第72話 なんだそれは(エルヴィン)

「おい、エルヴィン!」



 歴史棟への長い外廊下を歩いていたエルヴィンは、自分を呼ぶ声に足を止めた。



 屋根付きの回廊は、長引く雨に乾く間もなく、床は一面しっとりと濡れている。


 厚い雲を透かして届く僅かな光を反射して、滑ったように鈍い照りを帯びていた。



 向こうの回廊から、雨の中こちらへ走ってきたのはグレイセス。


 このリアゾ神殿騎士団の団長だ。



「どうだったんだ? あの嬢ちゃんの具合は。蒼玉月の影響はなかったと聞いて、安心していたんだが」



 騎士服の肩にかかった雨を払いながら、直球で聞く。



「あぁ、確かにそうだ。まったく何の影響も受けてはおられなかった」



 そう。


 唯一神リアゾのもと続く長い歴史の中で、神妃について共通する問題が、蒼玉月の毒だった。



 普通の人間の中にも、時折その毒に当てられる者がいると聞くが、神妃への影響は絶大だった。


 中には、狂死した神妃もいたと記録されているほどに。



 蒼玉月の影響を受けない神妃など、これまで前例がなかっただけに、フィルメラルナの状態は皆に一抹の光を与えたのだ。



「じゃ、なんで今更、塞ぎ込んでるんだ? 父親と面会もできたんだろう?」


「――ああ。だが彼女は、その父親に拒絶された」



「なんだ、それは」


「そのままの意味だ。グザビエ・ブランは、フィルメラルナ様を、自身の娘ではないと追い返された」



「なんの冗談だ」


「私に分かるものか! あの男は全てを否定した。自分に娘などいないと!」



「嘘だろう――」


「そう思いたいのは、おまえだけじゃない! イルマルガリータ様の失踪に続いて、新しい神妃だと? そんなものにばかり振り回されて」



 思わずエルヴィンは声を荒げていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る