愛と呼べない夜を越えたい

野森ちえこ

ふたりの不文律

 男と女がふたりきりで夜を過ごしたといえば、たいていの人は恋愛的なもの、あるいは性的な関係を想像するのかもしれない。

 しかし、それらが存在しない関係もある。あたしにとっての彼がそうだ。

 男とか女とか、好きとか嫌いとか、そういうものにあてはめて考えるだけで、なんともちぐはぐな、とってつけたような違和感がある。

 では仲間か。それとも友だちか。

 否定するほどではないけれど、やはりしっくりこない。

 彼とのあいだにあるこの感覚を、いったいなんと呼べばいいのだろう。

 ただ、とても、とても大切で、特別な存在。それだけは確かだ。


 *


 彼とは、グラフィックデザインを学ぶために進学した芸術大学で出会った。

 なりゆきで参加した新歓コンパで、あたしとおなじく新入生だった彼はひとり、会場の片隅でスケッチブックに鉛筆を走らせていたのである。

 そこに描きだされていたのは、目には見えない空気、音、におい。

 なにげない光景のなかにも喜怒哀楽がとけこんで、息づかいすら聞こえてきそうだった。


 恐ろしいほどの観察力と描写力。

 絵を描くために生まれてきたような人。


 しかしというか、だからというか、彼自身は、レストランなどで注文を忘れられるのがお約束というくらいに影が薄い。最初にあたしの目がひき寄せられたのも、彼自身ではなく、彼のスケッチだった。その吸引力は圧倒的で、めまいがするほどだった。


 あの日、あの瞬間から、あたしは彼の描きだす世界にとらわれてしまったのかもしれない。


 *


 彼はあたしのことを『ミル』と呼ぶ。

 フルネームが瀬和見せわみ 瑠子るこというあたしをそう呼ぶのは彼だけだ。名前ならそのまま『瑠子』と呼ばれることが多いし、苗字も『瀬和』と略されることがたまにあるくらいである。

 あたしはといえば、べつに対抗心から――というわけではないけれど、彼のことは『スイ』と呼んでいる。薄井うすい ともという名の彼をそう呼ぶのは、たぶんあたしだけだ。

 ちなみに彼は、自分の影が薄いのは薄井という苗字のせいだと、わりと本気で信じているらしい。


 どこまでもマイペースで、絵を描くこと以外に興味がない。コンクールにエントリーするのもめんどくさいという彼に代わって、あたしが出品手続きをしてから、もう――何年だろう。六年、いや、七年か。大学を卒業してからも、なんとなくつきあいがつづいている。


 彼の作品は海外での評価も高く、稀代の天才画家とまでいわれるようになってひさしいのだけれど、彼自身は相変わらず、レストランなどではまともに注文もとってもらえないし、絵を描きはじめると本気で寝食を忘れる。ときどき部屋で行き倒れていることがあるくらいだ。

 たいていの場合、空腹でめまいを起こしてそのまま寝てしまうらしいのだけど、こちらの心臓はそのたび、ぎゅるんとちいさくでんぐり返る。

 大学在学中にはじめてそれに遭遇したときは心臓が止まるかと思ったものだが、だいぶ慣れた。慣れたけれど、やっぱり心臓に悪い。

 あたしが早死にしたら、それはきっと彼のせいだ。


 なんにせよ、気がつけば七年である。

 彼の部屋に泊まることもあるし、スケッチ旅行に同行したこともあるけれど、あたしたちのあいだに、恋とか愛とか性が介在したことはただの一度もなかった。この先もたぶんないだろう。


 名前がつけられないあたしと彼の関係。

 そんなのおかしいという人がいる。

 理解できないと眉をひそめる人もいる。

 おたがいのためにも離れたほうがいいと、もっともらしく説教する人までいる。

 それは、いざ恋人らしき相手ができても長続きしないからなのだけど、おおきなお世話である。

 あたしにとって『恋人』と『彼』は、まったくべつの場所にいる。恋人ができたからといって、彼のことを切る理由にはならない。そこを責められると、別れるのは恋人のほうになってしまうのだ。

 あたしの恋愛観が狂っているのかもしれないけれど、だからといって彼との関係を他人にとやかくいわれるすじあいはない。ほうっておいてくれと思う。


 彼は、どうだろう。

 感情の起伏があまり顔に出ない人だからわかりにくいけれど、彼のなかには、驚くくらいおおらかな部分と、信じられないくらい繊細な部分が同居している。

 気にしていないようで、案外気にしているかもしれない。


 それに――最近、ときどき考えることがある。

 あまり想像したくはないけれど、たとえば事故とかおおきな病気とか、立ちあうことがゆるされるのが身内だけという状況になったとき、他人であるあたしは、彼のそばにいくこともできないのだと。逆の場合もそうだ。

 どれほど大切でも。

 どれほど特別でも。

 相手の一大事に、そばにいる権利を持たない。

 社会的には、あたしたちは赤の他人も同然なのだ。


 公的に通用する身内になりたければ、結婚するか養子縁組するかしかなさそうだけれど、さすがに『それなら結婚しましょう』というわけにはいかないだろう。


 季節のせいだろうか。冬を目前にして、そんなふうにすこしばかり悶々としていたある日、生存確認をかねて顔を見にいったあたしに、彼はこんな提案をした。


「もし、十年後もおなじ気持ちだったら、結婚して、家族になろうか」


 それまでは、自分になにかあったら相手を呼んでほしいというメモを、おたがいに持ち歩くようにしよう――と。


「本気?」

「うん」


 ものすごくあっさりうなずかれた。


「べつに、今すぐしてもいいんだけど。結婚してると、恋愛も不倫ていわれるでしょ。それに、ミルは女の人だから、子どもを産みたくなるかもしれない。だから、とりあえず十年かなって。おれはたぶん、普通の人とは一緒になれないし」

「それって、あたしは普通じゃないっていってる?」

「……普通なの?」

「いや、そんな真顔で聞かれても困るんだけど」


 つきつめていけば、そのうち『普通とは?』などという、哲学チックな話になってしまいそうだ。が、彼にもあたしにもそんな気はないので、話はさっくりと流れていく。


「ミルはさ、おれがほかの女の人となかよくしても平気でしょ。たとえば、結婚してても」

「そうだね」

「おれもそう。だから、ミルと家族になるための結婚なら、たぶんおれにもできる」


 恋が熟して『夫婦』になるための結婚ではなく、政略結婚なんてものでももちろんなく、ただ、社会に通じる『家族』になるための結婚。


「でも、ミルには、ちゃんと結婚したくなる相手がこれからできるかもしれない。ミルと家族になれたらうれしいけど、ミルが女の人として、ほんとうに好きになれる相手ができたら、それもやっぱりうれしい。どう転んでも、ミルがしあわせなら、きっとおれはうれしいと思う」


 ああ、スイだなと思う。

 この七年のあいだに、いつのまにかできていた不文律。

 約束をしないという約束。


 あたしたちはべつに、恋愛感情を持たないときめているわけではないし、セックスはしないと約束しているわけでもない。ただ『そうならない』だけだ。気持ちとか、雰囲気とか、そういう流れにならないだけ。


 彼の提案にしたって、あくまで『可能性』のひとつなのだ。

 十年後。実際どうなっているかなんて誰にもわからない。

 なにも変わっていないかもしれないし、なにかが決定的に変わっているかもしれない。


 友情とも愛情とも呼べない。

 名前も約束もない。

 ひどく曖昧で頼りない。

 それでも、確かにあたしたちをつないでいる『なにか』があって、それはいつか『家族』と呼ばれるものになるかもしれない。


 ぜんぶ『かもしれない』だ。そして、それでいいと思っている。


「朝焼け」

「……スイ?」

「ビルの屋上、かな」


 どうやら、話しているうちになにかイメージが浮かんだらしい。

 脳内に見えているのだろう景色のスケッチをはじめてしまった。こうなると、しばらくは誰の声も、どんな音も彼の耳には届かない。


 さて、それじゃあ――せっかくだ。食事のしたくをして、奥さんごっこでもしてみようか。


 十年後。この関係がどう変わって、どう変わらないのか。そのとき、彼はどんな絵を描いているのか。

 なんだかとても、たのしみだ。



     (おわり)


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