第5話 チェス

 朔が蔵の中で見つけたチェスでひとり遊んでいると、いつの間にか買い物から帰ってきたらしい文恵ふみえが声をかけてきた。


「朔ちゃん、ちょっといい?」


 朔は顔を上げた。何かあったのだろうか。ふすま越しに返事をする。


「どうかしましたか?」


 するするとふすまが開き、文恵が顔を見せた。

 栗色に染められたショートヘアの、色白で中肉中背の女性だ。年齢は確か四十二歳と言っていたと思う。髪がつやつやしているのと姿勢がいいのとで老けて見えるということはない。


 彼女の表情がどことなく曇って見えた。眉尻を垂れ、口を薄く開けている。


「ね、朔ちゃん、ちょっと思ったんだけど、ちゃんと学校行ってる? 洗濯物に学校のシャツがないんだけど、着替えてないの?」


 朔は少しだけ考えた。この人には何と答えればいいのかな。どうにか安心してほしい。これ以上詮索されたくないので。


 文恵は平日五日間この家にやって来るハウスキーパーだ。だいたい十五年ほど前からこの家に出入りしているらしい。泉は彼女にこの屋敷のいろんなところの鍵を渡していて、どんな場所にも自由に出入りできた。

 普段は昼前に現れて、泉と朔と昼食を取り、夕飯と翌日の朝食を作り置きしてくれる。洗濯や掃除も毎日してくれる。食品や日用品の買い物も全部代行していて、月末にまとめて泉にレシートを渡して精算している、と言っていた。


 業者などは仲介しておらず、泉が個人的に『こづかい』を渡して事実上雇っている状態なので、彼女はこの家で好き勝手食事を取ったり泉や朔とおしゃべりしたりなどできる。

 おかげで朔は文恵のいろんなパーソナルデータを彼女自身から聞かされていた。

 自分の個人情報をこんなに喋って大丈夫なんだろうか。中年の女性というのはそういうものなんだろうか。まあ、他人のことを喋っているわけではないからいいのか。それに朔も泉と文恵のほかに話し相手はいないので、どこにも漏らしようがない。


 朔は彼女がうっとうしかったが、泉に飼われている身なので、泉が信頼を寄せている――たぶん――の文恵とも仲良くしなければならない気がしていた。なんとか平穏な関係を保ちたい。朔はあまり将来のことを深く考えるタイプではなかったが、泉の仲間と敵対できるほど元気でもなかった。将来の安定のためにはこの先もこの屋敷で働くであろう文恵と仲良くしたほうがいい。


「朔はいじめられっ子なので学校が苦手なんです」


 嘘をついた。大昔に施設育ちであることを理由に嫌がらせをされたことはあったが、朔は自分がいじめられていると感じたことは一度もなかった。やり返すからだろうか。朔は殴られたら殴り返すし、最近は聞き流すことも身につけた。


 しかしそんなことなんてまったく知らない善良で優しい文恵は悲しそうな顔をする。


「みんな朔ちゃんが賢くて綺麗だから妬んでるんだわ」


 そうかもしれないし、そうではないかもしれない。

 人間が人間をいじめる理由なんて基本的には異分子の排除だ。だが何をもって異分子とみなすかは人に、または集団による。

 朔は自分の成績を気にしたことはなかったが、もしかしたら同級生よりよくできるのかもしれない。容姿も気にしたことはなかったが、言われてみれば自分はなぜか碧色の瞳をしている。ハーフなんだろうか。朔の親はどこで何をしていた人なんだろうなあ。知っても何がどうというわけでもないけど。泉は知っているんだろうか?


「まあ、そういうことならしょうがないわね。今度先生とお話できるといいんだけど――あ、私がしようか?」

「いえ、ふみさんはお母さんではないので」

「気にしなくていいのよ、私、こう見えて二児の母なんですから」


 そういえば、高校生の息子と中学生の娘がいるらしい。つばさくんと小鳥ことりちゃんだそうだ。そんなどうでもいいことまでおぼえてしまった。いつか会う機会もあるんだろうか。面倒臭いなあ。


 文恵が部屋の中に入ってくる。朔のすぐそばのチェス盤を見下ろす。


「チェス? 朔ちゃん、ひとりで遊んでるの?」

「はい。泉さまがくださったので」

「頭の良さそうな遊びが好きね。うちの小鳥に分けてあげてほしい。あ、翼はそういうの得意だと思う、親ばかかもしれないけどあの子頭がいいの、今だってちょっといい高校に通ってるんだから、東京の私立の高校の寮に入ったんだけど、今度こっちに戻ってきたら――」


 無限に続きそうだった。朔は笑顔を作ることも忘れて聞き流した。


「――で、そんなのどこにあったの?」

「蔵です」


 文恵が目をぱちくりさせる。


「あの蔵入ったの!?」

「入っています。泉さまに片づけてほしいと頼まれたので」


 朔は淡々と答える。


「やだ、勝手に開かずの間だと思ってた。私手伝おうか? それとも朔ちゃんだから特別に信頼してて私じゃダメってことない?」

「はあ、どうなんでしょう。泉さまに聞いてみないとわからないですね」


 もううんざりだ。トイレでも行くふりをして部屋から出ていこうか。


「それにしても、チェスねえ。誰が遊んでたのかな。泉さまがチェスっていうイメージないわ」

「泉さまも遊び方を知らないとおっしゃっていました」

「妹さんたちかな。うちの旦那もそんな頭を使うゲームできないと思うのよね」


 朔はそこでぴんと来た。

 この文恵の旦那と泉の間に何かある。


 文恵はたいていのことはべらべら喋ったが、泉といつどこで出会ったのかだけは話そうとしなかった。

 ただ、本当は聞いてほしいのかもしれない。時々ヒントになるようなことは漏らす。

 けれど、朔が突っ込まなかったら誰も突っ込まないんだなあ。

 朔はそこまでサービスできない。長い昔語りが始まるおそれのあることには触れないほうがいい。


「今度泉さまに聞いてみます」


 たぶん忘れる。


 でも、十五年前か。


 その頃泉の妻だったという紅葉は生きていたのだろうか。


 泉が昨日ぽつりと漏らしたその言葉を朔は聞き漏らしていなかったが、朔はそこにも切り込んでいかなかった。

 どうして自分がそういう態度を取ったのか、朔にはよくわからない。この世にはわからないことがいっぱいだ。


 聞けば文恵は答えそうな気がした。しかしそれはそれで文恵への嫌悪感が増しそうで、朔は、そっちこそ今度機会があったら泉に聞いてみようと思うのだった。


 この家は、朔にとって仮宿ではなくなるかもしれない――どこかにそんな予感がある。最初はどうせまた返されるならと一歩線を引いていたが、もう少し情報を得ておくべきかもしれない。


「あら、もうこんな時間。夕飯作らなくっちゃ」


 そう言って文恵が部屋から出ていったので、朔は内心で胸を撫で下ろした。



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