<最終章> 容疑者xの保身

 私が書いた記事は、翌朝の社会面に掲載された。もちろん文責は十川さんだけど、大半の内容は私の草稿が元になっている。ちょっとお小遣いが貰えたこともさることながら、プロの記者に自分の書いたものを読んでもらえたことがとても嬉しかった。もちろん随分と赤を入れられ、十川記者からは「紀野さん、新聞というのは一行目で完結させる必要があるんです」と口すっぱく言われた。それでも私からネタを取り上げず最後まで書かせてくれたことに感謝している。


 「無事出稿しました」と十川記者から電話をもらった時の喜びは、校内の小さな新聞とは比べものにならないほどだった。

 数時間後には、私の書いた記事が多くの人の目に留まる……。

 そう思うと興奮して一睡もできなかった。日が昇る前にコンビニへ行って、出来立てほやほやの朝刊を買ってきた。たった十数行の記事だけど、目に穴が開くほど読み返した。


 そして私は、やっぱり新聞記者が私の天職なんだなぁなんて思いながら、作ったばかりのスクラップを携えてそうちゃんの家に向かった。


「そうちゃん、そうちゃん!」とチャイムもそこそこに大声で彼を呼ぶと、中から銀縁メガネを掛けたいかにも文学少女っぽい女性が顔を出した。

「あらぁ。しまちゃん、おはよう」と彼女は薄く笑う。


「綾歌さん、帰って来てたんですね」


 なぜだろう。無意識のうちに口角が引き攣ったのを感じた。


「うん。ちょっとね、昔の知り合いに呼ばれて。しまちゃんは……あぁ、学校か。今日、火曜日だもんね。いけない、いけない。大学生になった途端、曜日感覚がなくなっちゃって。へへっ……」


 綾歌さんは目を細めながら、頬を掻いた。


「それにしてもしまちゃん、ちょっと見ないうちに大きくなったね〜」

「栄養が全部背に取られちゃうんですよ」


 私は、制服の上から自分の胸を触って見せた。


「えぇ〜。おっぱいなんて重いだけだよ?」


 綾歌さんは「うーん」と声を出しながら、両腕を掲げて大きく伸びをした。

 背を反らせるとTシャツの伸びて、白い肌と中央に窪む小さな臍が自然と露わになる。

 なんだか、ものすごくエッチな気分に駆られた。


「ないものねだりですね」

「しまちゃんもそのうち大きくなるよ」

「だと良いんですけどねぇ。この間なんかヨット部の一年生から『鶏ガラ先輩』なんてあだ名つけられたですよ!」


 くそぅ。思い出しただけでも腹が立つ。

 いつかナイスボディになって見返してやるからな!


「あぁ、そうそう。一昨日、うちのヨット部で殺人事件があったんですよ」


 私は右手に持っていたスクラップを彼女に手渡した。

 眼鏡の鼻当てをくいっと持ち上げると、綾歌さんは記事を目を落とした。

 「これ、そうちゃんのことなんですよ!」と私は誇らしげに“県立松鷹高校の生徒の尽力により”と書かれた部分を指差す。


「ふぅん、そうくんがねぇ……ちょっと意外だなぁ。あの子、私がそういう話をすると嫌そうな顔するから」

「そうなんですか!? そうちゃん、綾歌さんから聞いた話とかを元に推理したんですよ。そのおかげで私も助けてもらったりして」


 顔を上げた綾歌さんの柔らかい瞳が私を捉えた。


「しまちゃん、警察から疑われるようなことしたの?」

「実は一番初めに疑われたの、私なんです」と私は彼女に昨日起きた出来事を話した。


 警察が提出した、状況証拠。

 そのわずかな綻びをついたそうちゃん。

 息が詰まるような緊迫とした展開に、私は自分が疑われていることを忘れて彼らの応酬を見守った。


「なるほど、たしかに面白いね。けれどだ」

「どこがです?」

「背理法が何たるかは高校数学で習っているよね」

「はい。たしか証明したい命題が偽であると仮定して、そこから矛盾を導くことで、仮定そのものが間違っている――つまり命題は真であるって証明するやり方ですよね」


 「よく勉強しているね」と彼女が優しく私の頭を撫でた。

 年上の人に甘やかされるのが久しぶりで妙にくすぐったい。


「つまりこの場合、『しまちゃんが犯人ではない』ということを証明するには、まず『しまちゃんは犯人である』と仮定する。じゃあ次にしまちゃん自身が『この時現場には自分以外誰もいなかった』と証言している点を検討してみようか。この証言を信用すると、しまちゃん以外に犯行が可能な人物はいなくなるね。一見、話の筋が通っているように思うけれど、犯人にとってこれは自殺行為に他ならない。さて、ここで私たちはわけだ」

「二通りの検証……」


 彼女の言葉に私は息を呑んだ。


「仮定が間違っているなら、本来の命題通り『しまちゃんは犯人ではない』ことの証明になる。けれどもし証言が嘘なら、この証明は真である――つまり『しまちゃんが犯人である』ことを証明している」


 私の右手から新聞の切り抜きを集めたスクラップブックがこぼれ落ちた。

 綾歌さんが銀縁の眼鏡を外し、首を振る。背中近くまで伸びる彼女の長い髪の毛がふわりと宙を舞った。そして獲物を捉えたように、舌を出して下唇をぺろりと舐めた。


「ねっ? ちょっと考えればこの証明は完璧ではないことくらいわかるはずなんだ。そこで彼はこのロジックをより複雑にするために三段論法を持ちだした。あとはしまちゃんを教え諭すように自分の証明を披露して、その場にいる人の支持を得られれば完璧。こんなの推理でもなんでもないよ。まったく、誰に似たんだか……」


 綾歌さんはため息を一つ吐くと、膝を屈んで私が落としたスクラップブックを拾った。それをこちらに差し出す彼女。

 私はそれに軽く触れながら彼女に尋ねた。


「どうして今さら蒸し返すんですか? 彼はその後で、ちゃんと犯人を言い当てています」


 すると綾歌さんはまた目を細めるように笑った。


「そうだね、だからこの話はここで終わり。そうくんにも内緒だよ? きっと、がっかりするだろうから」


 そう言って人差し指を軽く唇に押し当てて、ウィンクをする彼女。


「それじゃあ、そうくん呼んでくるね」


 綾歌さんはくるりと回ると私をその場に残して家の中に帰って行ってしまった。しばらくしてそうちゃんが出てくる。

 いつも通り頭頂部には寝癖ができていた。制服のシャツもスラックスから出ていて、ボタンもきちんと一番上まで留められていない。

 「しょうがないなぁ」と私が身だしなみを整えてあげる。


 いつもと変わらない朝。

 ただ一つ、綾歌さんの顔がいつまでも私の脳裏に焼き付いて離れなかった。

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