<中> 先輩の謎と、決別。
それから私は、放課後に何度も屋上を訪ねた。
先輩はいつも気怠そうな顔で本を読んでおり、私を見ると呆れたようにため息をつく。
そのあからさまに鬱陶しげな仕草は、むしろ先輩が本当に嫌がっているわけじゃないと分かるから、私はいつも無視して隣に座る。この人も難儀な性格をしているものだ。
私はいろんなことを尋ねた。
先輩を知ることで、先輩への理解を深めようとした。先輩は面倒くさそうではあったけれど、問いにはきちんと答えを返してくれた。
しかし、そうやって先輩を知っていくほど、理解が深まるどころか、むしろ謎めいていくような気がする。だから私は、もっと先輩のことが知りたいと思った。そうすることで、あの日の寂しげな笑みの正体に、少しでも近づきたかった。
そんな、ある日のことだった。
屋上の扉を開くと、煙草の匂いがした。
ひょこっと扉の横に顔を覗かせると、先輩がゆっくりと煙草の煙を吐いていた。そういう不良らしい一面を見るのは初めてだった。
「……驚かねえんだな」
「不良ぶってる先輩が煙草吸ってたぐらいで驚くような後輩じゃありませんから」
「そういうもんかね」
「先輩こそ、驚かないんですね。私じゃなくて先生とかだったらどうするんですか?」
「そんなことはねえから大丈夫だ」
「ふうん……?」
私は納得しかねて首をひねり、「あっ」と気づいて口元に手を当てる。
「も、もしかして私、臭いますか!?」
制服の匂いをくんくんと嗅いでいると、きょとんとしていた先輩は噴き出した。
「あ、ちょっと! 何笑ってるんですか!?」
「煙草吸ってる奴を差し置いて、自分が臭いかどうか気にするとは思わなかったよ」
「だ、だって……先輩、見る前から私だと分かってるみたいですし」
「別に臭くはねえから安心しろよ。だいたい、この煙草の方がよっぽど臭えからな」
「えー、じゃあ何で私だって分かるんですか?」
「んなもん気配だ気配。つーか、そもそもここに来る奴なんてお前しかいねえよ」
そう言いつつ先輩は煙草の火を消し、吸い殻を携帯灰皿に放り込んだ。その様子を眺めていると、自然と口角が上がってきた。何だか嬉しくなってニコニコしてしまう。
「……何笑ってんだ、お前。気色悪いぞ」
「えへへー」と笑いつつ、私はくるりと回転しながら先輩の隣に座り、その顔を覗き込む。
「先輩、私のために煙草を消してくれたんですよね?」
「アホか。単に吸い終わっただけだ」
「嘘。まだ長かったし、火つけたばかりって感じだったじゃないですか」
「そういう煙草なんだよ。見た目より早く吸い終わるんだ」
「否定しなくてもいいのに」
と言って唇を尖らせていると、私は先輩の首元に包帯が巻かれていることに気づいた。
「……先輩、どうしたんですか? その傷」
「あん?」
先輩は一瞬、「何の話だ」と眉を顰めた後、私の視線を追って首元に手を当てる。
「ああ、これか。……大したことねえよ。こんなもん舐めときゃ治るんだが、やたらと心配症のバカがいるからな。仕方なく包帯巻いてんだよ」
「本当ですか……?」
私は先輩の首元に顔を寄せ、じろじろと観察する。やっぱり、そんな軽い怪我じゃないような気がする。しかし先輩は傷を隠すように、身をよじって逃げてしまう。
「あっ、何で離れるんですか!?」
「単純に近いんだよお前。俺が男だってこと忘れてねえか?」
どういう意味なのか、一瞬分からなかった。けれど、すぐに気づく。もしかして先輩は私のことをそういう目で見ているのだろうか。何だか急に顔が熱くなってきた。
「い、嫌ですねぇ先輩。もしかして私のこと意識しちゃってるんですか? きゃー」
からかうように言いながら、自分の顔が赤くなっていないかどうかが気になる。
今まで何ともなかったのに、どうして急に心臓が高鳴り始めたのだろうか。
……分からない。先輩と一緒にいると、知らなかった感情ばかりが湧いてくる。
「そりゃ、お前ぐらい可愛い女が近くにいりゃ、健全な男なら意識するんじゃねえのか」
「か――可愛い……? 私が、ですか?」
何で私はこんなにも狼狽えているのだろう。今すぐ逃げ出したい気分だった。自分の容姿が客観的に見て悪くはないことぐらい、もちろん分かっているつもりだったのに。
頬がさらに熱を持っていくのを感じる。だから私はその事実を隠そうとして俯き、体育座りで顔を半分ほど覆いつつ、先輩を上目遣いで見る。決して、あざとくはない。
先輩も少し照れているのか、なぜだかそっぽを向いていた。良かった。私は動揺を悟られないように、顔を逸らしつつ話題も逸らした。
「ていうか、心配症のバカって誰のことなんですか? 何だか女の気配を感じます!」
あれ?
話題、変わってなくない……?
動揺のあまり思ったことをそのまま口に出してしまったけれど、これではまるで私がその女に嫉妬しているように見えるのでは……。
「ただの腐れ縁だよ」
「否定しないってことは、女の子なんですね?」
「お前が期待するようなことは何もないぞ。幼稚園の頃から一緒の幼馴染ってだけ」
「……結婚の約束とかしてないですよね?」
「…………してないぞ」
「――ダウト! すっごい間が空きましたよ今!? 絶対してる! 何で嘘ついたんですか!? 私は誤魔化せませんからね!」
「昔の話だぞ。きっとあいつは覚えてねえしな」
「ふーん……」
何だか面白くない気分だった。思わず唇を尖らせてしまう。
どうしよう。
自分で自分の行動が分からない。
というか、嫉妬しているようにしか見えない。
でも、先輩とはまだ会ったばかりだ。だから知ろうとしているんだし、あくまで人間として興味を持っているだけ。そう、私の好奇心旺盛な性格ゆえのものだ。
決して、す、好き……とか、そういうことじゃない。
ぜんぜん違う。
私はそんなにちょろい女じゃない。
……ぜんぜん、ではないかもしれないけれど。
いやいや、違うはず。何で混乱してるの私。
「――で、結局どうして包帯を巻くほどの怪我をしてしまったんですか?」
こういう時はそう、話を元に戻すことだ。
「何だかんだで喧嘩するような人には見えないですけど」
「……売られた喧嘩は買うさ」
先輩は首元の傷を触りながらそう言って、一瞬だけ鋭く目を細めた。ずっと先輩を注視していなければ、気づかなかっただろう。身が竦むほどの、その視線の冷たさに。
「……そういやお前、部活入らなかったのか?」
「はい。中学の時はいちおうバスケ部だったんですけど、高校で続けるほど上手くはなかったので。だから先輩と一緒に帰れますよ?」
「別に嬉しくはねえな」
「またまたー、照れちゃってー」
「――後輩」
断ち切るように。
先輩は、真剣な顔で私を見た。
「どうせすぐに離れていくと思って気にしていなかったが……これからも俺に関わるつもりなら、それは受け入れられない」
「どうして、ですか?」
息が止まるような思いだった私は、乾いた声で、どうにかそれだけを口に出す。
理由を問われた先輩は何かを言おうとして、しかしいったん口を閉ざし、こう言った。
「鬱陶しいんだよ、お前。俺はひとりが好きなんだ。――いいか、もう、俺に関わるな」
その顔はあの日の帰り道、私の前から去っていった時と同じような、寂し気な笑みだった。
「な……」
私は言葉を失う……ようなことはなかった。
「何ですかそれ! ふざけんなですよ!」
「は……?」
覚悟を決めたような顔から、ポカンとした顔になる先輩に、さらに苛立ちが募る。
「バカなんですか! 先輩がそんなこと思ってないことぐらいバレバレなんですよ!」
「何言ってんだ、俺はお前なんかどうでも……」
「嘘つかないでください! 私のこと可愛いって言ってくれたじゃないですか! それともアレは嘘だったんですか? 答えてください!」
「嘘……に、決まって」
私が頬を膨らませてじぃっと先輩を見つめると、先輩は諦めたようにため息をついた。
「私を突き放す気なら、もうちょっとそれらしい雰囲気を作ってください。設定もちゃんと練ることをお勧めします。無理があるので」
先輩は気まずそうに顔を逸らした。
「……俺に、関わらない方がいいのは本当なんだよ。たぶん、後悔する。警告はしたぞ」
「どうせ私を、その不良の喧嘩に巻き込んだりしたら危ないからとか言うつもりでしょう?」
先輩は驚いたように目を瞠る。私はふんと鼻を鳴らした。短い間だけれど、私は先輩のことを観察していたのだ。そのくらいは分かる。
「中身はぜんぜん不良っぽくない先輩がわざわざ目立つ格好してる理由なんて、人を近づかせないようにしてるぐらいしかないですし」
でも残念でしたね! と私は言葉を続ける。
「私は、先輩の傍から離れる気ないですから!」
◆
その日の夜、ほとんど告白紛いの言葉を思い出して悶えることになったのはさておき。
そうして私は、これからも先輩と一緒にいる権利を手に入れた。昼休みに教室へと特攻して一緒にご飯を食べましょう! と主張し、放課後には屋上へ昇って本を読む先輩を観察し、夕暮れが空を染める頃には一緒に帰り道を歩む。
そんな日々に、私は満足していた。
少なくとも最初は、私は幸せだと感じていた。
そうして桜が散り、梅雨が明け、日差しの強さに夏の気配を感じ取れるようになった頃。
もうそれを無視することは、できなかった。
「……おかしい、ですよね」
ぽつりと、私は呟く。
いつも通りの帰り道のことだった。
「そんな……大怪我、不良同士の喧嘩ぐらいでできるものじゃないですよね。一回ならともかく、何度も何度も。それに……」
その言葉に、松葉杖をつく先輩は足を止める。
「そう、だな……」
今度は、足の骨が折れていたらしい。私が先輩と知り合ってから、たったの三か月。その短い月日の中で、先輩は何度も大怪我を負っていた。
それも普通に考えれば全治数か月でもおかしくないほどの怪我を、何度も。――そう、おかしいのは怪我の頻度だけじゃない。
「分かるよな、やっぱり。誤魔化すのにも限界があるのは分かってたんだが……」
先輩が、足を止めて私を振り向く。
こつん、と松葉杖をつく音がやけに耳に残った。
空を黄昏色に染める夕焼けが先輩の影を伸ばす。逆光でその表情はよく見えなかった。
「いえ、いいんです」と私は首を振る。
「そっちは、別にいい。でも――怪我をしてしまう理由は教えてほしいんです」
いつだって先輩が大怪我をするのは、あの日の帰り道と同じように、私を置いてどこかへ走り去ってしまった翌日のことだった。
「先輩は、何と戦っているんですか……?」
私の問いを受けてしばし言葉を失っていた先輩が何かを言おうとした――瞬間。
僅かな、空気の変質。
それを私も感じ取った。
先輩はとっさに空を仰ぎ、苦渋の表情を浮かべる。
「……ごめんな」
それは拒絶。あの日の帰り道と同じ、私を巻き込むことはできないという意思表示。
どこかへ駆け出そうとしていた先輩は、しかし足を止める。
「まずい……」と呟き、焦ったような表情で私に告げた。
「後輩! 今すぐ走って逃げろ!」
早く、と先輩が叫んだ瞬間のことだった。
『それ』は、私の真後ろに出現した。
――まず感じたのは、圧倒的な違和感。
この世にあってはならない存在が、今ここにありえてしまっていることへの異物感。歪んでしまった世界に対する恐怖、嫌悪だった。
振り向くとそこにいたのは、おどろおどろしい姿の『怪物』としか形容できない何か。
硬直する。蛇に睨まれた蛙のように。存在として負けているという直感。私はここで死ぬのだという、それは何の理屈もない確信だった。
けれど、その確信は一瞬で破られる。
怪物に、私の真後ろから駆け抜けてきた先輩の拳が叩きつけられた。
十数メートル級の大きさを誇る怪物が、矮小な人間の拳で吹き飛んでいく。
それは異常な光景で――けれど、これ以上なく納得できる光景でもあった。
「先輩……その腕は」
掠れた声で、尋ねる。
怪物を殴り飛ばした先輩の右腕は、竜を思わせる緑の鱗に覆われ、爪は鋭利に尖り、肥大化したことによって半袖のシャツが破れていた。
それだけではない。怪物のような右腕を起点するように血管が浮き上がり、鋭く伸びた八重歯が覗き、目は爬虫類のように変化している。
「ああ……これは、怪物の腕だ」
一瞬遅れて、投げ捨てられた松葉杖がからからと音を鳴らす。右足を気にして体重をかけないようにしているらしい。どうにか動けはするものの、まだ治りきってはいないようだった。
「――後輩、ごめんな。やっぱり無理か。俺の力が足りないから、結局、巻き込んじまう」
私は、体の震えが止まらなかった。
悲しそうな顔をする先輩に、何も言葉を返せない。
「……そうだ、お前が聞きたかったことの答えは、もう分かっただろ。――怪物の相手は怪物がやる。それだけだ。決して、お前が気にするようなことじゃねえ。……分かっただろ? 俺とお前は違う生き物だ。生きる世界が違う」
だから、と先輩は続けた。
さっきのように覚悟のない言葉とは違う。今度こそ拒絶の意志を示して、明確に告げる。
決別の言葉を。
「――もう、俺に関わるな」
先輩は前へと、足を踏み出す。
体勢を立て直した怪物と、相対する。
私は動けなかった。硬直したまま、先輩と怪物の死闘を眺めていた。
そうしているといつの間にか、周囲には誰もいなかった。先輩が私を巻き込まないように怪物を誘導してくれたのだろうと気づいたのは、夜になってからだった。
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