愛と呼べない夜を越えたい

新巻へもん

望まぬ愛

「ジークよ」

 まだ少年の面影を残す若者が師父の呼びかけに馳せ参じる。枯れ木のようにやせ衰えたナルサスは軽く咳き込んだ。ジークが背中をさすると吐息を漏らす。震える指で本棚の一角を指さした。

「その赤い皮の背表紙の。おお。それだ」


 ジークが分厚い本を手に取り、師に近づいて手渡そうとすると首を横に振る。

「うっかりしておったが、その本は友人から借りたものだった。年は取りたくないものだな。あやつもわしのことをボケたと思うておるだろう。悪いが急ぎ返しに行って貰えぬか」


 友人の居所というのは往復で半月もかかろうかという遠方だった。先日、小間使いのエーナに暇を出したばかりで、師の身の回りの世話をする人が居なくなる。ジークは控えめにそのことを指摘した。ナルサスはかつては何人もの門弟を抱えた大学者だったが、王太子の守り役を務めだした頃から新たな弟子は取らなくなっている。ジークは最後の弟子であり今では唯一の同居人だった。


「わし一人の面倒ぐらい自分でみれるわい」

「しかし、最近はお体の具合が……」

「なんの、ちょっと空咳が続いておるだけのこと」

 老いてもまだ鋭い眼光でジロリとジークを見る。


「わしの言いつけが不満か? そうか夜更けに使いに出るのは面倒だというわけじゃな?」

「いえ。とんでもありません。では。急ぎ行ってまいります」

「おお。持つべきは素直な弟子じゃな。頼むぞ」


 ジークが身支度を終え、袋を背負い腰に剣を下げてナルサスの前に戻ると、書き物机の引き出しから一振りの短剣を取り出す。

「わしが若い頃から愛用しておる短剣じゃ。これには何度か命を救われたわ。持っていけ」


 ジークは恐縮しながらも短剣を受け取る。大事そうに懐にしまうと師にしゃちほこばって頭を下げた。

「ご尊命確かに承りました。しかと預かりものを御友人に渡してまいります」

「ああ。頼む」


 ジークが出かけてしまうと、ナルサスはペンを取り2通の手紙を書き始める。1通を書き終えると丁寧に折り畳み、目の前のろうそくを垂らして指にはめた指輪を押し付ける。もう1通の手紙を書くと封をしたもう1通をくるむようにして同様に封をした。手紙を小さな革袋に入れる。


 部屋の隅にある止まり木に近づきそこで首を傾げてナルサスを見つめる烏の脚に革袋を結び付けた。腕を差し出すと烏は飛び移る。窓に歩み寄り、押し開いた。月が明るく照らし出している。烏の背を愛おしそうに撫でると命じた。

「さあ我が眷属よ。我が主の元へ。幸い月夜だ。迷わず行け」

 

 翌朝、ナルサスは目を覚ますと身支度を始める。廷臣として華美ではないが重厚な趣のある官服に身を包むと静かに時を待った。ほどなく、家の扉を荒々しく叩く音が響き渡る。莞爾とした笑みをたたえるとナルサスは出迎えた。殺気だった兵士は無言で家探しを始める。ナルサスしか居ないことを確認すると縄をかけ連行する。


 そして、朝市で賑わう広場に引き出しナルサスを切り捨てた。


 ジークが師父の死を知ったのは王都にたどり着く直前だった。王命で処刑されたとの報に信じられない思いをする。師父は即位したばかりの陛下が王太子だった頃からの守り役ではないか。確かに宮廷とは陰謀の渦巻く場所だと師父からも聞いている。しかし、あまりに急だった。


 師の罪は尊大で他の廷臣との軋轢を生み国王を惑わせたこと、長年教えていたことに奢り高ぶり陛下をないがしろにしたことなど到底信じられないものばかり。ジークは歯ぎしりをして悔しがる。違う。師父は気高く陛下を我が子のように慈しんでいた。師父を敬愛する念はジークの中で化学変化を遂げる。


 師父に罪をかぶせて死を強制した国王とは何者だ? もはや俺の国王ではなく敵だ。師父の無念は俺が晴らしてやる。師の遺体は無縁者の共同墓地に埋葬されたと聞いたジークは寂れた郊外の墓地で頬を濡らして誓う。いまや形見となった短剣を引き抜くと手のひらを切り自分の血を大地に吸わせた。


 それから3年。


 ジークはようやく千載一遇のチャンスを手に入れる。将軍の一人が不慮の死を遂げ、国王が哀悼の意を表するために墓所を訪れることになったのだ。前日に墓所の清掃を行う下男の作業小屋に忍び込み、あて身を加えて失神させると服を脱がせて身につける。下男には丸1日眠り続ける薬を嗅がせると道具入れの中に押し込んだ。まんじりともせず一夜を過ごす。


 薄汚れた窓の外がようやく白々とし始める。粗末なテーブルに形見の短剣を乗せ、あの夜のナルサスを思い出した。咳き込む背中を撫でた感触が蘇る。わが師よ。天界から見守り下さい。大事な時にお側に居てお守りすることのできなかった不詳の弟子ですが、敵は必ずや取ってご覧にいれます。決意を新たに身を潜めていると小屋をノックする音がした。


「失礼」

 明るい張りのある声が響き渡る。ジークは唇を噛みしめた。まだ国王の到着まで時間がある。このまま返事をしなければ立ち去ってくれるかもしれないが、不審を呼び覚ますかもしれない。


「……はい。なんでがしょう?」

 小屋の戸を開けると若い騎士が立っている。なかなかの美男子が白い歯を見せた。

「ああ。本日、警備をすることになっている者だ。ん? いつもの老人はいかがした?」

「朝からひでえ熱でごぜえやして。へえ。代わりにちょっくら頼むと。へえ」


「そうか。大事無ければいいな」

 目下の者にも丁重な態度を崩さない相手にジークは好感を抱く。

「中を改めさせて貰う。御免」

 するりとジークの脇をすり抜けて中へと入って行った。


 あっと言う間で断るタイミングを逸しジークはその背を視線で追う。まずい。とっさのことで短剣をそのままにしていた。騎士は中を見回すとすぐに戸口に向かって歩いてくる。

「面倒をかけたな。まあ、役目上、形だけは調べないといけないのでね」


 短剣に気づかなかったことにほっとしたジークが息を吐き出し、騎士を通そうと身をよけた時だった。何をどうされたのか、騎士がジークの後ろに回り屈強な腕が首に回されている。抵抗しようとするがまるで歯が立たず、ジークは意識を失っていた。


 ジークが意識を取り戻すと豪奢な絨毯の上に寝ている。ぼんやりとした頭を振って意識をはっきりさせた。そうだ、俺はあの騎士に締め落とされたんだ。起き上がると立派な調度品の置かれた小部屋にいることに気が付く。2脚の椅子が置いてあり、そこに腰掛けた人物が身じろぎした。一人は先ほどの騎士、もう一人は……。


「陛下……」

 憎むべき敵を目の前にして出たのはこの言葉だった。

「ふむ。まだ、余をそなたの王とは認めておるのだな」

「誰が貴様なぞっ!」


 激昂するジークの前に騎士が出ようとするのを国王は手で制止する。

「この短剣を持つということはそなたがわが師の最後の弟子か」

 国王はナルサスの遺した短剣を手にしていた。

「真に惜しいことをした」


「貴様がっ、貴様が殺したくせにっ!」

「ああ。その通りだ。我が手は血に汚れておる。それで、そなたも我が手を血で汚すか?」

 揶揄するような声にジークの頭に血が上った。声にならないうなり声をあげる。


「ナルサスが生きていたら嘆くであろうな。最後の弟子がこのような浅慮では。確かに心根は正しく頭がいいが若さゆえ感情が先走るとも聞いておったが……」

 せめて1発だけでも殴れればと踏み出しかけたジークの足が止まる。自分のことを師が国王相手に話題にしていた?


「この場の状況を考えてもみよ。手足を縛めもせず、この場に余が臨んだはなぜとは考えぬか?」

 国王は何かを騎士に手渡す。

「余が万言を費やすより、その書状を一読するがよかろう」


 騎士が歩み寄り差し出したものの表面に目が吸い寄せられる。見間違えようのない師の字だった。ジーク殿。ジークは震える手で裏面をあらためる。そして師のシグネットリングの形が残る封蝋を見出した。端をちぎって中身を取り出す。ジークは文面を追った。


『この手紙を読んでいるということは、そなたは私の見込みの通り愚行に手を染めているということだろう。この痴れ者め。私の教えを忘れたか。国家に忠節を尽くし命に代えても万民の安寧を守るとの誓いはどうしたのだ? まあ、そなたはまだ若い。一度の過ちなど償えばいい。感情を殺してはならぬ。しかし、溺れてもならぬ。何をなすべきかもう一度よく考えろ。私はこの老骨で陛下に最後の奉公ができることに満足している。唯一の心残りはそなたをもう導けぬことだ。不肖の弟子へ。愛をこめて』


 ジークは穴のあくほど師の手紙を睨みながら考える。そして、一つの結論にたどり着き両ほほから涙があふれ出した。がっくりと膝をつき嗚咽の声を漏らす。ジークは頭ではナルサスの愛を理解するものの、心ではその愛の形を否定していた。


「余は言い訳をせぬ。師が余命いくばくも無かったことを差し引いても余の選択は人の道に外れておるだろう」

 国王は淡々と言葉を継ぐ。

「3年前。余は即位したばかりだった。余の政策がうまくいかず国内に不穏な動きがあった。誰かがその責めを負わねばならなかったのだよ。師は自分が、とおっしゃった。余は、余には過ぎたる師を持った。非才の身が情けない」

 国王の声がほんのわずかに湿る。


「ジークよ。師に代わって余を補佐してくれぬか?」

 ジークは首を横に振る。

「まだ心の整理がつきません。かなうならば、あの日、師父と共に切られたかった。女々しいことと師父は笑われるでしょうが」


 ジークはきっと顔を上げる。

「まだ陛下に虚心坦懐にお仕えすることかないませぬ。それに、まだ未熟非才の身。まだ師父の足元にも及びません。しばしのお時間をいただきとうございます」


「良かろう。だが、浪々の身ではままならぬものだ。そうだな」

 国王は傍らに控える騎士を見やる。

「この男、目端は効くし人格も優れておる。ジークよ。そなたにはこの者の副官を命ずる」


 国王は歩み寄ってくるとジークを立たせ、その手にナルサスの短刀を握らせた。そのまま背後の扉に歩いていく。騎士を従え部屋を出て行き、ジークは一人残された。あの夜、最初からそのつもりでナルサスは短剣をジークに遺したのだ。師よ。私はあなたとは違う。だが、いつの日かあなたを越えてみせよう。傷跡の残る左手に遺品をつかみながらジークは師の幻影に呼びかけるのだった。

 



 

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