<下> ヒーローに、なりたかったんだ。

 ――ヒーローに、なりたかったんだ。


 幼い頃の夢だった。

 べつに、大した理由があるわけではない。物語の主人公を見て、息をするように他者へと手を差し伸べられる人を見て、自分もそんな風に在りたいと思う、そんなありふれた憧れだった。

 もちろん、現実ではそんな在り方ができる人なんてそうそういなくて、ヒーローが美しい在り方をしていられるのは、物語の主人公だからなのだと分かっている。

 現実には物語のように斬新な解決法や完全無欠なハッピーエンドはなく、妥協点を見つけ、折り合いをつける作業になると分かっている。

 それでも俺は、あんな風になれたらと願った。


「君の性質を見込んで、私はここに来た」


 俺が高校生にもなってそういう願いを宿した変人だったからなのだろう。その男は、感情の読めない薄い笑みを浮かべて俺の前に現れた。


「――今から君に話すのは、この世界の真実だ」


 突如として現れた『非日常』は、どこからともなく現れる異形の怪物――魔物から、世界を人知れず守っている異能力者の存在を語る。そして俺には、異能力者の素質があるという。


「決めるのは君だ。現状、この街の守護者はいない。異能力者も数が少ないからね、すべての街を守るほどの余裕はない。この街に魔物が現れれば、きっと誰かが死ぬ。存在ごと抹消され、一般人はそれを認識すらできないだろう」


 正直なところ、物語のような展開に、憧れや高揚感がなかったと言えば嘘になる。


「私たち異能力者の仕事は、そんな魔物どもの手から一般人を守ることだ」


 そんな俺の性質を、こいつらが利用しようとしていることも分かっている。


「――君は、この街を守るヒーローになれる」


 だけど男の話が本当だとするなら、それは確かに、俺の願いを叶える手段だった。


 そうして俺は異能力者に覚醒し、街にたびたび出現する魔物どもを駆除していった。

 誰かを助けたところで、これまでのように感謝されることはない。魔物の存在は、異能力者でなければ記憶に留めておけないからだ。

 けれど、それでも良かったのだ。俺は見返りが欲しかったわけじゃないから。


「……そう、だよな」


 雨が降り出した。

 しとしとと雨粒が体を叩いていく。

 脳裏に過るのは後輩の怯えた顔だった。

 それを思い出すと、ひどく胸が痛む。なんて間抜けなことだ。どうして気づかなかった。怪物のような腕を手にした時点で分かるはずだろう。

 俺はバケモノから人を守るヒーローになったつもりが、バケモノになっていたのだと。

 きっと、後輩は今日のことを覚えていない。

 魔物のことを記憶に留めておけず、必然的に俺の異能力についても忘れるだろう。けれど俺に感じた恐怖まで消せるわけじゃない。

 俺という存在は得体の知れない何かだ、という感覚はこの先ずっと抱くことだろう。

 もう俺に関わるな、と改めて宣言もした。

 だから大丈夫だ。

 もう、後輩を戦闘に巻き込んでしまう心配はない。

 これでいいんだ。

 そう、最初から関わるべきじゃなかったんだ。

 だから彼女に怖い思いをさせてしまった。

 俺が馬鹿だったのだ。


 ――ある時から、街を守るために多くの魔物を殺した俺自身も魔物の標的となった。だから他者を巻き込まないように、慣れない不良の恰好をして人を遠ざけ、拒絶した。


 金髪に染め、ピアスをつけ、煙草を吸った。

 もともと大柄な体格だったし、後は威圧的な雰囲気を作るだけで人は寄り付かなくなった。

 これでいい、と思った。


 俺はそうやって一人になった。

 それから、ずっと一人で生きてきた。

 あの不思議な後輩が俺の前に現れるまでは。


「……だから、関わるべきじゃなかったんだ」


 俺は自嘲する。振り続ける雨の中で。一人、立ち尽くしながら。


 ――その場所の、居心地の良さを知ってしまった。


 だから今、それを失ったことに胸が痛む。喪失感を抱いてしまう。

 俺はバケモノだ。

 ヒーローになりたくて、バケモノになった愚か者だ。

 それでも皆を守れるのなら構わない。

 そう思っていたのに、俺は。


 ――バケモノにヒトと関わる資格はない。


 未練など捨てろ、と自分に言い聞かせた。


 ◆


 屋上に昇って。

 暑苦しい風を、体に浴びる。もう夏だ。いくら塔屋の日陰があっても焼け石に水。昨今の夏はエアコンがなければ耐えられない。秋になるまで、ここに来ることもなくなるだろう。

 扉を押し開いた俺は、そのまま真っ直ぐ前へと進み、落下防止の柵越しに景色を見る。

 いつもと何も変わらない『日常』の風景。他の誰かが見ても、きっと何とも思わない光景。けれど俺にとっては命を賭して守ってきたものだ。

 感傷に浸る程度は許してほしい。


 煙草に、火をつける。

 後輩と知り合ってからは、ここで吸うことも少なくなった。

 というか別に、吸わなくても構わないのだ。半ば義務感で吸ってはいるが。

 俺の異能力は体を獣のように強化するもの。それも右腕を起点とするのが得意だ。右腕に限れば、いろいろな獣の力を組み合わせることもできるが、見た目は怪物のようになる。

 見栄えが悪くとも、必要なのは力だ。だから俺は屋上で動物についての知識を深め、異能力を使うために必要な想像力を高めていた。

 この異能力は使う意識がなくても、副産物として日常生活でも自然と五感が鋭敏になる。つまり鼻が良い俺に、煙草の匂いは強すぎる。

 後輩の前で煙草を吸わなかったのは、彼女の匂いを煙草で塗り替えたくなかったからだ。鼻の良い俺にとって、人は匂いで判別できる。

 後輩からは良い匂いがした。どこか安心できるような、癒されるような、暖かなもの。

 そんな彼女の匂いを、穢したくなかった。

 もう、そんな思考に意味はないけど。

 最後の煙を吐き、吸い殻を灰皿に入れる。

 もう、ここで本を読むには暑すぎる。そんなことは分かっていたのに、どうして来てしまったのだろうか。自分に問うまでもない。

 しかし俺の鋭敏な五感は、誰かが階段を昇ってきたらすぐに察知できる。だから、いつもの時間が過ぎても彼女が来ていないことは、分かっていた。


「……馬鹿だな、俺は」


 自嘲するように呟きつつ、振り返る。


「――そうですね、先輩は馬鹿です。ほんとに」


 聞こえるはずのない声が耳に届いた。

 顔を上げると、塔屋の横にいたのは短めの黒髪に可愛らしい顔立ちをした少女。彼女は最初から、そこに座り込んでいた。扉からだと死角になる、いつも俺が彼女を待っている場所で。


「お前、どうして……いや、大丈夫か?」


 じとっとした目で俺を見ている彼女はめちゃくちゃ汗をかいていた。当たり前だろう。今日はとくに暑い日だ。日陰とはいえ、こんなところにずっといたら熱中症になってもおかしくない。


「大丈夫です」


 後輩はムッとしたように言い返してくる。

 昨日までと同じような様子に、違和感。


「……何でここに来た。もう俺には関わるな、そう言ったことを覚えてないのか?」

「覚えてますよ。なぜだか、それ以外のことはあんまり思い出せませんが。……これは勘ですけど、たぶん、そういうものなんでしょう?」


 思わず、言葉を失った。

 非日常への――普通なら考えられないものに対して、そんな容易に認識できるものなのか。


「言っておきますけれど、これまでの先輩の大怪我の頻度と回復力の時点で、異常ですよ。その前提がなければ私もこんな突飛な発想には至りません……でも、当たりみたいですね」

「……訳が分からない、と言ったら?」

「確信していますから。それに記憶がないとは言いましたが、不自然に消えている『何か』以外のことの記憶はぼんやりとあります。その記憶とこれまでの先輩の様子を組み合わせて考えれば、ある程度の推察はつきます」

「そうかよ……」


 本音を言えば、来てくれたのは嬉しかった。

 だけど俺は、彼女を否定しなければならない。


「なぜ、ここに来た」

「先輩と話をしたかったからです」

「もう関わるなと言ったはずだ」

「それに頷いた記憶はありません」

「理解しただろう。俺はお前とは違う。ヒトならざるバケモノだ――生きる世界が違う」

「先輩はバケモノなんかじゃありません」


 後輩はそう言って、ゆっくりと首を振った。


「――だって、私を助けてくれたんでしょう?」


 不自然に消えた魔物の記憶は、魔物に感じた恐怖の感情は、記憶の整合性を取るため、その場にいた俺に押し付けられるのが普通だ。

 だから、たとえ魔物から窮地を救った人がいたとしても、翌日には俺のことを怖がり、怯えて去っていく。そんなことを繰り返してきた。

 後輩も、その例に漏れないと思っていた。


「馬鹿に、しないでください。私は先輩のことを知っています。たとえ理由なく先輩のことを怖いと感じたとしても、私はそれに納得なんてしない。何より私は、貴方がずっと、私の知らない何かと戦っていたことを知っています」


 しかし後輩は、怯えていない。


「私は不自然な恐怖よりも貴方を信じる」


 彼女は一歩、俺に近づいてくる。


「来るな」

「嫌です」

「俺はお前を受け入れられない。俺の傍にいたら、きっとまた、お前を危険に晒す」

「私は、先輩のその選択を受け入れません。私はもう、貴方を一人にしないと決めた」


 もう一歩。

 これ以上、近寄らせてはいけないと思った。


 異能力を起動する。

 体の内に潜む獣が俺の右腕を浸食し、異形のものに造り替えていく。

 後輩の目が見開かれる。

 魔物とともに異能力に関する記憶が消えた以上、この腕を目にするのは初めてだろう。


「怖いか?」


 鋭い爪の先を、後輩へと向ける。

 この右手は触れただけでも人を傷つける。

 同じように――俺に関わり続ければ、きっと彼女は傷ついていく。

 この右手は、俺という存在の象徴だ。


「怖く、ないです」


 ふるふると首を振り、彼女はまた一歩。

 俺に――近づいてくる。

 その瞳に、本当に怯えはなかった。


「どう、して……」

「最初は怖いと、少しだけ思いました。でも、違うんです。たとえ、どんなに鋭い爪だったとしても、貴方は私を傷つけないと知っています」


 俺にはもう、後輩の歩みを止められなかった。


「だから――怖くなんて、ないです」


 いつの間にか目の前にいた後輩が、俺の怪物のような右腕に触れる。慈しむように。


「それよりも私は、先輩を一人にしてしまうことの方が怖い。貴方が今と同じ生き方を続けてしまうことの方が、ずっと恐ろしい」

「俺は、一人でも大丈夫だ」

「先輩は、そんなに強い人じゃないです」

「……俺は、誰かを助けたくて、皆を助けられるようになりたくて、この力を手に入れた。だけど違った。俺は間違えたんだ。ヒーローになったつもりが、バケモノになっていたんだ」


 それは、もう、いいんだ。

 俺はバケモノのままでいい。

 バケモノの俺はヒトを救える。

 ヒトにとっては同じバケモノだとしても。


「……嫌なんだよ、俺は。俺がバケモノだとしても、俺のせいで傷つく人だけは見たくない」


 それはヒーローになれなかった証明だ。

 頼むよ、と俺は後輩に言う。


「――俺を、本当のバケモノにしないでくれ」


 俺は一人で生きていく。

 これから先もずっと一人で戦っていく。

 誰かの支えなんて必要ない。


「もし先輩のことを、バケモノだという人がいたとしても、私を助けてくれた先輩は、私にとってのヒーローです。それは否定させません」


 必要ないと思っていたのに。

 後輩は必死に、訴えかけてくる。


「私が先輩の傍にいるのは私の意志です。私の選んだ道です。もしそれで傷つくことがあったとしても、それは私の責任です」

「……だと、しても」


 守れなかったら嫌なのだ。

 傷ついてほしくない。苦しんでほしくない。悲しい顔をしてほしくない。後輩には穏やかな『日常』で笑っていてほしい。

 たとえ、そこに俺がいないのだとしても。


「――先輩のせいで私が危険に巻き込まれたとしても、貴方は助けてくれるでしょう?」

「助けられるとは限らない」

「助けようとしてくれるだけでいいんです」


 私はそれで救われる、と後輩は言う。


「もし、それが認められないのなら、ちゃんと助けてくださいよ。ヒーロー、なんですよね?」


 堂々巡りの会話だった。

 平行線だ。この対話に結論は出ない。


「これは、恩返しです。私は、私のヒーローを支えます。だって、救われたんですから」


 それでも。

 バケモノの俺が、バケモノに堕ちたと思っていた俺が、後輩のヒーローになれたのなら。


「だから私は、絶対に先輩から離れません」


 バケモノの俺がヒーローで在ろうとすることを、受け入れてくれる少女がいるのなら。


「今の先輩は傷ついていて、苦しそうで、寂しそうで……見ていられないんですよ。先輩は気づいていないのかもしれないけれど」


 俺には、それを否定できない。


 だってそれは、いちばん最初の願いだから。


 彼女はそっと、俺の体を抱き寄せていく。


「傍に、いてくれるのか?」

「言いましたよね。もう、一人にはしない」

「ヒーローだと、思ってくれるのか?」

「先輩が、そう在ろうとしてくれる限りは」


 ……ああ、分かっている。

 もう俺には、彼女を拒絶できない。


 ――だったら、絶対に守るという覚悟を決めろ。


 それだけの努力をして、結果で示せ

 孤独の枷を外す代償は重かった。

 その上で、分かったよ、と俺は言った。


「俺がお前を守ってやる」

「はい。私が貴方を支えてあげますね」


 花のように笑った後輩に苦笑を零す。

 俺に抱き着いていた彼女は、そのまま背伸びをした。


 ふわりと漂うのは、後輩の匂いだった。

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先輩ヒロイズム 雨宮和希 @dark_knight

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