第8話 幸運

 広い湯船の中で、朔は手足を伸ばした。

 この檜風呂を独占できるなんて、なんて幸福なことだろう。

 しかも個人宅ながら温泉をひいているらしい。少し温度が高くて肌を柔らかくする湯は心地よく、泉の見た目が若いのは毎晩この湯に浸かっているからかもしれないな、と朔は思った。


 施設にいた頃の入浴は大変だった。人数のわりには狭く、十人以上のこどもがいっぺんに入るというのにシャワーが四つしかない浴室で、芋洗い状態だった。しかも、朔はからだに触られるのが好きではない。小さいこどもたちはべたべたするのが好きなので、朔は時々嫌な思いをしていた。


 べたべたするのが好きなのは何もこどもだけではないか、と思いつつ、湯船に顔を半分沈める。口から漏れた空気が小さなひとつ泡を作って浮かんできた。


 そういえば、施設の男性職員がからだを洗ってくれたことがあった。

 気持ちが悪かったので、朔は所長の前で泣いてみせた。実のところそんなに悲しいとも思っていなかったが――というより朔には悲しいという感情が欠落していたが、快と不快ぐらいはある。不快感を表明するために涙を出して悲しいふりをすることぐらいはできる。

 善良な所長は朔のためにあの男を懲戒解雇した。彼の荷物が事務所から消えたのを見て、ざまあみろ、と思ったのはおぼえている。

 去ってしまえばもうどうでもよかった。

 なつかしい。あれっていつのことだったっけ。忘れた。


 泉はそういうことを求めてこないので、楽だな、と思う。

 自分は運がいい。




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