魔法のチョーク
あっぷるピエロ
第1話
彼はまるで魔法使いのようだ。
いつも白いチョークを持っていて、それでどこかに何かを書いて問題を解決してしまう。
それを使えば、自分にも魔法が使えるのかも知れない。
──そんなことを思ったのは、算数の時間、前に出てチョークを持ったときだった。
手が慣れた様子で白チョークを弾く。弾かれたチョークはくるくると回転しながら真上に上がって、彼の手の中へ落ちてくる。また弾かれ、また落ちる。何度も何度も。教師が生徒に向かってチョークを投げる場面は漫画にあるけど、実際にやれるのだろうか。彼なら出来そうでなんか悔しい。
ひろむは石垣に隠れて目標の「彼」を眺めながらそんなことを思った。
少し離れたところで、秋風をものともせず石垣の上に腰掛けた「彼」は、無意識にのんびりとチョークを弾いて遊んでいる。その造作がペン回しくらいに格好いいのがまた悔しい。
相手の名前は佐竹。高校生と聞くとずいぶん大人っぽく見えて何だか怖いけど、小さいときから遊んでもらっていたので彼に対してはそんなことを思わない。真面目だけどいたずらも好きだと公言するタイプで、とっつきやすい兄貴分だと思われているし、ひろむもそう思っている。けれど、もう一つひろむが確信していることがある。
――彼が、魔法使いだということ。
その魔法に使うアイテムが、佐竹が肌身離さず持っているチョークだと、ひろむは知っている。ベルトにぶら下げたポーチからチョークを取り出す姿は、もう見慣れていて違和感がない。
そう、今だって覚えている。一年前、鎖の外れた大きな犬に追いかけられて、泣き叫んで走り回っていたひろむとその友だちを、彼は魔法を使って撃退したことがあった。指で弾いたチョークでアスファルトに何かを描いて、――その一瞬のことはあまり覚えていない。大きな音がしたのか、それとも眩しい光でも出たのか。気づくと犬は遠くに逃げ去っていくところで、彼は転んで怪我したひろむたちを手当てし、家まで送り届けてくれたのだ。
数日は呆然としてそのことに気づかなかったけど、あまりにも不思議すぎた。魔法だと気づいて確認しにいった時には、道路に描かれたチョークの線はすでに雨で流れたあとだった。友だちにもそのときのことをよく覚えていなかった。
けれど、ひろむは忘れられなかった。
彼がとっさに描いた魔法陣。それは漫画とかゲームとかに出てくる謎の文字とか図形にそっくりで。
彼がいつも持ち歩いているチョーク。それはいつでも杖を手放さないゲームの魔法使いそっくりだ。
それからひろむは密かに彼を魔法使いと呼ぶようになった。だから今佐竹のあとを追っている。そのチョークを一度だけでもいいから手に入れて、何かを描いてみたい。魔法を使ってみたいと。
そんなわけでひろむは、学校の帰りにランドセルを背負ったまま、石垣からそっと佐竹の様子を窺っているのだった。
佐竹が腰掛け、ひろむがその下で隠れている石垣は、町民グラウンドの土台の一部として築き上げられたものだ。グラウンドを挟んで小学校と高校が反対にあるので、学校帰りに子どもが町民グラウンドで遊んでいることは珍しくない。が、大抵は高校生ならさっさと通り過ぎて帰るのは当たり前で、こんなところで時々暇をつぶすのは佐竹以外にあまりいなかった。
それはつまり、子供受けがいいと言われる佐竹を小学生がよく知っているということで、このときも特に何をするでもなく座っていた佐竹は、背後のグラウンドから走ってきた少年に勢いよく声をかけられた。
「あ、佐竹! いいとこいた、今ひま!? ひまでしょ!?」
振り向くと、顔見知りでわりと仲のいい小学生だった。慌てているらしいが、そのわりに切羽詰まっていない。危険はないけど、小学生には事件と呼べる事態が起きたんだろうと思いながら立ち上がる。
「暇でしょって、失礼な奴だなー。で、どーした? 智」
「よっちゃんのボールが木に引っかかった! とってよ!」
「木蹴っ飛ばせば落ちてこないのか?」
「落ちてこないからいってんの!」
「登れよ」
「無理!」
よく見れば少年の手にはそこらで拾ったらしい木の棒が握られている。とりあえずはいろいろやったらしい。結果の半分にもかすりはしない努力だろうが。
カバンを落として、移動する智につられて駆け足になる。
「どこだよ?」
「グランドの隅! ほら、あの木!」
ほー、と目の上にひさしを作ってみてみれば、他にも小学生が四人くらい一本の木に下に集まっている。意味なくぴょんぴょんと跳ねている姿は、思わず笑ってしまいそうだ。
「よっちゃん! 佐竹つれてきた佐竹!」
智がダッシュでその輪の中につっこみ、どう考えても最終兵器とまでは期待されていない言い方で紹介された。当然、小学生と顔見知りが多い佐竹に向かって振り返った子どもたちが口々に叫ぶ。
「あ、佐竹!」「おおー丁度いいところにっ!」「佐竹ひまじんー」「あれ! あのボール取って!」
「おいこら、暇人って言ったやつあとでどつくぞ」
慣れた対応に小学生が沸く。そのうちの一人が佐竹の制服の裾を引っ張って上を指さした。
「あの、赤いボールだよ」
「ん? ……おおー、ずいぶんと高いところに引っかかってんな」
指さす方を仰いで、呆れるより先に感心してしまった。サッカーボールより少し小さいくらいの目立つ色は、木に登るとしても枝を五本ぐらい上がらなければ届きそうにない距離にちょこんと乗っている。街路樹よろしく植えられた木はそこまで細くも高くもないが、登りやすいかどうかはまた別だ。高いところはわりと好きだが、ささくれだった木に登るのはなるべくならやりたくない。
「はーあ、よくあんな高いところに乗ったなぁ。どっかの屋根に上げる方がまだ簡単だぞ」
自分の頭の位置にある枝を掴んでゆさゆさと揺さぶってみる。葉っぱがぱらぱらと落ちてきたが、よほど器用に引っかかっているのか目当てのボールは落ちてこない。
「ドッジしてたんだけどね!」「ボールがすごい飛んでってさ」「途中で誰が一番遠くに投げられるかになって」「高く投げられるやつに変わって」「彦が蹴ったんだ!」「けんちゃんだって蹴っただろ!」「そしたらあんなとこに引っかかっちゃったんだ!」
口々に状況説明がされるが、この際誰が原因かはあんまり関係ない。むしろ全然関係ない。
「うーん……大雨でも降りゃそのうちころっと落ちてきそうだけど」
適当に分析して呟いてみるが、感情に率直な小学生達はわかりやすく不満そうに声を上げた。
「ダメだよなくなっちゃうかもしれないじゃん!」「すぐに取れないの?」「雨なんていつくるんだよー……」
「あー、はいはい。わかったわかった。ちょっとどいてろ」
小学生五人を下がらせ、無駄だとは思いつつも数歩退いて、勢いよく幹を蹴りつける。漫画のようにずしんとは揺れなかったが、多少くあんと木はよろめいたようだ。一瞬後に落ちてきたのは、大量の枯れ葉だった。
「ぎゃあ、痛い!」「うわ、目が!」「わああああ!」
騒がしい声に紛れて、佐竹も頭の上に落ちてきた枝に叩かれて「あがっ」と悲鳴を上げた。葉っぱの雨が収まってから、制服についた葉を払う。恨みがましそうに見ている子どもは無視。
「やっぱダメだったかー」
「「佐竹ひどい!」」
「うるせぇ。やることやってからじゃないと納得しないだろ」
ふんと鼻を鳴らしてみせるが、対抗していーっと口を左右に引っ張った顔で文句を言われただけだった。
「仕方ねぇなあ……」
さきほど智に呼ばれた時から握りっぱなしだったチョークを、いつもの癖で弾き上げる。ぱっと智以下数名が顔を輝かせた。佐竹がこうした動作をする時は、ようやく本気を出すのだと知っているからだ。
「おい、また葉っぱが大量に降ってくるかもしれんから、というか降ってくるから、さっきより離れてろ」
今度は文句もいわず素直に子ども達が後ろへ下がる。佐竹は肩をすくめて木に向き直った。
手を伸ばして触れた木肌は、ざらざらしていてすぐに表面がぱらぱらと割れ砕けた。登らなくて正解だと思いながら、くるりと回したチョークをおもむろに木に押しつける。
大雑把に文字や図形を書き、できあがりとばかりにその場所を叩いた。
瞬間、今度こそ地面が揺れた。
「──わぁっ!」
──ように感じた。声を上げた小学生は、よろめいて目を瞬かせる。実際に揺れたのは木だけで、その震動が空気に伝わって子ども達を驚かせただけだ。示したわけでもないのに一様に上を見上げた五人は、赤い球が丁度落ちてくる様子を見つけた。
ぽーん、と弾力のあるボールは地面で高く跳ねたあと、てんで別の方に転がっていった。それを慌ててよっちゃんが捕まえに行く。
「おおお、来たー!」「やったぁ!」「佐竹すげー!」「よっちゃんボールぅ!」
佐竹が何をしたかというのは気にも止めていない。半数が遠くに転がっていったボールを追いかけて走っていき、礼の言葉もない。そんなことで怒るほど心が貧しくはないが、佐竹は渋い顔でそれを見送った。
「大丈夫? 佐竹」
昔から縁があって親しいため敬語を使われると居心地が悪いのだが、さばさばした口調で言われると心配されてないように聞こえるからもの悲しい。心配半分呆れ半分の声で聞いてきた智に、唯一直下で葉っぱをかぶった佐竹は微妙な顔で葉っぱを払って答えた。
「怪我はないかって意味なら大丈夫だが、気分はどうかって聞かれるとよくはない」
「……? よくわからん」
離れた場所でボールを捕まえた少年らの歓声が聞こえてくる。智はすぐにそちらへ駆け出しながら、佐竹に「ありがと、佐竹!」と感謝の言葉を投げつけていった。
「次は取ってやらねえぞ!」
と叫ぶと、わかったーという返事と共に今更ながら重ねて礼の言葉が返ってきた。すぐに蹴り上げたボールを追って、グラウンドを走り始める彼らを眺め、佐竹は鞄を放りだした場所まで歩き始めた。
先がほんの少し削れたチョークを弾きあげて、いつものようにキャッチし、小銭入れ程度の小型のポーチにつっこんだ。
石垣の上まで戻ってきて、佐竹は空を仰いだ。ここを離れる前は空の端っこだけがオレンジ色だった夕焼けは、今は空の半分ぐらいにまでなっていた。これからすぐに日が暮れるだろう、智たちに早く帰れといってきた方がよかったかな、と考える。どうせ言っても帰る時間が変わることはないだろうと思うけど。
カバンを持ち上げて肩に担ぎ、傍らの気配に呟く。
「そんなところで何やってんだ? ひろむ」
「ぎくっ」
わかりやすいな、と佐竹は笑った。石垣の下で縮こまっていたひろむは、鬼に簡単に見つかってしまったかくれんぼみたいに、ぷくぅとほっぺたをふくらませて立ち上がった。
「丁度いい、一緒に帰るか」
「えぇ?」
「何だ、いやか。残念だなー、たこ焼きでも買って帰ろうかなと思っていたけど」
「えっ」
たこ焼きという言葉に心惹かれたわけでもないだろうが、お小遣いの額も乏しく買い食いが許されていない小学生には特別なことに感じるらしい。決め手を探すように左右を見回したひろむはおずおずと佐竹の顔を伺い、ゆるみそうになる頬を挟んで駆けよってきた。石垣から飛び降りて、その頭をわしわしと撫でる。
「何だよぉ」
「別に。さー帰るぞー」
さっさと帰路へつく佐竹を追って、ひろむはあわててその隣に並んだ。隠れていながらも智に呼ばれていったことが気になっていたらしく、それについての質問が飛んだ。肩をすくめて佐竹は二言三言で返事をする。そのうちに話はぽんぽんと変わり、好きな食べ物、最近のがんばったこと、勉強の話などになっていった。
夕陽が見えなくなった頃、佐竹は本当にたこ焼き屋さんに寄った。
「夕食があるから、少しな」
そういって四つ入りの小さなたこ焼きパックを買って、二人で半分こにした。久しぶりに食べたたこ焼きの味に満足しながらソースでべたべたになった口の周りをふいて、ひろむは「おいしかった」と彼に言った。佐竹は口の前で人差し指を立てて「秘密だぞ」と言った。もちろんひろむは約束した。
住宅街までの近道を歩いているとき、ふと佐竹が言った。
「で、今日は何やってたんだ?」
ひろむは何のことかと首を傾げた。佐竹がズボンに手を突っ込んだまま付け足した。「グラウンドでな」
「あ……」
佐竹のチョークをどうやって持ち出そうか。特に何の考えもなく、とりあえず彼を見張っていたのだった。どう説明しようか、どうごまかそうかひろむは薄暗い道の方に視線を泳がせた。
それをすべて見透かすように、佐竹が笑って言った。
「何を狙ってたんだ? どろぼうはダメだぞ?」
「違うよ、チョークをもらおうと思ってたんだよ!」
言ってからしまったと思った。しかし、予想に反して佐竹は意外そうな顔で首を傾げた。
「チョーク? これか?」
取り出す動作すら気取られない動きで、佐竹の手の中に白い白墨が姿を現した。まるで手品だ。ひろむは目を丸くしてうなずいた。
「そんな珍しいもんか? 学校行きゃあるだろ」
いいつつ、佐竹はベルトからポーチを取って中を開けた。先が削れていたのか、取り出したチョークをしまうと真新しい別の一本を取り出す。
「ほれ」
「?」
「やるよ」
えっ! 素っ頓狂な声を上げてひろむは手の中に預けられたチョークを見下ろした。
思わない唐突な目標のゴールだった。まさかこんなに簡単に魔法のチョークが手にはいるなんて!
「え、でもいいの?」
「別に構わんぞ? いつでも持ち歩いてるんだから」
ポーチの中には四、五本チョークが常に入っているらしい。そのうちの一本をもらったということが信じられなくて、ひろむは元気よく礼を言ってポケットにチョークをつっこんだ。
「あーあー、ポケットが白くなるぞ」
「帰ったらすぐに出す!」
「はいはい。でもなんか、たこ焼きの時より元気な礼だなぁおい……」
結局佐竹はひろむの家まで送り届けてくれて、手を振って別れた。
◇
ひろむが何を思ってチョークを欲しがっていたのかわからず、気にも留めていなかった佐竹は、次の日の放課後待ち伏せしていたひろむの言葉でようやくその理由を知った。
ひろむはいつも町民グラウンドを直進して帰る佐竹の帰り道を塞ぐように、仁王立ちして頬をふくらませていた。掲げたのは、ずいぶんと短くなった白いチョーク。
「佐竹! これ普通のチョークだった!」
何にも起こらなかったとひろむは怒った。佐竹は何を当たり前のことを、と思いつつさらりと答えた。
「そりゃ、学校からパクってきたもんだし」
「ええええっ!? 何で!」
ひろむは佐竹の言葉に衝撃的な反応を示して叫んだ。何事かと佐竹は困ったように眉を下げた。
「何を期待してたんだ、おまえは」
「……魔法が使えるかと思って」
一転してしょんぼりと肩を落としたひろむに、佐竹は言葉を飲み込んだ。「……」何を言い出したかと思えば、そういうことか。
「俺が持ってるチョーク使えば、魔法が使えるかもって?」
「うん……だって佐竹、いつもチョークで魔法使ってるし」
「そうだっけか?」
「犬、退治してくれたし……」
そらとぼけたような佐竹の言葉にも、ひろむは噛みつくこともなく沈み込んだ声で呟いた。
「俺が使ってるのはふつーの、一般的なただのチョークだよ。学校から、無断で持ち出してきたもんだ」
「どろぼうはダメっていったのに……」
「学校はある程度文房具を提供してくれる場でもあるからなぁ」
飄々とうそぶいて、佐竹は頭を掻いた。ちゃっかり学校の備品を抜き取っているのは、だいたい学年みんなが知っている。たぶんよく長さが変わっていることも、誰の仕業かばれているだろう。怒られたことはないけど。
「悪いな、ご期待に添えなくて」
自分より低い位置にある頭をぽんぽんと撫でて、佐竹は傍を通り過ぎた。いつも一緒に帰ろうという仲でもないので、誘うことはやめておいた。ひろむは追いかけてこなかった。
下校のチャイムが鳴り終わるまで、ひろむは石垣のところで座り込んでいた。高校生や友だちが何人も通り過ぎていったけど、離れたところで座り込んでいるひろむに声をかける人はいなかった。
チャイムを合図に、ため息をついて石垣から飛び降りる。ショックで何にも考えられなくなっていて、無意識に通学路を辿りながら何度も肩を落とした。何がショックなのかわからないけど、沈んだ気持ちでひろむはうなだれていた。
オレンジ色に染められた光の中、地面に目を落として歩く。一番ひっかかっているのは、佐竹がそれを肯定しなかったことだ。魔法が使えるチョークだということを否定された。佐竹が普通だと言ったこと、なんでもないといったことがすごく寂しかった。
「魔法のチョークじゃないのか……」
ため息ということもわからないまま息を吐き出して、ひろむは握っていたチョークを地面に落とした。チョークは小さく跳ねて道路を転がっていた。
「……佐竹の、」
片足を引いて、
「バカッ」
チョークを蹴飛ばす。
チョークはけっこう飛び上がって、道路の向かいにいる人の足下まで転がっていた。靴にあたったそれに気づいた影は、腰をかがめてチョークを拾い上げた。顔を上げた相手を見たひろむは、思わずびくりと身を縮めた。相手が全身真っ黒なコートを着ていたせいだ。秋だから風は冷たくなってきているけれど、まだ寒くない時期なのに、帽子をかぶりサングラスをかけている姿は、小学生が身をすくませるに充分だった。
固まっているひろむを道路越しに眺め、男は低い声で声をかけてきた。
「魔法使いのチョークを探しているのかい?」
「!」
ぎょっとして男の顔を見る。どうして、チョークが転がっていっただけでそんなことがわかるのだろうか。
「魔法使いの名前を言っただろう」
驚き怯えるひろむの心の内を読んだように、男が付け足した。
「この辺りで、佐竹という名前のチョークを使う魔法使いは、一人だ」
どくん、と心臓が跳ねた。ひろむは思わず聞き返した。魔法使い。魔法使い!?
「魔法使いの道具で人が同じように魔法を使うのは難しい。だから、『魔法の杖』や『剣』が存在する。チョークも同じこと」
魔法の道具とはそんなものだ、と男は少しかすれた声でぽつぽつと付け加えた。道路を挟んでいるのに、それらの言葉ははっきりとひとむの耳に届いた。
「少年。君は、それが欲しいのかい?」
ひときわ、その言葉は強くひろむの胸に響いた。それは……それはつまり、魔法のチョークがあるということ?
「じゃあ……」震える声でひろむは聞いた。「それを使えば、ぼくにも魔法が使える?」
男は小さく頷いたようだった。
君が本当に魔法を信じているのなら――
男は夕焼けに溶ける声で呟き、誰も通らない道路を横断してきた。そして、黒いコートからまた黒い手袋に包まれた手を出し、ひろむの手の中に真新しいチョークを落とした。まるで佐竹のように、どこから取り出したという動作も見せずに。
「『魔法のチョーク』だ。どう使うかは、君の自由だよ」
そうして、男は気づくと消えていた。我に返ったひろむは慌てて辺りを見回したが、ぽつぽつと近所のおじさんやおばさん見えるぐらいだった。ひろむはなおもグルグルと辺りを見たが、誰も発見できず、その場から逃げ出すように家までの道を走り出した。気づかず手は渡されたチョークを握りしめていた。
◇
夜、佐竹は自宅のダイニングで宿題を終えた後のコーヒーを作っていた。湯を注いだドリップコーヒーがマグカップに落ちるのを待つ間、左手でチョークを回す練習をする。
「んー……やっぱり左じゃ円が描けないか……」
くるりと回したチョークは掴むことに失敗し、床に落ちて折れた。渋い顔をして砕けたかけらを見下ろし、それを拾い集める。
妙な言い回しで自分を呼ばれ、佐竹は露骨に冷めた目をして声の主を振り返った。どてらを着た父親がリビングのこたつで丸くなっている。昼間はまだ暑い季節だというのに、こたつを出してからこの人は常にこたつにはりついている。
「今日ね、『佐竹のバカー』っていいながら石を蹴る小学生を見たんだけど。見たことある顔だったけど、誰かな?」
「あー」
佐竹のバカ、といいながら石を蹴る小学生。しかも今日。一人しか思いあたらない。
「ひろむか」
「ひろむ? どこの?」
「近所だよ。ほら、バス停の近くの、織部さんち」
「ああ、織部さんトコの息子かあ」
佐竹なんて呼ばれるから、ドキッとしちゃったよ。こたつの中で溶けたまま、どてらはのたまった。佐竹の父親なのだから姓は当然佐竹なのだが、ふつうわかるだろ。
「何したの?」
「んー……特に何もした覚えはないが」
強いて言えば、少年の期待を裏切ったことだろうか。裏切るつもりもなかったが。
父親はそれほど気にしてなさそうに、ほどほどにしておいてやんなよ、と言った。適当に答えて湯の落ちきったドリップを取り外す。
「そんなにショックかねぇ……」
魔法のチョークなんてものがないことが。砕けたチョークを捨て、代わりにペン立てからシャーペンを取り出して回しながら、佐竹は今度詫びついでに遊びに連れて行ってやろうかと思う。
脈絡なく、さっきより真剣な声音で父が名前を呼ばわった。顔を向けると、父親は胸を張って指を立てた。
「いいことを教えてやろう。父さんの信条はたった一つだ」
こたつに入ったまま、つまり寝っ転がって仰向けの状態で指を立てられてもまったく格好良くもなければ威厳もない。何を言い出したかとあいづちも打たず続きを待つ。
「『楽しくて、面白ければいい』」
「ダメな大人だな」
思わず声に出た。父は「ぐはぁ」と叫んで撃沈した。なので、それも一理あるなと思った方は口には出さない。
楽しいのはいいことだ。人生には楽しいこと、面白いことがあればいい。なければ自分で作るまで。父親は間違いなくそういう生き方をしているし、それは間違っていないと思う。ただ胸を張って叫ぶといろいろとダメな気がするだけで。
家族内で手分けしている家事分担を父親に投げて、佐竹はコーヒーを持ってダイニングを出た。コーヒーに口をつけながら、『楽しくて面白ければいい』人生とはまるで夢物語のようだと思った。
でも、それを否定はしない。何せ佐竹も、人生は楽しければいいと思っているのだから。
◇
翌日、学校でランドセルから教科書を出して引き出しにしまっていたひろむは、大きな袋を持って駆けよってきたクラスの友だちに声をかけられた。
「おはよ、ひろむ!」
「あ、おはよう、智」
「なあなあ、ひろむんちって、佐竹の家近かったよね」
「うん」
「これ、佐竹に渡しといてくんない?」
机の上にどんと置かれたのは、大きな箱が入った大袋だった。クッキーとかが入っている箱に似ている。
「何これ?」
「前に、よっちゃんのボール取ってもらったお礼」
「ボール?」
ひろむも思い当たった。石垣に隠れていたとき、確かに智が来て佐竹を呼んでいった。
「魔法で?」
彼らが何をしていたのかひろむは見ていないが、佐竹が関わっているならとまずそう思った。問い返した質問に、智は目をぱちくりと瞬いた。
「魔法? あー、確かに魔法みたいだもんな、あれ。何か描いててさ、おまじまいかな?」
描いていた。ひろむは自分でも驚くほど敏感にその言葉に反応した。
「どこ? 何に描いてた?」
「ボールが引っかかった木だよ。グランドの隅の」
智は首を傾げながらもきちんと答えてくれたが、ひろむほど佐竹の行動を気にも留めていないらしく、すぐに菓子箱を突きつけて念を押すように言った。
「そのさ、ボール取ってもらったときのことを母ちゃんに言ったら、いつも世話になってるからお礼しなきゃって。でもおれ家しらないし! だから、ひろむに頼んでもいいかなぁ?」
ひろむは何も考えず頷いた。佐竹なら学校が終わったあと待っていれば会える確率は高いのだが、こっちの方が確実だと思ったのだろう。
「でも、ぼくのロッカーに入らないから、放課後渡してよ」
「あ、そっか。わかった、また後でな」
智はひとまず箱を抱えると、ひろむの肩を叩いて自分のロッカーに駆けていった。途中で噂のよっちゃんも登校してきて、彼らはすぐに昨日見たアニメの話で盛り上がり始めた。
引き出しの整理を終えたひろむは、ふと思いついてポケットに入れていたそれを出して眺めてみた。
ハンカチに包んで入れてきた『魔法のチョーク』。それは佐竹にもらったものより白が強く、真珠みたいにきらきらと光って見える。
(描いたものが現実になるわけじゃないんだろうな……)
佐竹が何かを描くときは、必ず円を描く。中には難しい文字とかと書いていて、やっぱり魔法陣らしくないと魔法は使えないんだろう。試しに家の前の道路に絵を描いてみたがきらきらと光を発する線が描けただけで、魔法みたいなことは起こらなかった。欲しいゲームやロボットの絵を描いてみたけど、どれもむくむくと盛り上がって本物になったりはしてくれなかった。
魔法って難しい。ひろむは頬をふくらませてため息をついた。
そうしているうちに、朝のチャイムが鳴った。
放課後、ひろむは大袋を受け取るのもそこそこにして智から聞き出した情報を元に、まっすぐ町民グラウンドの隅に向かった。街路樹の数はそこまで多くない。智が指した方へ走っていって、ランドセルを投げ捨て、片っ端から幹を眺めていった。
六本目の木に、それは描かれていた。
(――魔法陣だ!)
ひろむと丁度同じ高さの幹に、白い線で描かれた図形。それは何度も見たことのある、佐竹の紋章とも言うべき象徴のイラスト。日が経っていないせいか、消えかけている部分もほとんどなかった。
ひろむは慌ててカバンにとって返し、ノートと鉛筆をとりだした。何度も見返し、魔法陣をメモする。そうしてランドセルを担ぎ、小学校裏のロータリーに駆け込んだ。人があんまり来ないし車も全然通らない、ただアスファルトが敷かれただけの地面で再びカバンを放り出す。
ポケットにつっこんでいた『魔法のチョーク』を取り出す。朝と変わらず、きらきら輝いてみえる。
乾いたアスファルトにノートを放り出し、ノートと地面をにらめっこしながら魔法陣を描く。線は歪んでぐにゃぐにゃ、中の字はアルファベットに似ているとかろうじて思えるくらいの見たことない文字。一生懸命なぞり、三回も書き直して出来たのは、寝ころんだらひろむと同じ背丈ぐらいの大きな魔法陣だった。
「ふぅー……」
チョークもずいぶん短くなってしまった。でも、今度は魔法が発動するような気がする。なぜなら、描き上げた魔法陣が今にもフラッシュを焚こうとするかのように輝いているからだ。
(佐竹は、このあとどうしてたっけ?)
何度か見たはずのお決まりの動作。ゲームや漫画の魔法使いはどうしてるんだろう。ひろむは魔法陣の上にしゃがみこんでうなった。考え込んでいるうちに指先で掴んでいたチョークが落ちて、慌ててそれを追う。手のひらが、魔法陣に触れた。
ひときわ強く線が輝く。瞬間、お腹が殴られたかのようなすごい衝撃がひろむを襲った。
「う、わあっ!」
バランスを崩して転ぶ。アスファルトにぶつかった肩が痛い。視界はまだ揺れる。腹の底から響く音。周囲の気が盛大に揺れ、木の葉がばさばさと鳴った。ひろむは悟った。
「じ、しんっ!?」
巨人が蹴飛ばしたかのような振動が、小学校を中心にその地区を揺らした。
けれどそれは唐突に収束し、多くはひろむが受けたほどでもない揺れに驚いて、日常に戻っていった。このときの地震はニュースに上がらなかったが、そこまで気にかけた人もいなかった。
ただし、それを地震ではなく『魔法』として受け止めた人は、激しい反応をして行動を起こした。
一方は口笛を吹き、一方は――。
◇
ざわり、と第六感を訴える神経が音を立てて鳴った。
「───っ!」
同時、彼にも激しい地震のような揺れが襲った。思わず膝をつき、揺れに耐える。やはり唐突に地震はおさまり、耳鳴りがするような静けさが戻ってくる。
揺れが去っても、彼は全身が鳥肌を立てるような感覚にさらされたまま息を詰めていた。それから、ぐいと頬を引っ張られるように遠くを振り返った。
それをある人は共鳴と呼んだし、ある人は精霊の叫び声だと言った。その感覚を何と呼ぶかは何でもいいけど、ただ一つわかることは。
──魔法使いがいる。そしてそれは、何か異常事態が起きている証拠だ。
彼はすぐさま道を引き返し、遠くでざわめく気配を追った。
◇
ひろむは肩を大きくおろして地面に座り込んでいた。その下に敷かれている魔法陣は、役目は終えたとばかりに、チョークと同じに光っていた輝きを失っていた。
「はー……びっくりしたぁ……」
深呼吸してそう口に出すと、緊張していた体がほっとしてゆるんだ。ひろむはまだばくばくしている心臓をおさえながら、ひきつるように顔が笑うのを止められなかった。
(魔法が、使えた)
あんなにあこがれていた魔法が。自分に、使えた。
それはなんて感動なんだろう。
ひろむは思わず声に出して笑った。嬉しかったというのもあるし、起こった魔法が怖かったともいえる。満足だった。
(他に何が出来るんだろう?)
残り少ないチョークを眺め、今度は口をへの字に曲げる。佐竹が使うような魔法陣でなければ魔法が使えないのなら、ひろむはその図を何一つ知らない。他に出来ることが見あたらない。
ため息をついて立ち上がると、背後から声がかかった。
「すばらしい。すごいな、思ってた以上だ。本当に魔法を発動させることが出来るなんて」
ぎょっとして振り返ると、全身真っ黒な男の姿。『魔法のチョーク』を寄越した、あの男の人だった。男は拍手をしながらひろむの元まで歩いてくると、描かれていた魔法陣を見下ろし笑った。
「どうだい? 魔法をつかった感想は」
男に言われて、ひろむにも本当に魔法が使えたんだと目を輝かせた。「すごいね! ホントにすごい! ぼくが魔法を使ったんだ!」
「嬉しいかい?」
「すっごく嬉しい!」
飛び上がるくらい喜んでひろむは意気揚々と男に報告した。小学生らしい大げさな身振り手振りで、何度も繰り返して体験談をしゃべる。
男は満足げに頷いて聞いていたが、あるところで話を止めるために手のひらをあげた。ひろむの眼前に出された手に驚いて、声が途切れる。
「君には才能があるかもしれないね」
男はひろむに合わせて少し背をかがませ、唇を笑みの形に作って囁いた。――もっとすごい魔法を、使ってみたくはないか?
「え……あるの?」ぼくにも使える魔法が。
男は大きく頷いた。そうして、コートの内側から折りたたまれた紙をとりだすと、ひろむに手渡した。
「落ち着いて、描いてごらん」
ひろむは感激して礼の言葉も半分に何も描かれていない地面に駆けていって、チョークをアスファルトに滑らせ始めた。男はそれを楽しそうに眺めていたが、時々手を出してひろむを手伝った。
完成したのは、緻密で複雑怪奇な模様の魔法陣。それは、ひろむが考えたどのゲームの魔法陣よりも細かかった。顔を輝かせて体を伸ばしたひろむは、振り返って男に自分のやったことを示した。男は嬉しそうににやりと笑った。ひろむの頭を撫で、宙に呟く。
「さあ、やって来い。魔法使い」
どろりと笑う、宣言するような男の言葉。ひろむがその言葉の意味がわからず首をかしげた隙に、男はかがみこんでそれに触れた。
線が淡く発光する。
刹那、光が爆発した。
「──? ……──? ……」
長い、何秒か、何分経ったのかわからない空白を過ぎて、ひろむはようやく眩暈から覚めた。いつの間にか自分は道路に尻もちをついていて、なんだかすごく疲れているな、と思った。
何が起こったっけ、何が起きたっけ、とちかちかする目をこすって顔を上げる。途端、目の前に黒服の男の姿が飛び込んできて、ひろむは我に返った。
ひろむの意識が晴れたのを知ったのか、男が明るく言った。
「さあ、ゲームの始まりだよ」
ゲーム? 何のことかと思い返し、
(あ――魔法が、発動して、)
どうなった? と首を傾げて目を動かし――その表情が凍りついた。
いつの間に現れたのか、完成していた大きな魔法陣の上に大きな黒い狗が立っていた。男の腰まである背、黒い体は水の中を泳いできたかのように怖気の走るつややかで輝き、開いた口から真っ赤な舌をのぞかせていた。爛々と光る目が金色い。魔物。ひろむがかろうじて初めに思ったのはそれだった。
せいぜい楽しませてくれな。男が低く笑うと同時に、黒狗がどう猛な声で低く太く吠えた。
ひろむの肌が総毛立った。一年前の、大きな犬に追われた時の記憶と同じこと――それ以上に恐ろしいことが、目の前に迫っている。
「う、わあああああっ!」
鞄も放りだしたまま、ひろむは転びそうになりながらその場を逃げ出した。
ゲームの中の魔物は、主人公がさっと叩いただけで簡単に倒せてしまう。けれど実際は、小学生には追いかけてくる犬が魔王より怖い。
地面に叩きつけて走る足が痛い。めちゃくちゃに足を動かして、息がすぐに切れた。痛むのどで助けを叫んだけど、何も聞こえなかった。耳の奥で風がごうごうと聞こえる。心臓が体中で飛び跳ねているみたいにどくんどくんと脈打って痛い。体が重くなってくる。歪んだ視界のまま、ひろむはどこに向かっているかもわからず小学校の敷地中を走り回った。
逃げなきゃ、逃げなきゃ! 怖い、痛い、嫌だ! どこに? どこに逃げよう? 家まで遠い、人はいない、どこか逃げ込める場所が見つからない。必死に走っているつもりなのに、全然足が前に進まない。中庭、校舎、体育館の姿が瞳の上を滑る。景色が全然動かない。嫌だ怖い怖い怖い!
「う、わっ!」
突然に足がもつれて、ひろむは思いっきり地面の上に転んだ。がつんとぶつけた手と膝が、一気に熱くなる。痛い。頭から足まで痺れたように衝撃が尾を引いて、目の奥がちかちかする。
衝撃でいきなり何にも考えられなくなって、ひろむは座り込んだまま手をついた地面を見つめていた。ぐらぐらと意識の外側で景色が回る。軽快な足音が近づいてくる。ハッ、ハッ、と狗の吐息がやってくる。
ふと、本当に何も考えず、何気なく顔を上げて振り返ったひろむは、飛びかかろうと顎を開いた黒狗が真後ろにいるのを見つけて、引きつった悲鳴を上げた。
ひろむの悲鳴と、
黒狗が飛びかかるのと、
第三者が飛び込んでくるのは同時だった。
「うおらぁっ!」
ひろむの前から現れた第三者は、一直線に狗へ向かってつっこみ、鞄を全力で横なぎに振り切った。重い一撃が黒狗の顔面に衝突、相手を殴り飛ばす。反動で鞄も飛んでいってしまったが、分厚い辞書が入っているのを感謝する日が来るとは思わなかった。
「大丈夫か、ひろむ!」
急ブレーキをかけて止まった佐竹は、盛大に転んで怪我をしたひろむの肩を掴んだ。あまりにいろいろと驚きすぎたのか、反応に数秒かかったが、ひろむは呆然とした声で佐竹の名前を呼んだ。
「何だいったい! おい、立てるか?」
ひろむは気の抜けた顔でぐったりとしていたが、何とかうなずいてよろよろと立ち上がった。
ぐるるる……
その間に起き上がった黒狗が喉の奥で威嚇するように唸った。獲物を狙う捕食者の目だ。ひろむがひっ、と悲鳴をあげて佐竹の背に隠れた。
と、臨戦態勢だった黒狗が動きを止めた。
「――――」
突然、声が佐竹の名前を呼んだ。
反射的に睨み付けながら振り向くと、真っ黒の年も顔をもわからない人物が影のようにたたずんでいた。
「その狗はその子が喚んだんだよ。魔法が使いたくて熱望していたから、手を貸したんだ」
佐竹の後ろでひろむは体を縮めて佐竹の服をつかんだ。
相手を見、投げかけられた言葉を理解すると、何が起こっているのか瞬時にだいたい把握できた。佐竹は思わず悪態をついた。
「てめっ……!」
「さあ、魔法使い。見事その子を守りきって、こいつを退治してくれ」
ぜひとも楽しませてくれ。いかにも楽しげにそいつは言う。他人事もいいところだ。返答はせず、佐竹はひろむの腕を掴んでその場から逃げ出した。
佐竹たちの姿が見えなくなったところで、男がすっと腕を上げた。それを合図に、動きを止めていた黒狗が動き出す。それはすぐに追い上げにかかる。
いつの間にかどこかで拾った枝で、佐竹は追いついてきた狗に殴りかかった。黒狗も多少はひるんだが、すぐにまた牙を剥く。三回目にフルスイングしたら、枝が折れた。
「あーくそ! 俺だって痛いのいやなんだけど! 肉弾戦なんかできるかっ。ひろむ、おまえ囮やれよ!」
「無理ー!」
「やっぱな」
いつの間にか小学校下から、町民グラウンドまで走ってきたらしい。全力疾走だとそろそろ体力がゼロになる。早々にどこかへ逃げ込みたいが、小学生を引っ張りながらフェンスを跳び越える運動能力はないし、広い場所に出たら向こうの方が有利だろう。とにかくひろむをどこかに避難させなければ。
「佐竹っ!」
ひろむの声。何だと答える余裕もない。走った悪寒に、反射的に体を横にずらして身をかわす。
黒い疾風が皮膚を削り取っていくように体をかすめていった。
「……!」
風圧かプレッシャーか、引っ張られて倒れそうになるのをこらえ、佐竹はひろむの腕を引いて街路樹の方へ進路を変えた。立ちふさがった黒狗も直ぐに向きを変えてくる。じわじわと追い詰めるようなスピードの上げ方にぞっとしながらちらちらと狗を振り返っていたひろむは、ふいに前を走る救世主の異常に気づいた。
風を切って走る佐竹の、向かい風であおられてふくらむ制服のブレザー。その左脇が、ごっそりと裂けて無くなっていたのだ。
「――っ!」
息も切れ切れに声のない悲鳴を上げる。
紙一重で怪我はしていないのか、佐竹はまったく変わらぬまま走り続けている。まさか自分の服が大きく裂けていることに気づいていないわけがない。動揺するひろむには気づいているのかいないのか、腕を離そうとせずグラウンドの周りを囲む道路を走る。ジグザグに電柱や置いてある車を迂回したのが効いたのか、少しだけ狗は距離を離されていた。
「……しまった」
腰に手を当てた佐竹が明後日の方向を見ていった。
「ポーチ、カバンの中に入れっぱだ」
半秒遅れてつまりチョークを持っていないということだと気づいて、ひろむは悲鳴を上げた。
「えええ! いつも持ち歩いていたんじゃなにの!?」
「中身が減ったから学校で補充して、そのまんまだった。しまったな」
「冷静に言わないでよ!」
弟分からのツッコミを受け流しながら素早く佐竹は周囲に目を配った。グラウンドはがらんとしているが、周りには石垣と木、何の目的で建てられたか不明の石塔、向こうには中途半端に切り崩された山がある。フェンスぐらいから狗は飛び越えてくる気がするから、もう少し高いところに……。
「ひろむ、どっか高いところ登れ!」
「ええっ?」
とりあえず石塔の石垣の上に放り上げて、佐竹は走りながら怒鳴った。「狗だから簡単に登ってこない! 木でも岩でも、高いところ上がってろ!」
傍らに立つ身長の三倍はありそうな石塔を見上げて唖然としている間に、彼は石垣の方へ走っていってしまった。黒狗が大きな石が三つ四つ積み上げられた石塔の土台に立つひろむに気づいたが、飛んできた石に気を取られ、即座に牙を抜いて走り出した。向こうで地面に転がっていた石を投げつけていた佐竹が身をひるがえす。
狙われているのは佐竹だ。どうしよう。逃げられる? どうやって。
襲ってくる狗から逃げられて、そこですでにひろむは安堵していた。だけど状況は変わっていない。相手の目標であるひろむが、佐竹に変わっただけ。
チョークがない佐竹は、魔法が使えないのだと思う。ゲームの中では、魔法使いは呪文も唱えるものだけど、佐竹にそれができるのだとは思えなかった。
書くもの、書くもの。何かしなければいけないという強迫観念に駆られて、ひろむは必死に辺りを見回した。アスファルトの道路、植えられた木、隣には森があって、グラウンドの前に佐竹と狗。
ふいにひろむは、グラウンドの隅にある砂の山に思い当たった。山を削って作られた町民グラウンドは、片面が削られた山の斜面に接している。そこで遊ぶ子どもは多いし、ひろむだってよく遊んだ。
石垣を飛び降りて、ひろむは山の斜面にしがみついた。下の方は細かく崩れていて使い物にならない。自分でも掴めるくらいに大きなものを探す。斜面を滑り降りて、背中を見せている彼に叫んだ。
「佐竹!」
見つけたそれを、思いっきり佐竹に向かって投げる。呼ばれた方は驚いて振り返り、また飛んできたものにも驚いて避けたあと、目を見開いてそれを凝視した。
「てめ、バカひろむ! ナイスじゃねえか!」
「誰がバカだーっ!」
言い返したがそれには返答がなく、佐竹はすでにひろむが投げて地面で砕けているその欠片を手に取っていた。
ろう石。ひろむは正式名称を知らなかったが、子ども達の間ではそれはお絵かき石と呼ばれている、その名の通り地面に文字や絵を書くことができる柔らかい鉱石だ。
砕けた欠片の中でも一番大きな、彼がいつも手の中で弾く大きさの石を拾い上げ、魔法使いは反撃ののろしを上げた。
アスファルトの上を石が滑る。チョークで書いたように白い線が走る。
彼が最初に何を描くかは知っていた。魔法陣なら基本中の基本だ。それは巨大というには小さく、小型というには大きな円。
彼はいつだって完璧な真円を描く。道具も使わず、まるで自分自身がコンパスであるように。
円を描けば彼の結界はすでに成り立っている。あとは四角や三角の模様を組み合わせ、文字を書き込み、魔法陣を完成させるだけ。
黒狗が、魔物さながらに赤い目を光らせ、涎を垂らし牙を剥いて飛びかかる。それに向かって、佐竹はただ、魔法陣に触れた。
線が白く輝く。そこまで強くないはずなのに異様に眩しくて、ひろむはその一瞬、目を閉じた。
ゲームの魔法さながら、透明な壁が黒狗を阻む。ぎゃんっ、と悲鳴を上げた体を、白い光が貫いた。
──光が収まった時、黒狗も男も、姿を消してしまっていた。
◇
「あー……疲れたぁー……」
ひろむが状況を把握する前に、佐竹は地面に寝っ転がった。仰向けで大の字だ。大人だと思っていた高校生らしくない姿に、気の抜けた笑顔で笑いながらひろむは近づいた。
「大丈夫? 佐竹兄ちゃん」
「おー。ナイス機転だぜひろむー。よくやった」
地面に寝っ転がったまま、佐竹が手を伸ばしてわしわしと頭を撫でる。ひろむはえへへ、とちょっとだけ自慢げに笑って地面に座り込んだ。
「あー……すごい怪我してんな。ひとまず洗った方がいいか……」
ひろむの膝に目を止めて、佐竹が呟く。さっきまで痛くなかったのに、気づくとしくしくと痛み出してくる。
「痛い……」
「だろうな……。よし、うちで手当てしてやるから、ついてこい」
よいしょと起き上がった佐竹は、そういえば鞄拾って来なきゃな、と考え……動くのがとても面倒だなと思い、あとで家人に頼もうと決めた。
ひろむを立たせ、グラウンド近くの水道で傷口を洗ってだけすませて家までの道をたどる。
その間に、ひろむがぽつりと言った。
「あれ……魔法使いなの?」
「さあな。どう思う?」
「……また、襲われるの?」
怯えが入った声に、佐竹は大きくため息をついた。
「大丈夫だ」
はげます代わりに頭をわしわしと強く撫でて、もう一度念を押すように言う。
「大丈夫だ」
頭を撫でられながらも、ひろむはゲームで魔王が復活するみたいにあれが追ってくる姿を想像した。怖くてたまらなかった。けれど佐竹はそんなひろむの考えを知らないだろうに、わかったように付け足した。
「まかせろ。やっつけておくから」
たった一言。その一言でひろむは不思議なくらい安心して、かたくなっていた体から力を抜いた。
「佐竹がいうなら、ホントだよね」
精一杯見栄を張ってみたけど、それすらもお見通しのように佐竹は笑うだけだった。
どうしてそんなに自信満々なのかわからなかったけど、手を引かれたまま佐竹の家に連れて行かれ――すぐにその理由と出会うことになった。
「おー、おかえりー」
服は汚れているは怪我はしているは散々な姿なのに、図太いのかマイペースなのか、家にいた佐竹の父親はまったく動じた様子がなかった。もうどういう反応をしていいのか考えの尽きたひろむは、指示されるままに靴を脱いで玄関に上がっていたが、父親が姿を見せると同時に走っていった佐竹を疑問に思うくらいの思考は残っていた。短い廊下を、単純な助走で勢いを稼ぎ、佐竹は出迎えた父親にいきなり跳び蹴りを食らわせた。
「ぐほあっ!」
鈍い悲鳴を上げて佐竹の父が吹っ飛ぶ。容赦ない。
「ええええっ!?」
思わず盛大に叫んだが、そんなひろむに反応は返ってこない。蹴り飛ばして倒れた父親の胸ぐらを掴み、佐竹はかまわず完璧なくらい怒りのあらわな笑顔を向けた。
「いきなり何してくれてんだ? 親父」
「そ、それはどちらかというと父さんの台詞……」
「子ども追いかけ回してトラウマ植え付けた奴がよく言うな? 両膝の皮剥がれるのと鳩尾えぐられるの、どっちがいい?」
「何それ微妙に選択肢が怖いんですけど!? 落ちつけ我が子よ、偉大なる父に向かってそんなことは」
「鳩尾だ」
「ぐはぁっ!」
べしょり、と佐竹父は廊下に沈んだ。何事もなかったかのように佐竹が玄関まで戻ってきて、ひろむの手当てをするために客間に上げる。消毒液がしみて痛いとかどこかでぶつけた肩が痛いとかあったけど、さっきやっつけられた佐竹父よりはましだと思って我慢した。
「よし。今日はよく頑張ったな。助けてくれてサンキュ」
頑張ったなと褒められたことに心が舞い上がった。
「……ホント?」
「ほんと」
「……あの人は?」
何をしたの? という意味合いで聞けば、遠くを見るような冷めた目をして佐竹がため息をついた。
「俺の父親でな」
口のへの字に曲げてぼやく。佐竹のこんな顔は珍しい。
「今日出会ったのは、あれだ」
佐竹は後ろも見ず親指で背後を示した。壁に隠れて、さっき撃沈したはずの佐竹父が様子を窺っている。出会ったの? 意味がよく理解できず首を傾げるひろむに、佐竹が申し訳なさそうな顔をした。
「あの狗を喚んだ人間だ」
狗――黒い魔法使い!
びっくりして佐竹の背後にまた目を向けると、しょんぼりした顔で佐竹父が息子に声をかけてほしそうにしているものすごく奇妙な光景だった。
きちんと制裁しておくから、安心しろ。と言われた。せいさいって何? と聞くと、やっつけるってことだと返ってきた。
さっきの一撃を見てちょっとかわいそうだと思ったが、狗に追いかけられた恐怖を思い出して身震いした。すかさず佐竹が背後に向かってアルミ製の灰皿を投げつけた。痛そうな音がしたけど、聞こえなかったことにした。
「おじさんは、魔法使いなの?」
「まさか。ただのおっさんだ」
「息子よー! 父親の説明にそれは酷い!」
「訂正しよう。あれはうさんくさくて扱いが面倒で人をむかつかせるのが天才的に上手い快楽主義のトラブルメーカーだ」
「あれ!? 父さんの印象ってそんな感じ?」
「稀に拾ってきたり作ったりしたマジックアイテムをばらまくうざい愉快犯でもある。すべての元凶はだいたいコイツだからみんな一回ずつ殴っていいと思う」
「酷い! 迷惑をかけることしか考えてないみたいな言い方だよ! さすがにそれはないよ!」
「だったら今日起こした事件の理由をいってみろ」
「楽しそうだったから」
「ひしゃげろ。ひろむ、あれがダメな大人という奴だ。見習ったらダメだぞ」
「ぐはっ」
言うわりに佐竹はダメだと思っていないが、父は再びうめいて大地に沈んだ。
その様子を見て、佐竹は笑い声をこらえながらくっくっと笑った。それを不思議そうな目で見てから、ひろむもつられて笑った。
その後、佐竹に命じられて、悪戯をした罰として佐竹父は鞄を取りに行かされた。帰ってくるのを待つ時間、ひろむはこれまでの経緯を佐竹に話した。相づちを打つ佐竹は時々「あー、あのときね……」などと呟いたが、ひろむは途中で重要なことを思い出した。
「あ! よっちゃんからそのときのお礼にってお菓子もらった! 置いてきた!」
「マジか。あとで一緒に食おう」
「みんなで?」
「親父にはなしだ」
代わりにと、荷物取り係が帰ってくるまでのつなぎに甘いジャムを挟んだモナカを渡されて、おやつの誘惑を断る発想のないひろむは有り難くそれをほおばった。
ほっと一息しながら思う。
結局自分が魔法を使ったわけではなかったけど、なんだかすごい体験をしたなと。
それから、ずっと前から本人に聞いてみたくてしょうがなかったことを今聞いてみようと思った。
「ねえ、佐竹」
「うん?」
家にまでチョークを用意してるのか、いつの間にか持ち出してきた白墨を手の上でくるくると回しながら佐竹が顔を向けた。
「佐竹って、魔法使いなの?」
きっと佐竹のことだから、素直に答えてくれやしないんだろうな、と思う。その考えを見透かしたように、佐竹は意地悪そうに、あるいは楽しそうににやりと笑った。
「さあて──」
チョークをいっそう高く弾き上げ、それが降りてくる間に、佐竹は言った。
「どっちだと思う?」
魔法のチョーク あっぷるピエロ @aasa
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