「それって重要な問題でしょうか?」


 私は消沈した空気を破った。


「だって、美波の手袋は指抜きのものだったんですよね? それなら缶をすり替えようとしたら必ず指紋が残ってしまいます。それはつまり美波には犯行が不可能だったという証明なのでは?」

「指抜きだから問題なのよ。だってのだから」


 視聴覚室にいる全員がはっとした表情をした。


「確かに、それなら五十嵐が指抜きのグローブを持っていることにも説明がつくな」


 部長の石崎先輩も腕を組み頷く。

 五十嵐先輩は、したり顔で脚を組み直した。

 この人は一体どこまで美波を犯人扱いにしたいんだ、と私の中で彼女へのヘイトが溜まっていく。


「それで、五十嵐自身はこのことをどう言い訳するのかしら?」

「あの……。私が今使っているグローブは、新庄先輩のものなんです」

「真冬の?」

「はい。最近、一年生にスキッパーの動作を教えることが多くて。それで新庄先輩のクルー用の手袋を借りていました。先輩、退部しても艇庫の私物を持って帰らんかったから」


 たしかに昨日も美波は、一年生を乗せて本部船の周りで基本動作の練習を繰り返していた。

 それに先ほど石崎先輩が「クルーがスキッパーをすることは難しいが、だ」と言っていたではないか。美波の説明にも一定の信憑性があるように思える。


「じゃあ元の手袋はどこに行ったのよ? 小春と船に乗っていた時はスキッパーをやっていたんだから、スキッパー用の手袋も持っているはずでしょ?」

「それが……先月ごろに失くしてしまいました」

「ほら、やっぱり指先を切り取って真冬のものに偽装したんだわ!」


 五十嵐先輩が責め立てる。

 誰も反論の余地がないように思えたその時――


「ちょっと待ってください」


 意外にもその声は、菊池先輩の隣に座る東雲小春さんが出したものだった。


「遥佳先輩、新庄先輩が使っていたグローブの素材を覚えていますか?」

「ええ。革製のやつよ。道具だけは一丁前に良いものを揃えていたから、よく覚え得ているわ」


「だったら先輩の説は間違っています。だって私と乗っていた時に彼女が付けていたのは、のですから。そもそも素材が違います」


 五十嵐先輩が口を開けたまま固まった。


「ぐ、軍手?」

「はい。指先まで滑り止めが付いているから使いやすいんだとか。そうだったよね、美波?」

「そんな細かいこと、よく覚えとったね」


 「当たり前でしょ」と東雲さんは胸を張った。


「だって私たち――


 そう言って彼女は南に向かって笑いかける。

 美波は背中を丸めて肩を震わせた。東雲さんがその右肩を優しく叩く。

 それをきっかけに、彼女は堰を切ったように声をあげて泣いた。

 今まで溜め込んでいたものを全て吐き出すように、泣き続ける彼女を見て私はそっと「よかったね、美波」と声をかけた。

 彼女が少し首を動かした気がするけれど、もしかしたらそれは私が勝手に記憶を美化しただけかもしれない。


「もういいだろう、菊池。これで五十嵐の無実は証明された」


 十川が場を収束させようと彼女を諭す。

 菊池先輩は一度舌打ちをして、姿勢を正すと「ごめんなさい」と謝った。

 そこで三時間目の授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。

 教室の外が騒がしくなる。


「藤塚、俺たちも一旦休もう」


 十川は教壇の方に振り返ると休憩の提案を申し入れた。


「そうですね。みなさんお疲れ様でした。十分後にここに戻ってきてください」


 「えぇ……まだするのかよ。もう無実が証明された人物は返してくれよ。次の授業、体育なんだよ」と匂坂勇気が不平をこぼす。


「捜査ですので、ご協力を」


 鬼無刑事が睨みつけると、彼は借りてきた猫のように小さくなった。

 美波はまだ泣き止んでいない。東雲さんに背中をさすられていた。

 その微笑ましい光景に割り込んでいく勇気は私にはない。

 百合の間に挟まるのはたとえ女でも重罪だ。

 私は持ち場を離れて教室の前方、そうちゃんのいる方に向かう。

 彼はホワイトボードに身体を預けるように立っていた。


「お疲れ様」

「別に僕は立って話を聞いていただけだけど」

「でも、これで半分まで絞り込めやん! あとちょっとやね」

「いや、この網の中にまだ犯人がいるのかは分からない」


 教壇に立ってそれぞれのメンバーの様子を見る。ヨット部員たちの休憩の過ごし方は三者三様だった。

 席に座ったままスマホを見るもの、歓談に興じるもの、窓の外を見るもの。

 鬼無刑事と男木刑事の二人は居心地の悪さからか廊下で何か話していた。

 みんなの様子をぼーっと眺めていたそうちゃんは突然口を開いた。


「しーちゃん、なんで荒木さんは殺されただろう……」

「そりゃ誰かから恨みを買ったから、やないん?」


 一体何が不自然だと言うのだろう。

 その動機を考えるために私たちは話し合っているのではないか。


「二人ともお疲れさま」


 十川が教室に戻ってきた。


「先生こそ。授業があったのではないですか?」

「自習にしたよ。どうせもうすぐテスト期間だからな」

「先生は、この事件をどう思っていますか?」

「教え子の中に殺人鬼がいるかもしれないと思うと、なんとも言えない気持ちになるよ。そもそもあいつらにとって、最後の総体に出ることより大切なことなんかあるのか……」


 彼は部員たちの方を眺めてこう言った。


 ――これじゃあまるでだ、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る