり、体力の衰えを感じるようになった。
若い頃は山に帰るために一時間くらい坂道を歩いてもなんとも思わなかったが、最近屋敷についてから息切れするのを認識した。読書をしていると、肩は重いし、目もかすむ。
特に病気をしているわけではない。先日人間ドックというものを受けたが、大きな異常は見つからなかった。むしろこの年になっても血圧も体脂肪も正常値で医者に褒められたくらいだ。見た目だけでなく内臓もお若いですね、と言われて、早くどこか悪くして死ねばいいのに、と思ったのを何度も反芻する。人生があまりにも長すぎて生きることに飽きていた。
醜く老いていくのは嫌だった。自分の容姿にそれほど執着しているわけではないが、徐々に衰弱していく自分の体を思うと、刹那的に消えたい衝動に駆られる。自分の身なりに気遣わなくなるほどボケる前に死にたい、が最近のテーマだった。
それでも生きながらえているのは、この家を守らなければならない、という意識ゆえだった。
不思議なものだ。
若い頃は何度も何度も逃げ出したこの家を、自分は守ろうとしている。この家の当主にはなりたくないと思っていた自分が、妻を切り捨てても、こどもを切り捨てても、自らこの家の中に囚われている。
それこそ、老いたからだろうか。
それとも、この屋敷と自分が一体化して、この家の主であることがアイデンティティと結びついたからか。
あるいは、処分が面倒臭いからか。
もしかしたら、代々のこの家の当主も同じように悩んで次の長男に丸投げしてきたのかもしれない。
残念ながら、長男の悟はそれを嫌がって出ていったし、次男の昇はそもそも自分の手元で育てていないせいでこの家に愛着がなく帰省以上の理由で帰ってくることはない。
誰かに適当に引き継いでもらってなんとかしてほしい。
逆に考えて、まだ四十代半ばという若さで、自分は終活を始めたというわけだ。
生きているか死んでいるかもわからない。
ただ、人生が終わるまでの時間を潰している。
とにかく、こどもだ。今度こそ自分に従順で家の一切合切をどうにかしてくれるこどもが欲しい。
しかし、さすがの自分も、そういう考えであかの他人を引き取れるとは思っていなかった。面倒臭い親族からこどもを貰ってくるより、変な後ろ盾のない、完全に丸腰のこどもを貰ってきたい。そんな自分の発想が世間では嫌われることはよくわかっていた。
それでも、世の中には『親』が必要なこどもがたくさんいる。『施設』には『恵まれないこども』がたくさんいて、『親』が引き取ってくれるのを待っている。
里親に挑戦してみよう、と思ったのは、養子縁組をしてからでは遅い、という意識ゆえだった。法的に面倒臭い手続きが発生しなくても解消できる里親なら、こどもが自分と合わなくてもいつか手を切れると考えた。聞き分けのいいこどもに巡り合うまで総当たり戦をするのだ。
里親の会にメールで連絡を取った。できる限り丁寧に、我が家は裕福だから『恵まれないこども』を養うのに十分であること、自分は独り身が長く『孤独』であることを説明した。文章を書くのは得意だったし、人は何を言われると心を動かすのかはだいたい把握していたので、そんなに悩まなかった。
先方はすぐに返事をくれた。そしてここから一番近い施設を紹介してくれた。
できる限りいいひとを装って訪ねた施設で、職員と話をする。
相手をしてくれたのは、所長だというふくよかで笑顔を絶やさない中年女性と、主任だという小柄で痩せていて少し疲れた感じの若い女性、二人組だった。
「できればある程度大きいこどもがいいですね」
「なぜですか」
乳幼児の身の回りの世話をするのは苦手だから、トイレや食事のしつけがきちんとできているほうがいい――というのはペットを飼うのかと思わそうで困るのでぼかす。
「私が不器用なものですから、ある程度会話ができるほうがいいかな、と思いまして。もちろん、心を開いてくれるかどうかは別の話だと思っていますが。たとえ表面的にであっても言葉でやり取りができるほうが、お互い気が楽かと思っているんです」
「それはあるかもしれませんね」
「望月さんは独身ですしね。ご夫婦で交代でお世話できるとおっしゃるなら安心なのですが、そういう意味では大きい子のほうが手がかからないのは確かです。もちろんおっしゃるとおり、表面的には、ですけど」
おおむね希望どおりだ。
若いほうが遠くを見る。
「大きい子のほうが複雑な心のトラブルを抱えているケースも多いんですけどね。自分は選ばれないという孤独感を抱えていることもあります。もう家庭を諦めてしまっていることも」
所長が苦笑する。
「実際に、血のつながった親子のように暮らせるよう小さい子をご希望される方がいるんですよ。特別養子縁組には年齢の制限がありますから」
黙って頷いた。
「でも――」
そこで少し雲行きが怪しくなる。
女性ふたりが顔を見合わせる。
「今うちで一番大きいこどもは――ねえ?」
若い職員がそう言うと、所長がうつむいた。何か言いにくそうなことがあるようだった。
「いえ、わかりません。まだこどもですもの、可能性はまだあります。現に普段は手のかからない子ですし、ちゃんと会話ができます。とても頭のいい子で、親御さんとふたりきりで刺激されずに生活すれば変わるかもしれません」
「どういうことですか?」
「ちょっとトラブルを抱えている子なんです。でも、愛情深く接してくれるなら、と思って」
あまり厄介な子に当たりたくない、という気持ちと、どんなトラブルなのだろう、という好奇心が半々になった。
「どんな子なんです?」
所長の反応を待たずに、若い職員が口を開いた。
「サイコパスなんです」
さすがに顔をしかめた。
「凶悪犯罪者のあれですか? 連続殺人犯みたいな」
所長が蒼ざめながら続いた。
「それは偏見です。映画の話だったり、一部のニュースになる人の話だったりして……うちの子は基本的には普通の子です、そういう状況にならない限り、普通の子なんですよ」
「そういう状況というのは?」
若い女性のほうはその子のせいで疲れているのかもしれなかった。矢継ぎ早に説明をした。
「保育園の頃、いじめっ子をジャングルジムの上から突き落としたことがあるんです」
「ほう」
「小学校に上がっても、障害のある子を国道に突き飛ばしたり。里親さんの家にいた赤ちゃんを泣いているからという理由で首を絞めたり」
女性の手が、震えている。
「クラスの女の子に性的な嫌がらせをした男の子の片目を失明させたことがあって。鉛筆で」
思わず腕組みをした。
「特定の条件のある子に対して過剰に攻撃的な態度に出るようですね」
「本当に、そうなんです。だからトラブルを起こすたびに保護監察処分になって帰ってきて」
所長が肩を落とした。
「あの子、毎回言うんですよ。どれもこれもおとなを困らせる人間相手にやってきたのに、どうして自分のほうが悪い子みたいに扱われるんだろう、って」
少し考えた。
「自分が正しいと信じて疑わないんですよ」
どこかで聞いたことのある話だった。
「それで、東京の発達心理学の先生に相談したんです。そうしたら、犯罪心理学の先生を紹介されて。そういう診断を受けました」
「具体的に、その、病気、ですかね? それはどういう内容なんでしょうか」
若い職員が吐き出す。
「共感する能力がないんです。良心というのがごっそり抜け落ちているんですよ」
家に帰ってから、ネットで検索して調べた。けれどネットではセンセーショナルな話題ばかりがヒットして、あてにならなかった。
翌日、図書館で本を探した。
本であっても創作作品ばかりで、そういうものかと諦めかけたその時、鑑別所や少年院で働いたことのある専門家の本に行き当たった。
サイコパス――良心や共感性が欠如する脳の障害をもった人間の性質を指す。恐怖や苦痛も感じにくい。程度の差こそあれ十人に一人は存在し、必ずしも全員が犯罪者になるわけではない。恐怖心がない分、経営者など指導者として果敢に新規事業に着手する手腕を見せることもある。したがって悪として排除することはできない。
あまりのことに、手が震えた。
これだ、と思った。
自分自身が、これだ。
自分は生まれてから一度も他人に共感したことがなかった。そういう情緒のない――特に愛着、愛情を感じない自分を欠陥品であるように思っていて、それだけが人生で唯一にして最大の悩みだった。
妻が自殺した時のことを思い出した。
――泉ちゃんはわたしのことを愛してくれてないの?
わからなかった。
自分には、本気で、わからないのだ。
理解したかった。
わからないことがあるというのが気持ち悪かった。
同じ症状をもつ他人に会ってみたかった。
その日のうちに、例の施設に電話を入れた。
「先日話をした例の子に会わせてもらえませんか?」
すると所長は快諾してくれた。
『そうですね、まずは面会してみてください。ちょっと変わった子ですが根はとてもいい子ですので、どうぞよろしくお願いいたします』
「ちなみに、その子は何という名前ですか?」
『朔くんです。中学二年生の可愛らしい男の子ですよ』
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