一限目の予鈴が鳴った。


「もう、そんな時間か……」


 十川がシャツの袖を少し捲って、腕時計を見る。


「じゃあ、僕はこれで」


 そうちゃんは私を引き剥がすと、立ち上がった。


「藤塚、迷惑掛けて済まないな。それとありがとう」

「いえ別に。それより先生、ヨット部は今後どうなるんですか?」


 十川の顔が曇る。それが何を意味しているのか、私たちはすぐに分かった。


「そんな! 来週がインハイの予選なんに……」

「三年生にとっては大変酷なことだが安全が確保できない以上、部活動はさせられない。それが上の決めた方針だ。それにもし犯人が捕まったとしても、部の不祥事に高体連は敏感だ。おそらく年内の大会は全て辞退せざるを得ないだろう」

「えっ、それって……」


 事実上の活動休止ではないか。

 私は急いで口を塞いで、出かかった言葉をぎゅっと押し戻した。


「部員たちにはもう伝えているんですか?」

「昼休みに伝えることになっている」


 十川は一つため息を吐いた。

 彼も精神的に相当参っているのだろう。

 私の脳裏には昨日、日が暮れるまで船の整備をしていた先輩たちの姿が浮かんだ。彼らは今日からまた、練習を再開することができると信じている。荒木さんの死に打ちひしがれることなく、ただ来週の大会だけを見据えていた。


「紀野、藤塚、このことはまだ黙っていてくれないか? この件は俺の口からあいつらに伝える。それが顧問の責任だ」


 彼は立ち上がり、「どうか、頼む」と深く頭を下げた。

 私とそうちゃんはお互いに目配せをする


「分かりました。少し気が引けますが、そちらの方が混乱は少ないでしょうから。いいですよね、紀野先輩?」


 美波を騙す形になってしまうのは不本意だが、そもそも私たちは部外者だ。

 ああだこうだと口を出す権利はない。


「うん……わかったよ」


 私は短く返事をした。

 顔を上げた十川は「ありがとう」と噛み締めるように呟いた。

 校長室を出るとそうちゃんと別れ、私は十川と共に階段を上った。


 松鷹高校の校舎は北館と南館に分かれている。北館は一年生と二、三年生の理系進学クラスが。南館には二、三年生の文系進学クラスと就職クラスの他に視聴覚室や職員室、校長室、会議室などが入っている。


 私は文系の進学クラスなのでそうちゃんとは学び舎が違う。彼が二年生の上がる時に理系を選択したら、来年も離れ離れになってしまうのだ。それはちょっと寂しい。


 いつもならどこの教室からも生徒たちの談笑する声に溢れるのだが、今日はしんと静まり返っている。まるで学校全体で喪に服しているようだ。


「あっ……」


 トイレの前で美波に遭った。


「きーちゃん。全校集会の時、おらんかったみたいやけど、なにしとったん?」

「ちょっとね、刑事さんに呼び出されて……」


 私は隣にいる十川を思いっきり睨みつけた。彼は私の視線を感じたのか目元を指で軽く掻きながら苦笑いを浮かべ、巧妙に話の筋をずらした。


「そうだ五十嵐、今日の昼休みに視聴覚室でミーテイングをする。それで、他の二年生にも伝えておいて貰えないか?」

「わかりました」

「助かるよ、いつも悪いな。じゃあ二人とも授業遅れるなよ」


 美波が二つ返事で用件を引き受けると、十川は足早にその場を去っていった。


「ベーだっ!」


 わたしは彼の背中にあかんべーをした。


「きーちゃん、刑事さんから何か聞かれたん?」

「そうそう、そうなんよ! 実はさ……」


 美波の方に振り向いてさっきのことを話そうと思ったその時、授業開始のチャイムが鳴った。


「今日の帰りにでもしゃべるよ」

「えっ? 私、練習あるんやけど」


 冷たい何かが、私の背中をつーっと撫でた。

 私は開いたままの口を急いで閉じる。

 美波が訝しげに私を見ている。


「じゃ、じゃあ昼休み、って昼休みはミーティングするんだった。そうだそうだ。うーんどうしよう……」


 私は彼女と視線を合わせないように急いで言葉を紡ぐ。

 しかし彼女の違和感を払おうとすればするほど、私の口ぶりは空回りしてしまった。


「きーちゃん、もしかして十川先生から何か聞いとるん?」


 私は静かに、ゆっくりと頷いた。


「ヨット部は廃部になるん?」

まだ分からん」

「それは? それはって、どういうこと? 廃部までは行かんけど、練習はできんってこと?」

「十川から黙っておいてくれって言われとって……」


 私は顔の前で手を合わせると、少し頭を垂らした。


「ごめん、美波」

「ううん、きーちゃんが悪いんやないよ。でも――」


 「そっか。じゃあ先輩たちは大会に出られんのやね」と彼女は呟いた。

 どこかの教室から教科書を朗読する声が漏れ聞こえた。

 一限目の授業はすでに始まっている。


「授業、出る?」


 私は躊躇ためらいがちに尋ねた。

 彼女は首を横に振る。

 普段の彼女ならそんなことは絶対にしない。

 美波は中学の時からずっと皆勤賞だった。

 けれどやはり今はしばしの休憩が必要なのだろう。


「じゃあ、どっか行こうか」


 その一言に、彼女は小さく笑った。

 そして二人で階段を駆け下りると、警備の人に気付かれぬように校門をくぐり抜ける。


 この日、私たちは初めて授業をサボった。

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