ジョーカー

放睨風我

ジョーカー

初めて【力】を使ったのは、ムティアが八歳の頃だった。


ムティアは山に登って山菜を取っていた。ムティアの家は貧しく、母は病気がちで床に伏せていることが多かった。だから子どもたちは、物心がつくころには労働力としての責任を求められた。ムティアの他に、家には兄と姉がいた。兄は漁に出て魚を獲り、姉は農家の家に出稼ぎに行って畑を手伝った。山菜取りはもっとも幼いムティアの仕事だった。


一緒に登って来た父は、山菜がよく取れる場所と食べられる山菜の見分け方を伝えたあと、仕事に戻るために先に山を降りてしまった。ムティアはひとり、山に残された。


身体の小さいムティアは小さな岩の隙間に身体を滑り込ませることができた。そこには未だ大人たちによって刈り取られていない山菜がたっぷり茂っていて、ムティアは夢中になってカゴに山菜を放り込んでいった。


(褒められる、かな)


手のつけられていない山菜を求めて、ムティアはずんずん山の奥まで進んでいった。いつのまにかムティアは崖の上に出ていた。崖の下は霧が濃く、どこまで続いているのかわからないほどだった。


ムティアは崖の側面に、山菜の群生地を見つけた。それは手を伸ばせばギリギリ届きそうな場所にある。恐怖を感じたが、それよりも……たくさんの山菜を見て満面の笑みを浮かべる母の顔が、彼女の背中を押した。


そうして――崖に腹ばいになって手を伸ばした瞬間、ムティアは崖から滑り落ちた。


「う……」


気が付くと、ムティアは岩の上に倒れていた。


脚はおかしな方向にねじれて、視界は真っ赤になっていた。岩にはべったりと血が流れている。しばらくすると、思い出したように身体は激烈な痛みを訴え始めた。


(……いたい)


ムティアの脳裏には家族の姿が浮かんでいた。厳しいけど大好きな両親と、優しい兄や姉たち。やっと仕事をして、家族の一員として認められるような気がしていたのに。頑張って取った山菜を、食べてもらいたいのに……。こんな脚では、山を降りられない。


(いやだ、死にたくない……)


ムティアは……どこまで自覚していたのかわからない。もしかすると、ただの偶然かも知れない。彼女は労るように、破壊された脚に手をかざした。


すると、まばゆい白い光があたりを照らし――


(な、なに……?)


光が収まったとき、ムティアの脚は元通りになっていた。もはや痛みも感じず、ただ擦り切れた靴とズボンだけが、痛々しい傷跡の記憶を残していた。


「……」


ムティアは、そっと手を頭に当てる。ズキズキとした頭の傷みは消え去り、すぅ、と視界がひらけた。


それが、初めてムティアの【力】が顕現した日であった。



◆◆◆◆◆



――視界をいっぱいに満たしていた白い光が消える。ムティアが寝台に寝る母の手を取っている姿が現れた。ムティアの母は眼をぱちくりさせると、満面の笑みを浮かべた。


「すごいわムティア!身体がとっても楽になった」

「……えへへ」


ムティアは家に帰るとすぐ、その【力】を母に使ってやったのだった。ムティアは母が大好きで、いつも苦しそうに横になっている母をなんとか助けてやりたいと考えていたからだ。母は何週間かぶりに寝床から起き上がり、嬉しそうにムティアを抱きしめた。


ムティアは、誇らしかった。小さな自分にも、家族の役に立てることがあるのだと。


そして小さなムティアは家族を癒やした。喧嘩で怪我をした兄を治した。畑仕事で荒れた姉の手を治した。それどころかムティアは、父が何十年も前に土木工事で切り落とした左手の小指を生やすことさえやってのけた。それはもはや「治癒」と呼べるものではなく、何か奇跡的な偉業のように思われた。


噂はすぐに広まった。


村に住む人々はムティアに癒してもらおうと、毎日毎日ムティアの家を訪れた。何日も腹痛が続いていた大人。乳が出ない母親。不治の病に侵され死を待つばかりだった老人。腰を痛めて畑仕事ができない女。兵役の傷がもとで片足を切り落とした男。流行り病にかかり高熱を出した赤子。


ムティアはせっせと彼らを治した。


彼らはみなムティアの力に驚嘆し、お礼を述べ、これは奇跡だ、神の子だ、とムティアを称賛した。


はじめはすべて好意で行われていたムティアの【力】による治癒は、次第にムティアの父によって対価が求められるようになった。それはムティアにとってはあまり興味のないことであったが、暮らしが楽になっていくのは嬉しかった。


小さな魚と野菜の切れ端だけだった家の食事は、芋になり、麦になり、米になり、ついには肉が食卓に上るようになった。家族の身なりもよくなっていった。ぼろぼろだった家も、大工を呼んで綺麗に改装してもらった。ムティアは穴のあいた姉のお下がりを何年も着続けていたが、初めてきれいな服を買ってもらった日は天にも上るような気持ちになった。


幸せな生活はいつまでも続くかに思われた。



◆◆◆◆◆



――半年後、王国軍の軍服に身を包んだ男たちがムティアのもとを訪れた。


「王宮に来て頂きたい。そこで暮らし、国のために人々を癒やして欲しい」


男たちはそう言った。噂を耳にした国王が、奇跡のように傷病を治すムティアを手元に置きたいと渇望しているというのだ。王は、ムティアを王宮で働かせることで、さらに国力を増したいと考えていた。


ムティアは、たじろいだ。


彼女にとって、王宮などというものは人生に何の関係もないものだったからだ。ムティアには、彼女の住む場所が、何か「国」という大きな枠組みの一部であるという実感がない。お母さん、お父さん、兄と姉、そして村のみんな。それが、ムティアの見る世界のすべてであった。


ムティアの父母も、やはり「国」という存在を意識して暮らして来た大人ではなかった。この村の人々は全員がそうだと言っていいだろう。頼りになるのはいつでも自分自身か、家族か、隣近所の家々だけであった。貧しい暮らしを助けてくれなかった国に、娘を渡したくはなかった。


そういったことを口にして首を縦に振らないムティアの両親に、軍服の男たちは一枚の紙を見せた。だがムティアの両親は文字が読めなかったので、結局男たちが口頭でその内容を読み上げることになった。


「王宮がムティア嬢を雇ったあかつきには、残された家族に十分な補填が行われる」

「補填?それはいったいなんです?」

「あなたたちが、一生暮らしていくのに困らないだけの金を用意してある。……おい、あれを」


軍服の男が外に向かって合図すると、数人の男たちが台車を運んできた。男たちが台車の覆いを外すと、山と積まれた金があらわになる。


「こ、これは……!」

「これは一部だ。ムティア嬢が満期まで勤め上げるのであれば、三倍の額が補填される」

「……」


ムティアは、父がごくりと生唾を飲み込む音が聞こえたような気がした。


そっと、母が後ろからムティアを抱きしめる。ムティアは母の手をぎゅっと握る。


「王は急いでおられる。今すぐに返答せよ」


父はゆっくり振り返り、ムティアの腕を掴んだ。


「ムティア、来なさい」

「――いやっ!」


ムティアは抵抗して父の手を振り払う。母はムティアをかばうように腕の中に抱え込んだ。


「あなた、やめて。いやがってる」

「ムティア一人で、俺たちは食って行けるんだ。このまま小さな村で村人相手にこの娘の力を使わせて何になる?もっと大きなことに役立てるべきだ」

「娘を手放してもいいって言うの?」

「畑に働きに出るのと何が違う。……離すんだ」


父はムティアの腕を掴むと、と引き寄せようとする。ムティアの母は抵抗したが、腕力で男に勝てるはずもない。ムティアは軍服の男の前に引き出された。


「……ムティア。お前はその【力】を国のために使うんだ」


ムティアは身じろぎした。


「お父さん、いやだ。あたし家がいい」

「わがままを云うんじゃない……さあ」


父はムティアを軍服の男に引き渡そうとする。男はその屈強な腕でムティアの腕を掴む。片手でムティアを捕まえたまま、父に向かって敬礼した。


「ご理解、感謝する」


――瞬間。


轟音とともに白い光が弾ける。その光はこれまでムティアが治療で見せてきた暖かな光とは違い、どこか激烈で、冷たい鋭さを孕んでいて――


「――ぐあああああ!!!」

「――っおい!?」


ムティアの腕を掴んでいた男が悲鳴を上げる。突然の出来事に、隣の軍服は焦ったように彼に呼びかけた。


――血の、匂い。


「ムティア……!?」


戸惑いを孕む、ムティアの母の悲壮な声が響いた。


白い光が消えると、ムティアを掴んでいた男の腕、その肘から先が消滅していた。腕の切り口からは煙が上がり、血がぼたぼたと激しく垂れ流れている。彼は腕を押さえてよたよたと下がり、膝をついた。


爆発の衝撃から逃れた方の軍服は、恐怖と混乱を映す瞳でムティアを見据え、腰の軍刀を抜き放った。


「き、貴様……!何をした!」

「ちが、違う……。あたし、そんな……」


ムティアは呆然として首を振る。その言葉を否定するように、ムティアの身体からは白い光が溢れ出していた。


「違うの……」


止めどなく溢れ出す【力】の奔流は、地を割り、壁を崩し、その場を破壊していく。


「ムティア!やめなさい!」


母はムティアに駆け寄り、身体から溢れ出す白い光ごと抱きしめようと――


「だめ、お母さ……!」


止めようとした時には、遅すぎた。


ムティアの白い光が母の身体を絡め取ると、ほんの一瞬で、その破壊は彼女の生命をずたずたに切り裂いてしまった。先ほどとは比べ物にならない量の血が跳ね、視界を染め上げる。


「……い」


母の体液を頭から浴び、ムティアはと眼を見開いた。


父はうろたえて後ずさり、その身体は、絶望を目の当たりにしたようにがたがたと震えている。


「ムティア!お、お前、何を……何を」


呆然として、軍服の男が呟く。


「悪魔の、子だ」


ムティアは何も見ていない瞳を見開いたまま、天を突いて咆哮を上げた。


「い……いやああああああああ!!!」


白い光が荒れ狂い、その場に在ったすべては、完膚なきまでにムティアの【力】によって破壊された。

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