第2話
週明けの月曜日、僕は市内唯一のスイミングスクールで座り込んでいた。
いつも通学に使うスクールバッグとは別にもう一つ、新品のセカンドバッグが街灯を鈍く反射していた。中にはつい先日買ったばかりの水着と道具一式が入っている。
昨夜は意味もなくキャップを被ったりゴーグルをつけてみたりと、思い返してみれば忙しないことこの上なかった。水着たちもきっと、こんなやつが泳ぐのかという気持ちになっているに違いない。
何せ僕のほうこそ、どうしてこんなことになったのか分からないでいるのだ。
『僕に水泳を教えてください』
口走るに至った理由は分かる。昼休みにカフカと話したことが出てきてしまったのだ。でもそれは僕の言葉じゃなく望みじゃなく、ましてそれが受け入れられるとも思わなかった。
『私の練習のついででよければ、いいですよ』
急ぎ撤回しようとあたふたする僕に帰ってきた言葉は、思いもよらぬ快諾だった。
「隣の高校の生徒さんですよね。水着って持ってらっしゃいますか? 確かそちらは……」
「あ、いや。そうです、よね」
「でしたら、水着はもちろんキャップとゴーグル、タオルも揃えられてください。ゴールデンウィークが開けるまでは、スイミングスクールのレーンを借りて泳いでいるので」
彼女――
「一応、オフシーズンでも部活はあるので遅くなってしまいますが」
しかしそう言ってはにかむ顔は年相応のそれで、そのせいで僕の情緒はどこかへ行ってしまった。とても、悪口を囁かれるような人物だとは思えなかった。
「それでは、また」
「あっ、あの」
「ああ、お名前を訊いていませんでしたね」
僕が引き留めたのは決してそんな理由じゃない。バズーカで放出されたボールを追いかけるような話の速さに追いつけていないだけだ。
でもやはり、引き留めたところで思いつく言葉はないわけで。
「
「生稲さんですね。よろしくお願いします」
「こちら、こそ……?」
頼みごとをしている側の人間が言うべきことを全部言われた僕は、結局ボールに追いつくことができなかった。人魚と呼ばれた粕井恵は、まるで僕の撃ち出したボールの落下点に初めから居たみたいに、軽快な足取りで薄暮に消えていった。
それが金曜日のことで、それからもう三日が経った。
土日の僕はそれはもう気が気じゃなかった。道に落ちていた五百円玉を交番に届けずに、コソコソしながらそばの自販機でジュースを買った時くらい落ち着いていなかった。それはきっと窃盗罪のはずだし、でもそんな微罪もいいところのことで警察が来るはずがない。そう思いつつ、でも、しばらく学校へ行く以外の外出ができなかった。
僕は、それくらいの小心者なのだ。
それがどうした。全然知らない人に会いに行くだけでは済まず、挙句の果てには水泳を教えてくれと乞ったとは何事だろうか。しかもそれが同性ではなく女性だ。
「……どうかしてる」
あの日裏口で待っていた時よりずっと、深刻な言葉が漏れ出した。
「それって、私のことですか?」
声を掛けられたことに驚いて、猫みたいに飛び退いていた。
そこには件の粕井恵がいて、目を丸くして僕を見ていた。驚きで固まっていると、一拍置いて彼女は吹き出すように笑ってしまった。
「いや、そうじゃなくて……」
「分かってます。冗談ですよ」
彼女は笑い方すら丁寧で、誰が見ても笑っていると分かるような笑い方だった。それはもう、演技っぽいと言われてしまいそうなくらいに。
「金曜日はすみません。次がお休みだったのに、予定も告げずに行ってしまって。でもまさか、本当に来るとは思ってませんでした」
「いや……、言い出したのは僕の方だし。僕のほうこそすみません、土日も来るか迷ったんですけれど」
水泳部のエース、そしてオフシーズンの部活の後でも泳ぎに行くような彼女だ。きっと土日も練習しているのだろうと思いはしたが、流石に足が向かなかった。いつ行っているのかも分からないし、仮にいなかったら待つのも、ひいてはそんなにガツガツしていると思われたく――
「大丈夫です。それでは、泳ぎましょうか」
「――はい」
僕がうだうだと言い訳を考えている間に、彼女はバッグを担ぎ直して階段を上っていった。有無を言わさぬ、という言葉が一番当てはまるのに、嫌味な感じのない、心地のいい強制力のように思えた。
引かれるままに手早く受付を済ませた僕は、更衣室で着替えていた。幸運なことに他の男性客はいなくて、プライベートもへったくれもないだだっ広い空間でも、人目を気にせずゆったり着替えることができた。
「……ゆっくり変わってきてる」
固い角質で覆われているはずの踵が、もはや明確に鱗の形に変質していた。今はまだ肌色を保っているが、これが今後どのように変わっていくのか、見極めないといけない。
手足の水かきが伸びていくことは生まれつきだと誤魔化しが利くし、指を開かなければあまり目立たない。しかし鱗のように変わっていくのは誤魔化しようがない。タトゥーだと言えば納得されるかもしれないが、そもそも興味を惹いてしまうことが良くない。好奇心のままに触らせてほしいと言われれば、いつかは回避できなくなってしまう。
それに今はまだ角質の部分だけだとしても、それがふくらはぎに伸びていけば余計、隠し通すのは難しくなる。
「かゆい……」
しかしながら目下一番の問題は、治りかけの皮膚みたいな痒さに常に襲われていることだった。汗腺が遮られているからか知らないが、とてつもなく痒いのだ。しかも普通に掻くと鱗の向きとは逆に掻いてしまうので、それはそれで鱗が剥げそうになって痛い。結果妙な体勢で掻いてしまうので、外から見れば変な行動に見えて仕方がない。
好機と思い散々掻き毟ってから更衣室を出ると、既に粕井恵はプールへ通じるドアの間で待ち構えていた。その姿を一目見て、彼女の髪が短い理由が分かった気がした。
「お待たせしました。少し手間取っちゃって」
「いえいえ。……その水着で良かったんですか?」
「駄目、でした……?」
僕が買った水着はボクサーパンツみたいなタイプのじゃなく、まるでダイビングをする時のウェットスーツみたいな、全身を覆ってしまうタイプのものだった。言ってしまえば全身タイツだ。
「いえ、大丈夫なはずですよ。ただ、少し珍しくて」
正直なところ、不安があったのには違いない。普通男性が着る水着はパンツタイプのもので、まして水泳初心者がこれを着ているのは妙だと思われないかと、心配で仕方がなかった。
しかし人魚のように変わっていく身体を隠すには、これ以外の選択肢が無かった。
「実は肌が弱くて。よく掻き毟ってしまうので、あまり出したくないんです」
「そうですか。それは仕方がないですよ」
我ながら、用意してきた言い訳とはいえ上出来だと思った。実際、掻き毟ってしまうのは本当なので、嘘をついたわけではない。
「プールの塩素でまた痛めてしまうかもしれませんが、しっかり洗い流せば大丈夫なはずですよ。もし酷くなるようでしたら教えてください。力になれると思いますから」
「ありがとう」
僕が素直にそう返すと、彼女はじゃあとだけ言ってドアをくぐっていった。
「――っ」
そうして彼女の背中を見た時、僕はようやくとんでもない事をしているのに気が付いた。別に何も悪くなくて、やましいことも一つとしてない。
ただ見慣れていない僕には、背中をほとんど隠せていない競泳水着が刺激的だったという、ただそれだけのことだった。誰かが言った。水着はほぼ裸だと。
すぐに目を逸らしても、焼き付いた景色は消えなかった。そういう印象ばかりがぐるぐるとめぐってくる中、一つ、はっきりとした感覚だけはよく残っていた。
――とても、綺麗な背中だった。
そこでようやく感情が追いついて、僕もあとを追ってプールへと入った。
ドアをくぐるとすぐシャワーがあって、一歩踏み出した途端、待ち構えていたらしい粕井恵に思い切り浴びせられた。
「うわっ」
その瞬間降り注いでくる水に、小学生の時のプール授業を思い出した。いやに冷たくて、生徒からは地獄のシャワーだとか呼ばれていた、もっとも忌むべきアレ。僕も当時は怖くて、何より意図的なまでに冷やされている水が、冷たいを通り越して痛いくらいだった。
十秒ほどでシャワーは止められて、あとには雨上がりのトタン屋根みたいにぽつぽつと雫が垂れてくるばかりだった。
僕はそれが不思議と残念で、大型台風がやってきた夜、豪雨暴風どころか、停電の一つも起こらずに朝の快晴を迎えてしまったかのような感覚だった。
「じゃあ、一番向こうのレーンでやりましょう」
「あ、うん」
プールサイドはコンクリが溶けてトゲトゲしていた小学校のものとは違い、沈めたボール拾いの時のボールみたいな感触で快適だった。プール内には老人が数人残っていて、二十五メートルをのんびりと状態をねじりながら歩いていた。
「では準備運動をしましょう。腕を使う印象があるかもしれませんが、一番攣ることが多いのは足の方なのでしっかりとやってくださいね」
そう言われ、ラジオ体操よろしく見様見真似でいいかと思ったが、水着姿を思い出して思い直した。見様見真似なんて、じろじろ見ているのと大差ないじゃないか。
どうにか体育の授業を思い出しながら、言われたように足を重点的に伸ばしていると声がかかった。
「柔らかいですね。普段からストレッチとかやってるんですか?」
「そんなことないですけど……」
言われて上体を前に倒してみると、簡単に掌が床に着いた。
確かに、これは並みの柔らかさではないかもしれない。
「生まれつきですかね。私なんかほら、女の子なのに固くて仕方ないんですよね」
同じように前屈をするが、指先が辛うじて床に触れる辺りでプルプルと止まってしまった。
でもそれは胸が邪魔なのではないかと思って、そっと目を閉じた。
「ところで生稲さんは、どれくらい泳げますか?」
「クロールが途中で沈むくらいです……」
「じゃあ一応泳げるんですね」
「果たして泳げると呼んでいいんですかね」
「ええ、もちろんです」
そう言うと一人でざぶんとプールへと入っていった。いつの間にか被っていた白いキャップが、反射光のように揺らいでいるように見えた。
「ひとまず水に慣れるところから始めましょう。随分久しぶりでしょうから」
「顔に水をかけまくるとかですか?」
「しませんよそんなこと。泳ぐときはゴーグルを着けますし、そもそも意味がありませんから」
「あんなに執拗にやってくるのに意味ないんですか⁉」
プールサイドに並んで座り、目を閉じるなという怒号の中、雨どころではない量の水を掛けられた記憶が蘇る。授業終わりには噴水みたいな蛇口で目を洗わせられるし、学校は眼球に何か恨みでもあるのかと思ったほどだ。
「だって人間の反射として必要な機能じゃないですか。目に異物が入れば、誰だって閉じちゃいますよ」
「そうですよね」
「だからあれは、水は怖くないと教えるための簡単なやり方なんです。乱暴なことこの上ないですけどね」
付け加えて、目を洗う蛇口も、目を傷つけるから今は使われていないと教えてくれた。ふざけて蛇口を全開にしてきたやつに復讐をしてやりたい。
しかし確かに小学生からすれば、風呂以外で全身が水に浸かる経験をしたことがある子どもは少ないかもしれない。とはいえ彼女の言う通り乱暴だ。もう少し方法があっただろうに。
「でも生稲さんはそうじゃないでしょう?」
「どうでしょう。もう随分……」
小さいころに温泉で目を開けて浸かって以来、目が覚めたら猛烈な目ヤニで目が開けられなくなった経験がある。もちろん温泉でなければそうはならないことを分かっているが、尾を引いていないかと聞かれたらノーとは言えない。
「さっきのシャワー、気持ちよさそうでしたから」
「えっ……。そう、ですか」
「はい、とても」
意外、ではあったのだが、同時に納得してしまっていた。彼女の言う通りなら、シャワーの栓が閉められた時の気持ちにも説明がいく。
「じゃあ生稲さんも入ってきてください。きっと気持ちいいですよ」
言われるがまま、飛び込み台に手をかけながらそっとプールに浸かった。
その一瞬で心地いい冷たさが全身を覆って、すぅっと、気が引きしまったように感じた。
「私、小学校みたいに怖いのを克服するやり方も悪くはないと思うんです。でも、どうせなら楽しみながら恐怖を忘れてしまった方が、ずっと得だと思うんです」
ゴーグルを着けながら、彼女は夢のように語る。
「泳げる人が増えるより、楽しいと思ってくれる人が増える方が私は嬉しいんです」
僕は、粕井恵に水泳を教えてくれと頼んだことを後悔していた。いや、それよりももっと前、彼女が人魚と囁かれていることを確かめようとしたことに、後悔していた。
理由は単純で、彼女は僕と同じではないと分かってしまったからだった。
彼女の水着は僕と違って脚が出ている、ごく普通の競泳水着だ。隠す必要が無い。それだけが、それこそが確固たる証拠になってしまっていた。
「教育者みたいですね」
「ええ。夢なんです」
包み隠さず、にこりと笑いながら言う粕井恵が眩しくて、僕はわざとゆっくりゴーグルを着けた。工業排水じみた、虹色に光ることないサングラスみたいな真っ黒なゴーグル。それは視線を外から悟られないくらいで、眩しいものでもはっきりと見えた。
――今では、これで良かったのだと思えてくる。
分かったことがあった。準備運動の中、粕井恵から見えた足は、僕と違い人のまま綺麗だった。しなやかに伸び、水の流れに逆らわない美しさだった。そして僕は、人肌より少し冷たいプールの水を、心底心地よく感じていたこと。よく熱が籠ってしまう僕にはある意味当たり前で、だからこそ思ってしまう。
――人魚に変わっていく僕には、水の中だけが居場所なのだと。
水底のハゥフル 九鹿 ロク @sakatti
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