気がついた時には、すでに私の足は動き出していた。


「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」


 押しつぶされそうな肺に懸命に空気を取り込む。足を踏み出すたびに、キュッキュッとスニーカーの底が悲鳴を上げた。後ろからは私を呼び止める声が聞こえた。おそらく男木刑事と担任の十川だろう。私は振り向かずに走り続けた。


 最初に男木刑事の口から「重要参考人」という言葉を聞いた時、私はただの事情聴取だと思っていた。

 しかしここで私の中の第六感が訴えてきた。

 どうして被害者と近い人間であるヨット部のメンバーではなく私なのか? と。そして一つの黒い考えが芽を出す。


 あれ? もしかして私、疑われてます?


 事件の重要参考人として取り調べを受けた人物が実は犯人だった……という事例をテレビで見たことがある。もしかしたら私のこともその要領で逮捕する気なのでは無いか?

 けれど、私はやっていない。冤罪だ。

 どうしよう……そうだ、逃げよう。

 こうして私は校長室を飛び出したのだった――


 はい、回想終わり。

 私は頭のスイッチを切り替えて、目下の逃走に集中した。


「どいて、どいてぇぇ!」


 体育館に向かう途中の生徒たちは私の形相を見るや、すぐに道を開けた。

 階段を二段飛ばしで上り、四階を目指す。

 ふくらはぎは既に震え始めていた。

 早く彼の元へ向かわなければ……。


 頭の中ではチャットモンチーの『風吹けば恋』が流れていた。

 別に好きな人のもとへ向かっているわけではないのだけど、走り出した足は止まらなかった。いや、止まったらそこで人生終了だ。


 一年生の教室が並ぶ廊下を駆け抜ける。一番奥にある一年四組の教室から生徒たちが続々と出てきた。幸運にもこれから体育館へ向かうようだ。


「そ……そうちゃぁぁぁぁん!」


 私は全力で彼の名前を呼んだ。廊下に整列した一年四組の生徒たちが一斉にこちらを向く。そうちゃんと目が合った。彼はこちらに一歩踏み出した。


「しーちゃ……先輩、後ろ、後ろ!」

「えっ?」


 振り向くと、男木刑事の右腕がすぐ後ろまで迫っているのが見えた。

 その刹那、景色が一転した。


「うぅ……。いててぇ」


 身体中のあちこちに鈍痛が響く。すぐに転んでしまったことに気がついた。


「先輩、怪我はないですか?」


 目蓋を開けると、すぐ目の前にそうちゃんの顔があった。彼は私を抱きしめるように廊下に仰向けで倒れている。私を受け止める際に下敷きになったのか?

 私はすぐに自分の置かれた立場を思い出した。


「ど、ど、ど、どうじよぉおおおお! 私、捕まっぢゃうよぉおお!」


 そこには、後輩のシャツで鼻をかむ女子高生の姿があったという。

 こんなの黒歴史確定だ。それでも逮捕されるよりは良い。私は恥じらいを捨て、彼の胸元で咽び泣いた。周りの生徒は何事かと、私たちを中心に円を描く。


「関係の……ない、者は……はぁ、はぁ……早く、体育館に行け」


 十川が息も絶え絶えに生徒たちの誘導を始めた。


「急に逃げるから、びっくりしましたよ」


 男木刑事も膝に手をつき、肩で息をしている。もっと早くに捕まって、連行されると思っていたのだが……。火事場の馬鹿力も案外馬鹿にならないな。

 彼はメガネを外し、ハンカチで汗を拭うと私を睨む。


「ひぃっ……」


 私は恐怖で、そうちゃんの制服を強く握る。


「何が起きたのか、だいたい分かったよ。大丈夫、僕に任せて」


 そう耳元で囁き、私の背中を軽く叩くそうちゃん。

 あぁ、もう……今なら結婚してあげても良いよ。

 私はまた彼のシャツで涙を拭いた。


「いや、重いんでそろそろ起きて欲しいんですけど」

「…………ふんっ!」

「ぐぇ……」


 私は彼の腹に手をつき、力を込めて起き上がった。


「何するんですか!? 本当に内臓潰れちゃいますよ」


 起き上がったそうちゃんが、茹でだこのように顔を真っ赤にして怒る。


「ふんだ、そんな軟弱な臓器潰れちゃえ!」


 私は舌先を出して、眉間にシワを寄せた。

 やっぱり撤回。レディーの扱いを覚えるまでは、そうちゃんとは結婚しない。

 いや、覚えたところで結婚すると言ってないけれど。


「紀野、藤塚、怪我は無いか?」


 生徒の誘導を終え、その場を収めた十川が、私たちのもとに戻ってくる。

 私と男木刑事の距離を取るために間に立ってくれた。


「先生! 私、なにもやってないけん! 信じてよ!」

「ちょっと落ち着け、紀野。刑事さんもお前を疑っているわけではないんだから」

「いえ、この際なのではっきり申しますが、私たちはあなたが荒木氏に毒を盛ったのではないかと思っています」


 男木刑事はいとも容易く十川の慰めを断ち切った。


「ほらーっ! やっぱりそうやったんだ!」


 私は急いでそうちゃんの背中に身を寄せた。

 そんな私を彼は冷めた目で見ている。


「なんだよ、さっきのことは謝るから、助けてよぉ」


 彼はため息を一つ吐くと振り返り――


「もちろん、それは根拠があってのことでしょうね? を傷つけて、決定打が何もありません、では許されませんよ?」


 ――足を肩幅に開いて、男木刑事と対峙した。


 て、おい。人を勝手に私物化するな!


「えぇ、彼女にしかあり得ないという証拠をお見せします」


 男木刑事も鼻あてを摘みながら眼鏡をかけ、そうちゃんと向き合う。

 二人はしばらくの間、火花散る睨み合いを繰り返した。


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