艇庫の中に甲高い悲鳴が響いた。意外にも声の主はあの菊池先輩だった。双眸そうぼうを大きく開き、口元に手を当てわなわなと震えている。

 男子達もさすがにショッキングだったらしく、大抵の生徒は厳しい顔をしていた。


 果たして、この中で死に立ち会ったことがある者は果たして何人いるだろう。私の場合両親はもちろん両方の祖父母も健在で、それ以上の親族は私が生まれる前に亡くなってしまっている。

 生きとし生けるものは、いつか終わりが来る。

 当たり前に思っていたことは、あまりにも当たり前すぎて、いざその時が来るまで露ほども思っていない。私たち高校生は、学校という死とは無縁の社会で生きている。荒木さんの訃報を受け、私は今まで経験したことのない感覚を覚えたのだった。おそらくヨット部の選手たちは私の何倍もの感情を胸に抱えているだろう。


「詳しくお話しすることはできませんが、体内から毒物が検出されました。すでに――」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 十川が鬼無刑事の話を制止した。


「つまり、荒木さんは毒殺されたということですか?」

「まだなんともお答えできません」


 熱くなる十川に対して、鬼無刑事の回答は無愛想なものだった。

 乱れたテンポを直すためなのか、彼は一度咳払いをしてから説明を再開する。


「すでにお気づきとは思いますが、現在鑑識がこのハーバー内を調べています。皆さんには準備ができ次第、一人ずつ事情聴取にご協力いただきたいと思っています」


 私を含め十二人の全員の顔が引き攣った。まさか事件の重要参考人になるとは誰も思っていなかった。鬼無刑事は、艇庫の入り口近くに立つ十川の方へ顔を向ける。


「よろしいですね」


 その声色には有無を言わさぬ迫力がこもっていた。


「わかりました。けれどその前に生徒たちを着替えさせても構いませんか? それとスロープに放置したままのヨットの片付けも。塩が付いたままだと痛んでしまう」


 この質問は、鬼無刑事の後ろに立つ、男木刑事が応えた。


「ヨットの片付けは鑑識の許可が下り次第です。荒木氏の乗っていたゴムボートはおそらく押収することになると思いますが。それと着替えに関してですが、まず全員の持ち物検査をさせていただきます。それと艇庫の中も調べますので、着替えは全員クラブハウスで行っていただきます」


 鬼無刑事が「もちろん、女子の手荷物検査は女性の警官が行います」と付け加えた。

 そして十川を見る。

 彼は観念したように首を縦に振った。

「ご協力感謝します」と形式的な言葉を残し、男木刑事が応援の捜査官を呼びに行った。


 荷物検査も終わり、私たちは女性捜査官立ち会いのもと着替えが許可された。まるで囚人のように監視されながら黙々と着替る。全員の着替えが終わると、今度はクラブハウスの一階ロビーに集められた。すでに男性陣がパイプ椅子に座って待っていた。教室のように全員が同じ方向を向いている。

 そこに二人の刑事の姿はなく、代わりに彼らよりもっと若い一人の警官が見張り役として入り口の前に立っていた。


「これから一人ずつ別室で事情聴取を行います。まずは先生からお願いします」


 十川は立ち上がり警官の後ろをついていく。どうやらクラブハウスの奥にある会議室が即席の取調室のようだ。

 十分ほどして十川が戻ってくると次に部長の石崎先輩が呼ばれた。それからは続々とヨット部員が取調室に向かった。私は病院の待合室で自分の順番が飛ばされていないか心配になるのと似た感覚に駆られた。


 取り調べの最中におにぎりとお茶が支給された。どうやら昼食をまだ食べていないことを十川が二人の刑事に訴えたそうだ。

 そしてついに張り詰めていた感情の糸がプツリと切れてしまう。


「あぁ、もう! 私こういう雰囲気嫌いなのよ!」


 菊池先輩が突然声をあげた。すぐに見張りの警官が注意しようとしたが、それよりも早く「おい、菊池」と石崎先輩が諫めた。


「でも――」

「空気を読め、人が死んでいるんやぞ」


 その言葉を契機に彼女の目が潤み出し、ついには両頬に涙が流れた。


「だって……だって、今日が最後だったのよ……。みんなでこうしてお昼を食べるの、今日が最後だったのに……」


 ヨット部はインターハイをかけた予選を来週に控えている。きっと来週の今頃は艇庫でゆっくりとお昼を摂っている暇などないだろう。三年間苦楽をともにしてきたメンバーとの最後の昼食が、まさかこんな寂しいものになってしまうとは……。

 これには見張りの警官も同情したのか、帽子を深く被り直して目元をツバの影に隠した。


「そうは言っても、仕方ないやろ……」


 部長の石崎先輩はバツが悪そうにつぶやく。それっきり言葉を発するものはいなかった。ただ菊池先輩が顔を押さえて背中を丸めている。隣に座る東雲さんが彼女の背中を摩り続けていた。


 その間にもヨット部の一年生が順番にクラブハウスの奥の部屋に向う。

 私の名前が呼ばれたのは、午後二時を過ぎた頃だった。

 小さな会議室の扉を開けると真ん中に長机が置かれていて、その奥に鬼無刑事と男木刑事が座っていた。


「そこに掛けて」と鬼無刑事が椅子に座るよう促し、私はパイプ椅子に座った。

 彼と目が合う形となり、男木刑事は上司の左隣で手帳を開いていた。


「まずは名前と学年を」

「紀野屋島。松鷹高校の二年生です」

「君と藤塚荘司君は、ヨット部員ではないそうだね」


 手帳をめくりながら男木刑事が言う。


「はい。私とそうちゃ……えぇっと、藤塚君は新聞部です」

「新聞部? なぜ新聞部がヨットハーバーに?」


 今度は鬼無刑事がボールを投げ返してくる。


「学校新聞の取材です。今月は総体前特集で、持ち回りで運動部を回っていて、それで今日はハーバーに……」


 後めいたことなど無いのに、刑事を前にしているからかしどろもどろの説明になってしまった。


「それで、君はいつハーバーに来たのかな?」

「九時少し過ぎです」

「何分ごろだったか、正確には覚えている?」

「……分からないです」

「ハーバーに来たのは藤塚くんと一緒に?」

「はい、そうです」

「その時ハーバーには誰がいた?」


 鬼無刑事の飽和攻撃が続く。

 私は酸欠になりかけながら、必死で記憶を手繰り寄せた。


「ヨット部のみんながいました」

「荒木さんは?」

「私たちがハーバーに来たのとほぼ同時やったと思います。ヨット部のみんなと十川先生が駐車場へ出迎えに来たのを入り口で見ましたから」

「なるほど」


 彼はそこで深く相槌をした。


「じゃあ次に出艇前、荒木さんと接触した人物を挙げていってくれる?」

「出艇前にヨットに乗る二、三年生を集めて、スロープでミーティングをしていました。その後ゴムボートを進水させるために一年生を数人捕まえて、あとは顧問の十川先生くらいやったと思います」

「君自身は、荒木さんと話していないの?」

「はい」

「でもゴムボートに乗ったんだよね?」


 男木刑事が手帳から顔を上げて私を見た。レンズの奥の鋭い眼光に当たって、全身を硬直したような気がした。掌がじっとりする。


「それは、海に出てからで――」

「どうして乗ったの?」


 ラリーの速度が速くなっていく。


「トイレに行きたくて」

「ボートの上で何か話した?」

「桟橋まで送っていただいた時にお礼はしました」

「それだけ?」

「私がトイレに行っている間に本部船の方に帰ってしまったので」


 男木刑事は満足したのか、再び目線を手帳に落とし何かをペンを走らせた。


「ところで君がゴムボートに乗った時、ボートの中には何があったかな?」


 今度は鬼無刑事とのキャッチボールが始まる。

 速度的にはドッジボールだ……。


「えぇっと……あんまり詳しく見ていなかったんですが」

「思い出せる範囲で良いよ」


 私は目線を机の上の木目に落とし、あの時のことを思い出す。


「水色のクーラーボックスが後ろに積んでありました」

「中は確認した?」


 私は首を横に振った。


「わかった。話を元に戻すけれど、君はトイレを済ませた後どうしたのかな?」

「桟橋に戻るとボートが湾外に出て行くんが見えたんで、仕方なく艇庫まで帰りました。まだ帰着まで一時間ほどあるから勝手に帰ろうかなって思っていたら、救急車のサイレンが聞こえて。ストレッチャーが桟橋まで運ばれるのを見て、海の上で何かあったんやなと。それで私も桟橋まで向かいました」

「ボートは誰が運転していたの?」

「十川先生です。後ろから荒木さんの脇の下に腕を通す形でハンドルを握っていました」

「その時のゴムボートの中はどうだった? 君が乗っていた時と何か変化はあった?」


 またまた男木刑事が横槍を入れた。


「いえ、特に変わった様子はなかったと思いますけど」


 私は少し首を傾げながら答える。


「わかった。続けて」

「それから十川先生に事情を聞くと、ひとまず艇庫で待機するよう言われました。けれどやっぱり何があったんか気になっちゃって。帰って来た美波……えぇっと五十嵐さんの船に近づいて事情を聞きました」

「五十嵐さんと一緒に乗っていたのは誰だった?」

「神楽さんやったと思います。神楽瑠衣かぐらるいさん、一年生で唯一の女の子やから間違いないです」

「それで、君は彼女たちと一緒に艇庫に戻ったんだね?」

「いえ、今度は藤塚君に何があったんか聞こうと思って、もう一度桟橋に向かいました。ちょうど本部船が帰って来るのが見えたので」

「彼とは何か話したの?」

「艇庫に引き上げる途中で『私を桟橋に送ってすぐ本部船の方に帰ってきたんやけど、そのあとすぐに具合が悪くなった』とだけ言われました」

「なるほど君は藤塚君と合流して、今度こそ艇庫に戻ったんだね?」

「はい……」


 改めて振り返ると、気の向くままに赴く行動していたあの時の自分に恥ずかしさを覚えた。そりゃ十川に怒られても仕方がない。


「ところで、君が荒木さんに桟橋へ送ってもらった時、ハーバーで誰か見たかい?」

「いえ、救急隊が来るまで誰にも会いませんでした」

「わかったありがとう。ロビーに戻って良いよ」


 私は立ち上がって、部屋を出た。扉を完全に閉め切ると、自然とため息が出た。


 疲れたというのが率直な感想で、次に思ったのがこんなに事細かに尋ねてくるのかという驚きだった。きっとこれでも子供だからと手加減をしてくれていたのかもしれない。けれど、わずかな綻びすらも見逃すまいとする刑事独特の覇気は色濃くにじみ出ていた。


 案外、推理小説に出てくる刑事は無能に描き過ぎているのかもしれないなぁ、なんてどうでも良いことを思いながらロビーに戻る。


「随分と長かったね」


 そうちゃんだけがパイプ椅子に座っていた。

 見張りの警官もいない。


「そんなに?」

「うん」


 彼は壁にかけられた時計を指差した。時刻は午後二時二十分。

 たしかに私だけみんなの倍近く取り調べられていた。


「他のみんなは?」

「船の片付けに行った」

「そっかぁ。じゃあ私は座って待っていようかなぁ」


 そうちゃんは立ち上がって、こちらに近づいてくる。


「早よ終わらせてな。私、お腹すいたけん。おにぎり二個じゃ足りないっての。そうだ、そうちゃん。帰りにうどん食べよー」


 彼はうんともすんとも返さなかった。その表情は険しく、頬の筋肉が張っている。

 そしてゆっくりとした足取りで奥の部屋へ向かった。


 

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