ただその一点の色彩

「この子に釣り竿を買ってやりたいんだが」

この子、と言われる年齢でもなかったので苦笑した。あんなことがあった後なのに奇跡的に営業していた釣具屋で、店員は「いいですね、ご予算は?」と古賀に聞き返した。

それをぼんやりと聞きながら、目の前に陳列されたルアーを手持ち無沙汰に眺めた。毒々しい色が、なんとなく目に焼き付いた。


「え、払いますよ」

釣竿を選んだ古賀がスマートに支払いを済ませてしまったので、葛原は慌てた。

「いいんだ。そう値が張るものでもないし、付き合わせてしまったから」

「嫌々来たわけじゃないですよ。……でも、じゃあ、ありがとうございます」


見繕ってもらった釣竿を片手に車に戻った。手に馴染む細長い棒の感触に記憶の奥の方の何かがひっかかった気がしたが、すぐに忘れた。

憎たらしいほど心地よい、からりと晴れた日だった。

少し開けた窓から5月の涼やかな風が流れ込む。一番好きだったはずのこの季節を、以前のように愛おしいと思える日が来るのだろうか。フロントガラスを流れる若葉がよく映えるのを無感動に眺めていた。


釣りに行かないかと、ひとまわり年上の上司に誘われたのは2週間ほど前のことだった。あの事務所に、2人だけだった。ほとんど機能していない日常の中で、なんとか見つけた仕事にしがみついている時だった。

「釣り、ですか?」

「そうだ」

どうして急に、と思ったのが顔に出ていたのだろう。古賀は線の細い顔を綺麗に歪めて笑った。

「いや、最近行ってないなと思って」

「よく行かれてたんですか」

「まあ、そうだな」

古賀の趣味が釣りだなんて初耳だったし、こんな時に釣りなんて……と思わないでもなかったが、行きましょうと応えた。なんとなくだった。


「できるだけ近場を探しましたが、それでも辿り着けるかどうか」

「構わないよ。その時はその時だ」

隣から答えが返ってくる。助手席に古賀が乗っているのが目新しくて目を細めた。

「なんだ」

「いや、スーツじゃない古賀さん見るの初めてだなと思って」

「そういえばそうだな」

「なんか、不思議な感じです」


車は何事もなく目的地に到着した。ドアを開けると水の音がして、渓流の気配がする。木々の中を少し歩くと、ぱっと視界が開けた。


穏やかな景色だった。水は凸面を為して盛り上げたようになって、下へと流れていく。青い美しい苔が、岩の一つ一つを覆っている。水しぶきが辺りの空気を湿らせていた。


こんな場所があるなんて知らなかったと話しながら準備を始めた。古賀の手つきは覚束なかった。危なっかしい手つきで釣り針と餌と格闘しているのを見て、あれ、と思う。

「俺やりますよ。ここ、真ん中通すようにしてください」

見かねて手伝えば、古賀は目を丸くした。

「へぇ、うまいな」

「古賀さん、釣りよく来るんですよね?」

「……実は、そんなにやったことがないんだ」

「え?」

そういえば。釣竿を選んでいる時も店員に勧められるがままに決めていた気がする。どうしてそんな嘘を……と考えて、すぐに思いあたった。

(そうか、これはこの人なりの気遣いだったのか)

うまく息抜きが出来ていない自覚はあった。眠りも浅く、途切れ途切れだった。見抜かれていたのだ。この不器用な上司は、だから葛原を連れ出したのだった。

慣れているだろうからと任せてしまった準備のあれこれも、調べながらなんとか整えてくれたのだろうか。そう思うと、あたたかいものがじんわりと胸に広がった。だから気持ちが緩んだ。緩んでしまった。

「どうして釣りだったんですか」

「ゆっくりできると思ったんだ」

古賀は気まずそうに身動ぎした。

水面に糸を垂らして、並んで座る。たしかに、時間の流れがゆっくりだった。まるで何も起きなかったみたいに、ここだけが切り離されたみたいに、穏やかだった。

「まさか葛原が釣りに詳しいとはな」

「詳しいってほどじゃないです。昔よく連れて行ってもらってて。最近はあまり来てなかったんですが」

あ、と思った。最後に釣りに行ったの、いつだっけ。



あったものがなくなるというのは、最初からないものがないのとは全く違う。街を見遣る度、テレビを点ける度、強制的に思い知らされるのだ。決して忘れさせてはくれない。片時も。「被災した」と言ってしまえばそうなのだが、その語彙だけには託しきれないほどの出来事と感情が、そこにはあった。


あの日。日本を未曾有の災害が襲った。地震。津波。真っ黒な波が、瞬く間に何もかもを流してしまった。

数年前に他の地域でも同じようなことがあった。当時、葛原が住んでいた地域も揺れたし、しばらくは計画停電などがあって不便だった。だから大地震がどういうものか分かった気になっていた。知った気になっていた。


あの日。葛原が行く予定だった客先に同僚が行った。手が空いたからと急遽代行を申し出てくれたのだ。礼を言って、葛原は彼を行かせた。


あの日。葛原は全部見ていた。事務所で、街が飲み込まれていく様子を呆然と眺めていた。

訪問先は、街まで下ったところにある工場だった。自分が行っていれば、と何度後悔したかわからない。彼は消息不明だった。彼だけではない。葛原に釣りを教えてくれたあの人も、ずっと連絡がとれなかった。どうか、どうか生きていてほしいと祈り続けた。報せが入って、3日前に葬儀があった。

葬儀は近くの公民館で行われた。入れ替わり立ち替わり日に何度も行われるため、彼の葬儀は一時間と決まっていた。遺体のない葬儀、入れる遺骨のない墓。現実味はないのに、失ったのだということだけは頭が理解していた。


自分だけが、生き残っていた。


どうしようもなくすり減った。すり減ってすり減って仕方なかった。心は有限なのかもしれない、と初めて思った。痛いというより、苦しいというより、ただなくなってしまいそうだった。

それでも時間は止まらない。もう終わりにしてくれとどれだけ強く思ってもエンドロールが流れてくれるわけではない。残された者は、終わらない日常を生き続けなければならなかった。


「なんで俺、生きてるんだろう」


絞り出すような声が出た。釣竿を握る手に力が入る。せっかく古賀が用意してくれた穏やかな時間なのに、自分から地雷を踏み抜きにいって、本当に馬鹿だと思った。なんで釣りなんかしに来たんだろう。断ればよかった。

呼吸が苦しくなる。何かがこぼれてしまいそうだった。涙なのか叫びなのかはわからないそれを止めようと口元を押さえた。


「なんであの時、頼むって、任せちゃったんだろう」


古賀は水面を見ていた。何も言わなかった。そうするのが良いと小賢しく考えて何も言わないのではなく、かける言葉が見つからないのかもしれないと思った。今はただ、それがありがたかった。

傷ついている時でも、その有限の心を人のために遣うことができる人だった。嘘を吐いてまで葛原を連れ出してくれた。彼の純度の高い優しさが、葛原の心を少しだけ軽くした。


ルアーの毒々しい色。フロントガラスに映る若葉。水面を撫ぜる風。古賀の横顔。

長く暗く続いてく記憶の中にひとつ、今日のことも残るのだろう。一連のことを不意に思い出してしまう時、この一点が、ささやかな救いになるような気がした。


ゆっくり息を吐いて、背筋を伸ばす。

釣竿は長いこと、全く動かなかった。


「全然、釣れないじゃないですか」

「本当だな」

「釣り詳しいんじゃなかったんですか」

「詳しいよ」


今日で2回目だ、と古賀が笑った。

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