第24話 額縁

「私は音楽を愛していました。ノエル・アイアソンとして生活を営むこの世とは別に、音楽の世界があるのだと信じて、ずっとそちらに入り浸っていました。音楽は常に私の傍らにあり、私を歓迎してくれましたからね。講演やパーティー、テレビ番組に招かれ、教壇に立ちました。家でもピアノを弾くか、レコードを聴くか、飽きず楽譜を眺める日々でしたよ。伴侶は音楽家ではなかったので、私は音楽がいかに素晴らしいかを蕩々と語り、子どもにはマエストロの子として恥ずかしくない教育を施しました」

 音楽に満たされ、さらなる高みへ、果てへと挑む。獣人の体力と若さ、尽きぬ才能を下地に、ノエルは音楽の世界に名を響かせた。評価につく冠が「獣人の」から「黄金の巨匠」へと変わり、公演、講演、講義、執筆、メディア出演でスケジュールは分単位で埋まった。ノエルは充足と幸福の時間を過ごした。

 そんなある日、海外公演から戻ったノエルを迎えたのは、からっぽの自宅だった。

「私は、自分に非があるとは思えなかったんです。芸術を理解しない人だったのだと伴侶を憐れみ、呆れました」

 家庭を顧みなかったのは認める。けれど、しかし、と言い訳を連ね、空虚さをアルコールで洗い流し、いっそう仕事に打ち込んだ。

「遅くまで飲み歩いて、誰もいない家に帰ってソファに座ったとき、正面の壁に四角い染みがあるのにふと気づいたんです。正確には、その部分だけ壁紙が焼けていなかったのですが。そこには伴侶が大切にしていた絵が掛かっていました。ええ、絵が好きなひとでした。でも、私はその絵がどんなだったか、誰の作か、なにひとつわからなかったんです。話してくれたに違いないのに、聞いていなかった。白い額縁の繊細さは思い出せるのに、絵に関しては何も覚えていませんでした。私は伴侶に音楽の喜びを語りましたが、あのひとだって同じだけ絵画の楽しみを語ったはずです。それなのに……!」

 ノエルが浸っていた音楽の世界は、多大な犠牲を払って作られた楽園だった。手を取り果てへと誘ってくれる、芸術の至高領域などではなかったのだ。

 あちらとこちらは地続きで、ノエルはこちらで負うべき責任を切り売りして、音楽に没頭していたに過ぎない。軸足が踏み潰したものに対し、かれはあまりに無頓着だった。

「伴侶も子どもも、今どこにいるのか知りません。……慰謝料の請求がなかったんですよ。もう私と関わりたくないという意思表示なのだと解釈し、敢えて探しませんでした。……いいえ、探せませんでした。温厚な伴侶がこんなにまで拒絶の意を示したことに、ショックを受けたのです。反省の気持ちと責任を、お金の形で支払えたなら罪悪感もいくらか薄まったでしょうが、あのひとはそれさえ許さなかった。よく言うでしょう、好きの反対は嫌いではなく無関心なのだと。それを思い知らされました」

 離婚をきっかけに、ノエルの仕事ぶりは少々変わった。福祉や教育に力を注ぎ、病院や学校を訪れ、地域の楽器店と連携し小規模なコンサートやワークショップを開いた。ディディエの学校で演奏したのもこの頃だろう。

 マスコミは離婚と活動の変化を関連づけ、面白おかしく書きたてたが、構っている暇はなかった。立ち止まればだめになるとわかっていたのだ。

「それからほどなくして、音楽が見えなくなりました。引退して、田舎に逃げて……この期に及んで、届けたいと思っているのですからお笑いぐさでしょう。空港に向かう前、何と声をかければよかったのか、かけるべきだったのか、今でも考えます。だからね、ジリアン。あなたのお兄さんの話を聞いて、他人事とは思えなかったんです。ことの重大さは全然違いますが、あなたも期せずして残されたひとなのだなあと……」

「だから、花に歌わせたかったんですか? ……あ、いえ、だから、はおかしいですね。なんで『だから』って思っちゃったんだろう。でも、わかります。僕も、兄に最後に言葉をかけるとしたら、何て言うだろうって考えましたから」

 考えても考えても、答えは出なかったし、それでああして再会してしまったのだから、世話はない。

 ノエルの音楽と薔薇のブローチがあれば、いつでもルシアンに会えると『くるみ割り人形』が教えてくれた。彼はきっと、ジリアンの第二の心臓にいる。あるいは、ふたりで第二の心臓を共有していたのかもしれない。

 双子とはいえ、他者と第二の心臓を共有する事例があるのかは知らないが、魔術師とカウンセラーでは解釈が異なるだろうことは容易に想像できる。ならば好きに捉えて良かろう。

 ルシアンはいる。なぜなら薔薇のブローチをくれたからだ。薔薇の砂糖菓子。おとぎの国の女王さまの象徴を。

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