第7話 逃げるんだ、今すぐ

 それでも、なんとか近くの机に掴まりながら立ち上がり、よろよろと鏡台の前へと歩いていく。



 時間の感覚はないが、今はきっと夜なのだろう。


 暗くてよく見えない。


 ランプに火をいれたいけれど、倦怠感が酷くてそれも億劫だ。



 廊下へと続く扉から漏れ入る僅かな光だけを頼りに移動していく。


 やっとのことで辿りついた鏡台に体を預け、ふーと大きくひとつ息を吐く。


 と同時に、勢いをつけて顔を上げてみた。



 鏡に映る自分の顔を見る。


 虚ろな瞳には、生気が感じられない。


 きっと顔色も悪いことだろう。



 そして、汗で張り付いた前髪を掬いあげ、先ほど違和感を覚えた額へと視線を移した。



「ひぃっ……!」



 自分の姿に息を呑んだ瞬間。


 バンッと、勢いよく扉が開かれた。



 ビクリと肩を大きく揺らしたフィルメラルナは、鏡に映った人影を認め、ホッと胸を撫で下ろす。



「父さん……」



 じわりと目の淵に涙が溜まる。


 この不安な感情を訴えたいと振り向くフィルメラルナに、しかしそんな時間は与えられなかった。



「フィーナ! 逃げるんだ、今すぐに」



 廊下から入り込む灯火の逆光で、父親の表情がよく見えない。


 けれど、平常な状態でないのは明らかだった。



 いつもは物静かな父親が、大声を出すなど。


 これまでに一度もなかった。



 それに、フィルメラルナの胸も不吉な予感で高鳴っている。


 今見た己の姿への衝撃と相まって、危険なほどに心臓がドキドキしていた。



「早く、窓から飛び降りるんだ!!」



 必死に叫ぶ父の剣幕に押され。


 フィルメラルナは訳も分からず行動を起こしていた。



 窓に手をかけ、思いっきり外側へと押し開く。


 途端に流れ込んできた冷たい夜風が、殴るように頬の熱を奪っていく。


 その風に逆らうようにして、フィルメラルナは窓枠に片足を引っ掛けた。



「そこまでです、止まりなさい」



 凛とした制止の声に、フィルメラルナの動きは止まった。


 同時に、部屋に明かり灯される。



 知らない声だった。


 誰だろうかと振り向く瞳に、数人の男の影が映り込む。



 その中心に立つ者の容姿に、息を呑んだ。



 黒い生地に銀の縁取りが施された制服は、騎士のものだろうか。


 頭部は見事な銀髪、蒼穹を思わせる澄んだ青い瞳。


 端正な輪郭をした顔に佇む、選び抜かれた剣のように鋭い眼差しは、揺るぎない信念を感じさせる。



 この男が、突然現れた騎士たちの代表格なのだろうか。


 後ろに控える二人の男たちも同じ制服で、父親を拘束しながら、緊張した面持ちをフィルメラルナに向けていた。


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