第1話
春が嫌いだ。
というか、陸にはびこる季節気温湿度全てが嫌いだ。
できることなら僕はずっと、銭湯の水風呂のように利用者の少ない一定の水に包まれていたい。それはちょうど、バルブから供給される酸素と僅かの食餌を糧に生きる、寂しい家庭環境に置かれた観賞魚に似ている。
食餌が足らなければ水槽にこびりつく苔をかじって、退屈ならバルブから湧く空気をつついて遊んで、たまに力なく死んだように揺蕩ってみたりする。それでも上手くいっていない家族の輪の中では見向きもされないことに安心して、腹を翻してアナカリスの根元でぐっすりと眠るのだ。
できるならそれは一人ぼっちがいい。同種も他種も一匹もいなくて、広い水槽内を余すことなく占有したい。もし可哀そうだからと仲間を水槽に入れられようものなら、僕は意地悪ではないから均等に分けなければいけない。余計な情など与えないでほしい。
――もっとも、僕が入れられるとするなら、実験の培養槽じみた巨大な行き場のない檻になってしまうのだろうけれど。
「
「――っ、すみません……」
からかうような数学教師の言葉に、クラスメイトからは笑いが起こるどころか、見向きもされていない。鉄板ネタも毎日使われれば、飽きを通り越して無味乾燥なものになってしまう。
「じゃあ、後ろの
「ええーっ、また俺ですか! 先生俺のこと、体のいいお笑い要因って思ってるでしょ」
「でなけりゃ毎回赤点とるお前に、当てるわけがないだろう?」
カフカと教師とのやり取りにはクラス中から笑いが起こり、一瞬固まったように感じられた空気が和やかになった。実際に赤点常連の彼は周囲に訊いたりして答えたが、わざと間違った回答を教えられて、また一つクラスが賑やかになった。
「ごめん、カフカ」
カフカが席に座る間際、一瞬振り返って小さな声で言った。彼は無言で、けれどその意味を成さないくらいわざとらしいウインクで応えてくれた。
これが、僕の高校生活における日常だ。
四限の体育はいつも通り見学し、クラスの中心人物のカフカが活躍するのを見ていた。
キーパーの癖に最前線にあがって、シュートミスを繰り返した挙句、カウンターを受けて失点。それでもちっともチームの士気は下がらず、攻める人数が一人多い理由では説明のつかない勢いで連続得点を決めた。
結局、五対二で幕を閉じた試合で、カフカはハットトリックを達成していた。
「いただきます」
行儀よく合唱して弁当を食べ始めたカフカの額にはじっとりと汗がにじんでいた。
盛り上がったサッカーで男子の大半が必死にボールを追いかけたりしたせいで、多くが食欲なさげにうなだれている中、カフカと見学していた僕だけがリズムよく箸を運んでいる。
「すごかったね、ハットトリック」
「おうよ。これで三試合連続ハットトリック。これは世界記録狙えちゃうかな」
「そんな記録あるの?」
「あるある。九八年にJリーガーが四試合連続ハットトリックを決めて、ギネスに認定されてるんだぜ」
「相手からしたら悪夢以外の何物でもないね……」
おかしな記録もたくさん載っているギネスにはあるだろうと思いつつ、それがJリーグでの出来事となると、ただの素晴らしい偉業になってしまう。
「まあ今はクロアチアかどこかの地域リーグで、五連続に更新されちゃってるらしいけどな」
「……僕も、一点くらい決めてみたいな」
高校に入ってからというものの、僕は体質を理由に体育の授業にはほとんど参加したことがない。特例ということで授業でやるスポーツの理解度を測るテストが用意されていて、僕の体育とは実際のところ、座学以外の何物でもない。
「じゃあさ、今度キーパーやってみたら? あまり動かなくていいし、ハットトリックはもちろんカッコいいけど、しっかりゴールを守り切るのもカッコいいもんだよ。帽子被れば、まだ春なら平気な方だろ? 今度先生に訊いてみるよ」
「うん、頑張ってみる」
カフカはいつも、こうやって僕の世話を焼いてくれる。
高校一年生の時は事情が伝わっておらず、今の体育教師と違い熱血だったこともあって、半ば強引に参加させられていた。気温の落ち着いた五月はまだ平気だったが、時が進むにつれて身体が追いつけなくなった。そして六月末の授業ではとうとう倒れてしまった。
僕がカフカと仲良くなったのはそれからで、倒れた時に介抱してくれたのもカフカだった。流れで体質のことを話すと教師に猛抗議してくれたおかげで今がある。
腐れ縁か学校側の計らいか、それからも僕とカフカは同じクラスになり続け、三年生になった今もこうして僕を支えてくれている。
それはもう、支えられすぎているくらいに。
「しかしまあ不便だな、その体質。病気じゃないっていうのがまたいやらしいというか」
「もう体質を恨む段階は越したよ」
僕の体質というのは、体に熱が籠ってしまうというものだ。
身体を動かす、風呂に入る、風邪で熱を出す、果てには物事に集中していても熱が籠っていき、思考力が著しく低下してしまう。特別汗をかきにくいとか、ヒトの体温調節機能に障害があるわけではないらしく、医者としても体質という他ないとのことだった。
小学生の頃には全く問題がなかったはずが、中学二年生頃からその傾向が出始めた。歳を追うごとに無理がきかなくなり、今ではインフルエンザの時並に意識がしっかりしないことが増えた。
この体質で周囲に迷惑をかけていることは、カフカを見れば間違いないのだが、初めて倒れて落ち着いた時、あとからカフカに
「知恵熱?」
と半笑いで言われたのはよく覚えている。当時こそムカついたが、そういう無駄に重く捉えてくれなかったことが、むしろ今では気を楽にしてくれていた。
「てかそんな体質で授業中もあんななのに、テストは俺よりずっといいっていうのはどういう了見かね」
「努力の賜物以外なんとも」
「はーっ、すかしやがって。お前なんかこうだ」
「あっ、返せよ僕のおかず」
「うん、美味い。やっぱ生稲んちの料理はいいな。結婚したい」
「あのなあ、それ作ってるの僕だからな」
そう言い返すと咀嚼する口は動かしたまま、目を見開いて黙りこくってしまった。
「……それもアリだな」
「冗談。彼女いる癖に」
「まあな。メシマズだけど」
たとえ料理が下手だとしても、家族以外に作ってもらう料理は作る側も食べる側も特別なものだろうに。
「そういやこんな話知ってる? 隣の市高に人魚がいるって話」
「何、それ」
「なんでもめちゃくちゃ泳げて、人魚みたいな見た目なんだとさ。いやまあ、どちらかというと悪評の方なんだけど。聞いた話みんな、泳ぎが綺麗とか美人だとかってのとは真逆で、泳げはするけどブサイクだからって感じ。ひでえよな」
カフカ自身ひどいとは言いつつ話題にしているのだから同罪だと思う。
「……カフカだって、彼女のことメシマズだって言ってたじゃん」
「彼氏の俺が言うのとじゃあ違うだろ」
「まあね。それで、なんて名前なの?」
「なんつったっけな。そういう話って大体、噂話ばっかりで名前とか確かな話ってあんまり……。ああそうだ、
箸に飯を掴んだまま、わざとらしいにやけっ面で見てくるのに腹が立つ。
「別に」
「だよな、お前女っ気ないし」
「うるさいよ。いいから食べちゃえよ、もう昼休み終わっちゃうぞ」
元々小食気味の僕の弁当はカフカにおかずを持って行かれたこともあって、すっかり空っぽだった。空っぽの弁当箱と八分目程度のちょうどいい腹加減とは裏腹に、僕の内には空腹感に似た欲がわきあがっていた。
粕井恵。人魚と呼ばれる人に、一度会ってみたい。
「ごちそうさまっ」
「早いな……」
「まーね。しかしうちにはプール無いから羨ましいよな。その粕井にってわけじゃないけど、女部員に水泳教えてほしいわ」
「手取り足取り?」
「そーそれ」
馬鹿げた妄想話に思わずため息が出てしまう。
「ほどほどにしとけよ、そういうの」
「言う相手は選んでるよ。女の子には言いやしないし、そのことを周囲に言いそうなやつにも言わない」
しっかりしてやがる。そんな呆れと感心の混じった眼で見ていると、気付いたカフカがニカッと笑いながら言ってくる。
「生稲はこういう、馬鹿話もできる親友ってこと」
すかしているのはいったいどちらなのか。
「……他に友達が居なくて、漏れる心配がないってだけだろ」
「なんだよー、卑屈屋め」
「ほっとけ」
それから午後の授業はというものの、西日の射しこむ情報処理室という、パソコンと僕にとって夏に次ぐ環境の悪さも相まって、ぼうっとする時間が長かった。
ただ、そういうときも意識だけは奇妙なくらいはっきりとしているのだ。思考力の欠如というのは、およそ勉強や運動、自分以外へ思考を割くパスの故障なのだと思う。よく夜中に陰鬱とした感情が暴走するかのように猛威を振るうのも、他に思考を向ける対象が減ってしまう時間帯だからなのだ。
そう考えると、およそ人の思考とは陰鬱な方に向かってしまうことこそが、正常かのように思えてしまう。きっと、そうなのだろう。
ただ、この時の僕は決してそんな憂鬱な気分ではなかった。
『粕井恵は、僕と同じかもしれない』
身体が徐々に人魚のようになっていく症状を、僕以外に見たことがない。学業について行けないとか精神的なものではなく、明確に世間一般とはかけ離れていくことを、僕は少なからず恐れていた。
だから僕には、希望が必要だった。
そこに、希望が現れてくれた。
この時の僕の頭の中はそれでいっぱいで、濁って鈍っていく意識なんて気にもならないくらい、粕井恵という希望に対する期待に満ち溢れていた。
どれだけ僕がキーボードの前でぼうっとしていても教師から声をかけられなくて、今回ばかりは体質に感謝しなければと思うと、少しだけ微笑みが漏れた。
放課後、僕はそれとなくカフカに情報を聞き出し、市高の生徒たちが出入り、特に校舎から少し離れた体育館やプールのある運動部たちが出入りする場所で立ち尽くしていた。隣の高校の制服を着た見知らぬ男を、怪げな目線で見られることには慣れるくらいの時間が経っていた。
名前とぼんやりとした特徴しか知らない、顔も見たことのない相手。人魚と呼ばれる彼女のことを僕は待っていた。
「……馬鹿げてる」
やっていることが彼氏か探偵のようだと気付くのに時間はかからなかった。それでも待つのをやめなかったのは、彼女が僕と同じかもしれないという小さな希望を捨てきれなかったからだ。粕井恵が、僕と同じ人魚化の仲間じゃないのかと。
「そもそも会ってどうするつもりだったんだ……」
仮に見つけられて一か八か、同じ悩みを抱えているのだと打ち明けたところで、粕井恵が同じ状況だという確証は一つとしてない。変な奴だとあしらわれるのが関の山で、悪口として広まっている人魚の話をぶり返されて怒り、無視されるのが普通だ。
自分の愚かさ加減にため息が出る。これじゃあカフカのことを笑えない。
でも僕は、それが分かっていてもなお、もしもという希望に縋っていたかった。だから、
「もう、少しだけ」
完全下校までそれほど時間があるわけじゃない。そんな言い訳で、立ち続けて痛み始めた足に鞭をいれた。
しかしその考えが甘かったと分かるのはすぐ後だった。下校していく生徒たちの中に、誰一人として髪が濡れたりしていないのにようやく気が付いた。それもそのはずで、まだ四月の下旬で、まだ泳げるような水温にまで達していないのだ。
見分けられる唯一の特徴を逃し、完全下校を知らせる鐘も鳴った。少し前から下校する生徒の数もまばらで、それぞれグループを作って仲睦まじく帰っていっていた。
「……あれで最後かな」
そんな中で夕日を背に、一人きりで歩く生徒が見えた。
なんとなく、その人影が違えば諦めて帰ろう、諦めてこの話は忘れようと思った。小さな希望になど、縋っていても仕方がないから、と。
歩いてくる影が大きくなっていく。逆光でまだ顔は見えない。全く気崩していないスカートは膝の下で風になびき、めくれる心配もなく大股に踏み出す足に強引に引っ張られていく。
陽が落ちかけ、設定された通りの時間に街灯が灯された時、下校口前を通る道路を一台の車が横切っていった。すぐ傍まで来ていた人影は車の起こした風に鞄でスカートを抑え、逆の手で髪を抑えた。
「――」
白い街灯に照らされ、比較的エラ張った輪郭と化粧っけのない素顔が目に入った。
それはいわゆる、一目惚れと言っていいのかもしれなかった。
スカートと髪を抑えるなんでもない仕草に、僕はたしかに人魚を見た。
「……?」
一瞬、訝し気に僕を見る目と目が合った。その一瞬で我に返り、彼女こそが件の粕井恵だということに気が付いた。確信していた。慌てて縁石に躓きながら道路を渡り、声をかけた。
「粕井恵さん、ですよね」
「はい……何か?」
粕井恵は眉にしわを寄せながらすぐに訊き返してきた。当たり前だ。そう、当たり前のはずなのに僕の口からは言葉が出てこない。仕方がないじゃないか、元々行き当たりばったりの行動だったんだ。
何か言わなければ。早鐘をうつ心臓から流れる心臓が、血管と摩擦熱を起こしているみたいに急激に体が熱くなってくる。すっかり慣れた思考力が削られていく感覚に、酩酊すら覚える。
「ぼ、僕に」
伝えたいこと知りたいこと、人魚という噂は本当の意味で――
『女部員に水泳教えてほしいわ』
「――僕に、水泳を教えてください!」
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