第142話 小さな白い花

「あなたが、私の名を初めて呼んでくださったからです」


「え……」



 確かに。


 これまでフィルメラルナは、エルヴィンを名前で呼んだことがなかった。



 あの日、突然ブラン家に現れて、父親に剣を向けた人間。


 理不尽な環境へ、無理やり連れてきた騎士。



 はじまりのぎこちない関係から、彼の名を呼ばずに過ごす習慣がついていた。


 けれど、いろいろな事情を理解し、こうして共に活動する機会に恵まれて。


 少し緊張が解けてきたのは確かだ。



「あなたの声が、私を破滅の心から現実に引き戻してくださったのです」



 ザッとその場で跪き、エルヴィンはフィルメラルナを見上げた。


 柔らかな風にひらりと舞い上がった銀の髪の下、青い双眸があまりに真摯で。



 なんだかとても恥ずかしくて、胸がドキドキと五月蝿いくらいで。


 すぐにでもここから逃げ出したい気分になった。



 そんな力など何も持たない。


 ただ、誰も悪くないのだと。


 だから、ミシェルが傷つく必要もない。



 きっとどんな状況であったとしても、彼女はイルマルガリータの自害を止められなかっただろう。


 そして、そんな自分を、彼女は誰よりも悔いている。



 これ以上、彼女に罪を問うなんてできない。


 そうハッキリと、気持ちが固まっていたからだ。



 だけど、自分の声が彼を救ったのだとしたら。


 それはフィルメラルナにとっても喜ばしい。



「か、帰りましょう。そろそろ戻らないと日が暮れてしまうわ」



 赤くなった顔を隠すように踵を返す。


 生い茂る草むらを避けるようにして、教会跡を出た。



 西に傾きかけた日差しが、普段は影になっている場所を照らし出していた。


 その片隅に――。



 フィルメラルナの視線は釘付けになった。




 小さな白い花が咲いていた。


 星型の尖った花びらは、フィルメラルナのよく知る植物だ。


 けれど通常の野草と違い、とても限られた条件でしか咲かない花であるはず。



 ダリアベッチェル――。



 フィルメラルナが常備薬として使っている薬、アベッツの原料。


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