<第1章> 太陽と海の密室
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ピーっと笛が鳴ると、横一線で帆走していた三隻のヨットが一斉に回頭した。しばらくしてまた笛の音が聞こえると、船は素早く進路を変える。こうした動作を何度も繰り返しながら艇団は沖へ向かい、小さくなっていった。
私――
「ここからだと、なーんも分からん」
甲板に座り手を後ろに突いて足を伸ばす。顧問の
本部船に同乗するヨット部の一年生は車座に座り、英語の単語帳を取り出して各々問題を出し合っている。同行したカメラマンのそうちゃん――
そういえば人間の記憶は印象深い出来事ほど残りやすいから、暗記の時はなるべく五感をフルに使うのが良いといつかのテレビが言っていた。たしかに無機質な机の上よりも磯の香りと波に揺られながらの方が思い出深いだろう。私の場合、波に
独り手持ち無沙汰な私は船のヘリまで移動した。涼を取ろうと腕を伸ばし、海水に手をつけてみたが全く冷たくない。その目と鼻の先ではクラスメイトの
「あーあ。美波、こっち来んかなぁ」
彼女が操縦するヨットは三十分に一度、本部船に接岸して一年生を入れ換えてはすぐに船から離れて行き、練習を繰り返している。教育熱心なのは良いことだが、少しは私にも構って欲しいところだ。
もし週明けの美波の弁当にブロッコリーが入っていても代わりに食べてあげないことを心に強く誓い、船の先の方で輪になっている一年生の方に向かってゆっくりと膝行すると――
「ねぇーそうちゃーん。暇だよぉ。構ってよぉ」
彼の首に腕を回し、抱きついた。
ウサギは構ってあげないと死んでしまうらしい。そして私は
「いい加減にしてくださいよ、先輩」
「だってぇ」
「十川先生に進路相談でもしたら良いでしょ、担任なんだから」
「うえぇ〜」とわざとらしく舌を出し、苦虫を噛み潰したような顔を作ると、彼から離れて船の後方にある操舵室へ向かった。
「そうちゃーん」と周りの同学年たちに
ヨット部の顧問である
私の足音に反応した十川がスマホから顔を上げる。
「なんだ、紀野か」
なんだとは、なんだ。私はお前の可愛い教え子ではないか! と心の中では毒付きながらも、女神のように優しい私はにっこり笑顔で口を開く。
「先生、何がでっきょんな?」
「何も。ていうかその方言、よその県では通用しないからな」
ちなみに「何がでっきょんな」とは、「何しているんですか」の意味である。
「別にぃー。私、香川から出るつもりないからいいもーん」
そう言えば先生は東京の大学出身だった。まさか赴任した最初の学校で自分が経験したことない部活動の顧問になるとは思わなかっただろう。
まぁ、ヨットもボートも同じか……知らんけど。
「そうか、紀野は県内の大学なのか」
「勝手に進学って決めないでよ」
「就職するのか? でもお前、進学クラスじゃないか」
「それは親の考えでね。まぁ私はどっちでもいいんやどさ、就職でも進学でも」
あれ、本当に進路指導が始まっちゃったぞ?
私は船の後端にある金属のスロープを両手で掴むとしゃがみ込み、腕を伸ばす。
「何かやりたいことは無いのか?」
「みんなそう聞くけどさぁ、やりたいことなんてすぐに変わるやん」
今度は爪先立ちでスロープに身を乗り出す。風が顔に当たって気持ち良い。このままスロープを鉄棒に見立てて前回りでもしようかと思ったが、寸前のところで止めた。一応ヨット部から借りた海パンとTシャツは着ているけれど、万が一ヘソチラして先生がムラムラしちゃったら逃げ場ないし。リスクヘッジ、リスクヘッジ。意味合っているのかなぁ? まぁいいか、どうせ私のモノローグだし。
「じゃあ現時点では何がしたいんだ?」
「お花を摘みに行きたいでござんす」
かれこれ一時間半も海の上で、そろそろ限界だ。
「残念ながらあと一時間は我慢だな」
おう。それは私に漏らせと言っているのか?
「じゃあ、みんないつもトイレしたくなったらどうしよん?」
「周りの船から離れて、海に浸かって……だな。紀野もやっていいぞ。ライフジャケットつけていれば溺れる心配もないから安心しろ。俺も前の方に行っておくし」
そういう問題じゃない! 花も恥じらう乙女が、そんな海に浸かって……なんて。そもそも海に浸かる=トイレだと悟られるのが問題なのだ。生理現象だから仕方ないが、一応のエチケットはあるだろう。どうりで本部船に乗っている一年生たちがガブガブと水を飲まないわけだ。
「ねぇ、先生。なんとかならんの? ほんとすぐに帰ってくるけん、お願い!」
「そう言われてもなぁ…………仕方ない。荒木さんがこっちに来たら頼んでみるか」
荒木さんとは、ヨット部のOBさんだ。先ほどからずっとゴムボートを操縦して艇団の後ろにくっつきながら、笛を使って指示を出している。
私は艇団とゴムボートが今どこら辺にいるのか探した。
「先生、あれ何? あの膨らんでいるやつ」
こちらに向かってくる三隻のヨットの前方に、凧のようなものが浮かんでいる。
「あれはスピンネーカーっていう、追い風で走る時に船の前面に張る帆だ」
「へぇ、なんか海に花が咲いとるみたいで綺麗やねぇ。可愛いわ」
「値段は全然可愛くないけどね」
「いくら?」
「一枚で六万円」
「えっ……」
私はすぐに頭の中の算盤を弾いた。月々のお小遣いが五千円だから、つまりあのカラフルな帆一枚が私のお小遣い一年分と同じなのか!
「ちっ、ちなみにやけど、ヨットって一隻いくらするん?」
「新品だと百万円ほどかな」
「ひゃっ、百……万円」
なんと私のお小遣い二百ヶ月分だ! それが一隻の金額で、いま海上には四隻浮かんでいるから……つまり私のお小遣い八百ヶ月分。
八百ヶ月って何年だ? 誰か暗算速い人、プリーズ。
「そんなお金いったいどこから? ウチ、普通の公立高校やで」
「だからOBの方々には頭が上がらないんだよ」
なるほど、だから十川は朝からずっと荒木さんのご機嫌を伺っていたのか。
私たちがヨットハーバーに着いた時、ちょうど荒木さんが乗る車もハーバーの駐車場にやってきた。すると駐機場で船の整備をしていた部員と十川たちが走って車の側に集合して、荒木さんが車から降りてくるのを待っていたのだ。
それを見た私とそうちゃんは呆気にとられてしまった。運動部とはどこもそんなものだろうかと思っていたのだが、先週取材に行ったハンドボール部も硬式テニス部もOBに対してそこまで暑苦しい挨拶をしていなかったのだ。
今時、そんなことをするなんて強豪の野球部くらいだろうと思っていたが、OBがスポンサーになっているならそれくらいしても不思議ではない。
「あぁ。昼飯の時にチクチク言われるんだろうなぁ。ほら、もう帰ってきたよ」
十川は操舵室に備えてあったマイクを取り出し、スピーカーを艇団の方に向けた。
「荒木さーん、ちょっと本部船の方まで来ていただいてもよろしいですか?」
直後に笛が三回鳴り、船の前面に展開していたスピンネーカーが仕舞われた。艇団は態勢を整えると、そのまま束になってこちらに向かって来る。本部船に同乗していた一年生たちが船のへりに集まりゴムボートの横っ腹を捕まえた。三隻のヨットは本部船から少し離れたところで待機していた。美波の乗る船が艇団に接近して何か話をしている。
「どしたんや、先生ぇ」
「いやぁ、それが新聞部のこいつがトイレに行きたいらしくて」
十川は申し訳なさそうに頭の後ろを掻く。
「もし面倒でしたら、私が運転してハーバーまで送りますが……」
すると、ゴムボートのエンジンを切った荒木さんがギロっと私の方を見た。
「ウンコか?」
私は一瞬何を言われたのか分からず、反射神経的に首を横に振っていた。
そしてすぐに十川との会話を思い出した。「だったら海の中でやれ」って絶対言われるよなぁ、と後悔した。けれどうん、と首を縦に振るなんて宣言しているようなものじゃないか。私はトイレに行くのだと悟られないよう、トイレに行きたかったのに……。
「しゃぁない、乗れ。ハーバーまで運んだる」
私はすぐにゴムボートに乗り込んだ。ボートの真ん中には縦に連なるように二人分の座席が用意されていた。座席とは言っても股の間で座席を挟む、バナナボートとかでよくあるタイプのものである。私が乗り込むと一年生たちがゴムボートを押して、本部船からボートを切り離す。荒木さんはエンジンを入れ、ハーバーの入り口に向けてボートを進めた。
今日はあまり大きな波は出ていないのだが、それでも波の頂天を通過する度にボートは大きく揺れた。股を開いていることもあり、気を抜いていると本当に漏れてしまいそうだった。まさかこのじじぃ、わざとやっているな!
小さくなった本部船から、スタート練習をする旨の放送が聞こえた。
桟橋にボートを留めると、私は駆け足でクラブハウスの方へ向かった。荒木さんはゴムボートから降りず、座席に座ったままだった。
なんとか個室に駆け込み、一息つく。同時にある疑問が浮かんだ。
わざわざあんな質問をする必要なんて、なかったんじゃないのか?
だって私は首を横に振ったのに、ハーバーまで送り届けてくれたのだ。
「チクショウ! あのセクハラじじぃ!」
トイレットペーパーと共に憤りも水に流し、急いで桟橋へ戻ったのだが……。
「おらんやんけ!」
ハーバーには泡沫の白い軌跡のみが残されていた。
くそぅ、陸に帰ってきても一人ぼっちだったら意味ないじゃないか。
「もうそうちゃん放って置いて帰っちゃおうかなぁー」
今日は新聞部の総体前特集の取材で来たのだが、どうせ一つひとつの部活動に割かれるスペースなんてほんの十数行だ。一面は野球部、二面もサッカー部ってすでに決まっているし。あとはそうちゃんがそれっぽい写真撮っておけばなんとかなるだろう。
私はライフジャケットの紐を緩め、艇庫の方へ歩みを進めた。
ふと耳を澄ますと、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。それは徐々に大きくなり、それっきりまるで耳元に張り付くように甲高い音は鳴り続けている。まさかと思って急いでハーバーの入り口の方を見ると、救急車の赤いランプが明滅しているのが見えた。救急隊員たちはストレッチャーを下ろすと、桟橋の方へ駆けていく。
まさか海の上で何かあったのだろうか?
私も彼らの後に続いて再び桟橋へ向かうと、湾外からゴムボートが再びこちらに戻って来るのが見えた。運転席には先ほど同様に荒木さんが座っているが、何やら力がない。両腕がだらんと垂れている。そして後ろに座る十川が彼の脇の下から腕を伸ばすようにして運転していた。ボートが桟橋に着くと、すぐに荒木さんはストレッチャーに乗せられ運ばれていく。
「先生! なんかあったん?」
私はすぐにゴムボートを発進させようとする十川に声をかけた。
「荒木さんの具合が突然悪くなったんだ。顔色が悪くなって、苦しそうに腹を抱むように倒れて……。とりあえず全艇に帰着命令を出した。お前も部員たちと艇庫で待機だ。俺は本部船に戻る」
十川は早口で言い切るとすぐにボートを発進させて湾外へ向かった。すぐにゴムボートと入れ違うように四隻のヨットが湾内へ戻って来た。船はなだらかな傾斜のスロープから陸に揚げられ、帆が畳まれた。私は部員たちと合流する。
「美波!」
彼女の船は最後に帰着した。今も一年生と共に船体を後ろに傾けて、船内に溜まった海水を抜いている。
「海の上で何があったん?」
「私も分からんのよ。突然、本部船から帰着するよう言われて。荒木さんの具合が悪くなったみたいやけど……」
「本当、いい迷惑よ! こっちは来週が大会だっていうのに。具合悪いのに海に出るなんて、自殺行為に他ならないわ!」
すぐ近くに船を止めていた女子部員がサングラスと帽子を取り、シャンプーのCMのように首を振って髪の毛を揺らしながら悪態をついた。
「ちょっと、遥佳先輩。そんな言い方は……」
それを同じ船に乗っていた選手が止める。そのボーイッシュな顔に見覚えがあった。たしか四組の
手足の長いモデルのような体型に、健康的に日焼けした小麦色の肌は、一部の男子からはウケが良いらしい。それでいて出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいるから羨ましい。
すると東雲さんが宥めているこの長髪の女子は、三年生ということになるのか。たしか名前は
「行くわよ、小春」
菊池先輩は東雲さんを引き連れて艇庫の方に歩いて行った。他の船の選手たちも続々と艇庫に引き揚げている。
「私、そうちゃんのところに行って来るわ」
美波に断りを入れて、再び桟橋に向かって走った。
「そうちゃん、そうちゃん!」
「紀野! お前も艇庫で待機するよう言ったはずだろう!」
船のエンジンを切った十川の厳しい声が耳をつんざいた。今まで聞いたことがないその迫力から私は事態がただ事ではないことを悟った。
「いいから、お前も藤塚も艇庫で待っていなさい」
「はい……」
私たちは本部船に乗っていた一年生と共に艇庫に戻って行った。本部船とゴムボートを桟橋に繋留した十川は、クラブハウスへ行きハーバーの管理者と話し込んでいる。
「突然苦しみ出したんだ。しーちゃんをハーバーに送ってすぐこっちに戻ってきたんだけど、それから少し経った頃だった」
艇庫に帰る途中、そうちゃんは私にだけ聞こえる声で呟いた。
まさか、ついさっきまで何事もなかったではないか。
艇庫の中は、突然練習がなくなって憤る三年生。倒れるところを間近で見て顔が強張ったままの一年生。そして未だ何が起きたのか分からない美波と私で分断された。そんな
「各艇、帰着報告」
「『22115』帰着」
すぐに部長の石崎先輩が応えた。
「『22116』帰着しました」
雰囲気美人な菊池先輩が石崎先輩に向かって報告する。
さらに「『22114』帰着しました」と二年の
石崎先輩は各艇の返事をまとめ「全艇帰着しました」と十川に報告すると、彼は深く頷いた。
私は数時間前の出艇時にも、同じやりとりをしていたことを思い出した。
船にはそれぞれ識別番号が与えられており、この番号は重複することが無い。
本校のヨット部ではその特徴を出艇前と帰着後の点呼に利用しているらしい。
「一年生も全員揃っているな……」
彼は艇庫の入り口に立ち、中を見渡して私たち新聞部を含む十二名全員が帰ってきていることを確認する。
「突然の帰着命令で事態を把握していない人もいるかもしれないが、荒木さんが海上で体調を崩し病院に搬送された。その件で、今から警察の人が来る」
艇庫の中に動揺が走った。
「警察!? それじゃあ午後の練習はどうなるんです? 来週が大会やのに……」
部長の石崎先輩が十川に詰め寄ったが、彼は首を横に振るばかりだった。
今度は美波が控えめに手を上げた。
「あの、それで荒木さんの容態は?」
彼女の声が微かに震えているのを私は感じた。
「分からない。とにかく今は待機だ。濡れたままで気持ち悪いかもしれないが、着替えも待ってくれ。幸いすぐ近くに警察署があるからそこまで時間はかからないだろう」
先輩たちの身体から力が抜けていくのが、側から見てもわかった。大会前最後の休日練習が吹っ飛んだとなると、先ほど菊池先輩が青筋立てて怒ったのも致し方ないのかもしれない。
十川は艇庫の入り口で腕を組んで立ち、私たちを監視している。
どうやらおしゃべりも厳禁だそうだ。
それぞれの服の端から滴り落ちる水滴の音が、秒針のように時を刻み続けた。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。規則的に時を刻む水音の後ろでカツカツと足音が鳴っているのを感じた。靴音は少しずつ大きくなっていく。そしてスーツを着た二人組の男性が現れた。
「
刈り上げ頭で額にはシワが三本走っている。身長の割に肩幅がやけに広いため、柔道選手っぽいなと私は感じた。
「同じく、北署の
一方こちらは、線の細い体に銀縁メガネという格好。三十歳前後と推測する。
彼らはそれぞれ警察手帳を見せた。
その姿を見て艇庫の中は奇妙な安堵感に包まれた。
みんなこれで全て元通りに戻ると思ったのだろう。
しかし、これはまだ始まりに過ぎなかったのである。
隣の市民プールから正午を知らせる放送が聞こえた。
それが終わると、鬼無刑事は私たちの方に向き、重い口を開いた。
「先ほど病院から通報があり――
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