11話

地底湖で荷物を回収した空木たちは、メロウに黒金の蛇の死を伝え、石の道を戻った。


脅威が去ったと知った彼らは安堵し、宿で休んでいくといいと勧められたが、ファナ・ベァナたちがまだ警戒し、怯えているかもしれないと考えると、落ち着いて寝てはいられなかった。

いち早く知らせを持って行くために、休憩の後すぐに発っていた。


薄明かりを頼りにイシュカ遺跡を抜ければ、いつの間にか空は白み始めている。


「そういえば、黒金の鍵は泉の底に沈んだままですね……ファナ・ベァナのところへ行ったら、また探しに戻りますか?」

「鍵はメロウに頼んでおいた。泳ぎの得意な彼らならば、いつかは探し出せるだろう……もっとも、見つかったとして新たな主を探してやる必要はあるが。俺たちは祈るしかない、白金の鍵ほど駄々をこねないように」

「また十五年、かかるかもしれないのですね……」

「ドルイドに預けてもいいけど、ずっと置いておくのはなあ……誰かに盗まれたら洒落にならないし」

「蛇となる者は鍵と惹かれあう性質がある。容易にはいかないが、いつかは出会えるだろう」


行きよりはよほどゆっくりした足取りで湖を渡れば、宝石のように澄んだ青さは泳ぐ魚の姿がよく見えた。


石橋を渡した湖はかなりの大きさで、島の面積のうち何割かを占めるほどだった。

湖の青色は妖精たちの瞳を思わせ、たった一晩と少し離れていただけなのに、彼女たちの家で聞いた平和な喧噪が恋しくなっていた。


橋への道が隠されていた建物は開け放たれたままで、おそらくベルティネはここから空木たちの後をつけてきたのだろう。

水溜の扉を閉め、水路の石を戻せばまた少しずつ水が溜まり始めた。


建物を出ると黄金の平原は変わらず風に揺られ、涼しい風が吹きつけた。

不可思議な島の底に滞在した体には土や緑の香りのする島の平地が清々しく感じられる。


「ここからが遠いんだよなあ。翅があれば丘まで飛んで行くのに」

「ふふ、干し草のベッドに寝転びたいですね」


空木は襲撃で寝る間もなく連れまわされ、二人は冷たい水を泳いで助けに来てくれたのだ、全員の体力はほとんどを底をついていた。


「あれは……ファナ・ベァナだな」


カイの声に顔を上げれば、麦の波を飛び越える薄緑の翅が見えた。


「ファナ・ベァナ、ずっと待っていたのですか?」

「ううん、昼間だけ様子を見に出て来てたのよ。そうしたら歩いてくるのが見えたから……ねえ、蛇はどうなったの?」

「黒金の蛇は……ベルティネ・ドゥーンフォルトは死んだ」

「そうなの……」

「霧にこもってた方がまだ危険は少なかっただろ。どうせ丘に報告へ行くとこだったし、わざわざ待ってなくてもよかったのに」

「あたしもそう思ったのよ? でも伝えに行った方がいいか悩んでたのよ」

「伝えるとは、何をですか?」

「なんて名前だったかしら、白金の蛇が連れてたあの背の高い仲間よ」

「え……」

「森賀刑理か?」

「ああそう、そんな名前だったわ。なんだか髪も服もびしょ濡れだったの」

「先生が……生きている……」

「門に向かって一人で歩いてたけど、あんたたちの仲間よね?」

「いいや……討ち漏らした、敵だ――!」


すぐにカイが走り出す。その背中を追って、考えるより先に足が動いていた。

どこにこれほどの体力が残っていたのか、駆ける足は意志とは関係なく平原を進んでいる。

森賀が生きていることを確かめたい気持ちは逸るが、彼に会ったとして、また戦うことになるのだろうか。そんな考えが脳裏をよぎるが、とにかく生きているのなら、それだけでよかった。


「待って、あたしの仲間がいるわ!」


ついて来ていたファナ・ベァナが空木たちの頭上を飛び越し、木陰に倒れている彼女の仲間のところへ降り立った。


「ちょっと、死んでやしないわよね。大丈夫なの!?」


体は傷つき血を流しているが、翅が微かに羽ばたいて力尽きていないことを知らせていた。


「門を閉めに行った子だわ……ずっとここで倒れていたのよ」

「あいつ……ここをまた通ったの……逃がさないで」

「ファナ・ベァナ、君は彼女についていてやってくれ!」


平原から斜面の森へ入ると、その姿はすぐに見つけられた。

木々を隠すような霧はなく、森賀は門の前に立ち扉に手を当てている。


「森賀先生……!!」


振り向いた彼の胸にはあの古びたペンダントが揺れ、眼鏡のレンズは割れてしまっているものの、金縁のフレームをかけた顔は紛れもなく森賀のものだった。


「よかった……死んでしまったかと思いました」

「僕が生きているって、よくわかったね」


全身が濡れて茶の髪も張りついているが、大きな怪我はないようだった。数歩近づけば磯の香りが漂う。おそらく泉が海に通じていて、彼は泳いだか流されたか、岸から上がって来たのだろう。


「ファナ・ベァナが教えてくれましたから」

「また妖精か」


吐き捨てるようなその口調に、あの泉に落ちたのは演技だったのではないかという考えがよぎったが、空木はそれを振り払った。


「待つんだ、空木」


歩み寄ろうとする空木の前にカイが腕を伸ばす。その手には剣が抜かれていた。


「カイ……剣をしまってください。決着なら先程ついたでしょう」

「彼の右手を見ろ」


門の扉に手をかけたままの彼の右手には、黒金の蛇が握られていた。


「黒金の、蛇……」

「この扉から戻ろうとしたんだけどね」


森賀は口を開き、扉の模様を掌でなぞった。


「どうやら僕では、この鍵は使えないみたいだ」


苦笑し、輪になったまま固く動かない黒鉄の蛇をかざして見せた。


「その鍵を渡してもらおう。俺たちには次の主に渡す義務がある」

「学院へ戻られるのなら扉は私が開きます。だから先生、鍵はカイに渡してください」

「すっかり異界の住人の側になってしまったね、古梁川さん」

「どちらの側という話ではありません。その鍵はこの世界の物で、誰かが継承すると決まっているだけなのです」

「……ねえ、まだ戻れるよ。僕とこのまま、学院のある世界に帰らないかい?」

「空木……」


灰色の瞳と榛の色が交わった。

彼の言わんとすることはわかっていた。空木が何を選ぼうと、どこへ行こうと、共にあると。


「本当は最初、君と異界へ渡った日に、黒金の蛇と合流するつもりだったんだ……でも妖精の霧に惑わされてはぐれてしまった。僕が君を見失っている間に、君は自分の鍵守を見つけた。どうにか引き離そうとしていたけど、結局は戦うことになってしまった……どうしてだろうね。僕は君と敵対したかったわけではないのに」

「それは私も同じ気持ちです。先生、私の望みをお伝えします……もう二度と、異界で生きる人々に手を出さず、そして異界へ渡らないでください。」

「妹を諦めろと言うのかい?」

やはり森賀は負けてもなお、妹の蘇りを諦めてはいなかった。

「そうです。どれほど大事な人だとしても、今生きている人の命を踏みにじるのは、決して許されないことです」

「君は正義感が強いね。でもね、大事なもののために何かを犠牲にしてでも結果を得たいというのは、ごく自然な気持ちじゃないかな」

「だとしても……あなたは一方的に妖精たちを殺し、黒金の蛇を陥れました……許すことは出来ません」

「ははは。君って優等生風で大人しいのに案外、気が強いよね……自分を殺してただけかな、それとも誰も信用していなかっただけ?」


心底おもしろかったのか、森賀は腹を抱えて笑うと、ひび割れた眼鏡の歪んだフレームを軽く手で曲げてかけ直した。


「聞け、森賀刑理」


カイは剣を下ろしこそしていなかったが、とうとうその両腕に構え、半歩ほど踏み出した。空木はその構えを見ても、もう止めはしなかった。


「楽園の神々は蘇りの術など持っていない。もしそんな方法があるのなら、俺が試していただろう……転生こそが唯一、死者を悼み救う術だ。例え鍵を全て集めたとしても、お前の望みは叶わない!」

「それでも僕は、諦めるわけにはいかないんだ――」


霧のない森に突然、黒い靄がたち込めた。


「おい、下がれ!」


シオルに掴まれ下がってみれば、それは空木たちと森賀の間にだけ発生し、煙のように空へ上っていた。


「獣がまた来るぞ、周囲に気を配れ!」


風にのり微かに灰の臭いが混じる靄は木々よりも高く上り、形を取り始めた。


「何かの冗談だよな……?」


絶望に満ちたシオルの言葉が漏れる。


形を取り始めたのはあの五匹の獣ではなく、巨大な獣だった。

妖精たちの住処である、あの巨木の樹洞ほどはありそうな黒色の獣。


「彼は……ドルイドの力を持っているのか?」

「先生が? まさか……」


あり得ないと口にしかけたが、彼はベルティネに同行してシャルトールに渡ったこともある。

魔的な力をつけている可能性がないとは言えなかった。


「シオル、弓で援護してくれ。空木は身を守ることだけに専念するんだ」

「無茶です……あんな大きな獣、剣でどうにかできるわけが……逃げて態勢を整えるべきです!」

「ここで逃げられれば、蛇ごと消えるだろう……もし俺が倒れたら、君は自分の蛇を守る行動をとってくれ」

「カイ!!」


シオルの言う通りだった。どんな状況であっても、カイは前に立って戦おうとする。

守る行動とは、暗に危なかったら逃げろと言っているのだろうが。逃げるべきタイミングでも撤退できないのなら、命がいくつあっても足りない。カイの迷いのない自己犠牲心に空木は怒りを覚えた。


弓をつがえ、シオルが放った矢は獣の目に刺さる。

すかさずカイが脚の後ろにまわり込み、一太刀浴びせた。


「嘘だろ、全然効いてないぞ……」


咆哮もなければ、痛みにもがくような様子もない。

四肢の間から転がり逃げるカイを追って平然と戦っている。


「また遺跡に逃げますか……?」

「そりゃあ狭いところに入れば、あのでかいのは入ってこられないだろうけどさ……また細かく分かれて追って来たらこっちが不利になるって。遺跡の柱は剣を振れるほど広くないだろ」


獣は戯れるようにカイの攻撃を受けながら、彼に鋭く爪を浴びせようと前脚で地面をえぐっている。


離れた場所に立つ空木たちにはまだ関心を持っていないが、あまり戦いが長引けば、焦れた森賀が殺せと命令するかもしれない。巨大で、しかも命のない獣にとっては小さな人間の剣技など遊びにすぎなかった。


カイは必死で致命傷を避けてはいるが、傷だらけの体は動きが鈍り、身をかわすのが精々だった。


「空木、また網で捕まえられないか?」


あまりの獣の大きさに圧倒され、呆然と戦いを見守るしかなかった空木をシオルが揺する。その瞳は辛そうに歪んでいた。


「やってみます……!」


草地に蛇を垂らし、悟られないよう蛇を迂回させながら、木々を支えにするように二手に網を分かれさせ、左右から挟み込むように伸ばしていく。気づかれれば敵意がこちらに向きかねない。慎重さを要する策だった。


網を組み上げながら慎重に草の上を滑らせる。

そして獣の脚目がけ、木の幹に結んだ端々を一息に引いた。


銀の網目が触れるかというその瞬間に、獣は上へと飛び上がった。


「避けろ!!」


カイの叫びが響き、腕を差し出したままの空木はシオルに抱えられながら転げた。


そのすぐ横を獣が地を揺らして着地し、あわや潰されるところだった。

狙いを外したと気づいた獣はぎょろりと黒い目をこちらに向け、空木は蛇を引き戻し目の前に手をかざした。


「壁――」


瞬時の判断は正しかった。

銀の壁が寸前で爪を弾き、体をえぐられずに済んだ。


四本の爪が眼前に迫り、灰の臭いが濃くなる。空木はその前脚を捕らえるべく壁を解き、地面に先端を突き刺すと枝分かれした数本を巻きつけた。


脚を引きずられ暴れる横腹に、カイの体重を乗せた突きが刺さる。

だがすぐに地面ごと引き千切るように振りほどかれ、獣は再び自由を得た。


「これでは倒せない……」


立ち上がったシオルと木陰に隠れながら、再生する獣を見ていた。

やはり獣を倒そうとしても勝ち目はないのだ。


「くそっ、神殿じゃあんなでかいの、出てこなかっただろ……!」


神殿は高さこそあったが、中心に空いた泉や壁があの獣の動きを邪魔すると判断したのだろう。それにあの場にいても、鍵の揃わない彼は楽園へは行けなかった。まだ手を残していたのだ。


「空木、弓であいつを殺す。それしかないだろ。カイが不死でも、食われたらどうなるか……」


森賀を殺したくない。

だが彼がいかに頑丈だろうと、あの口に飲まれてしまえば助からないかもしれない。


「他に手は……」

「網で捕まえられるまで何度も試すか?」


その間にカイは切り刻まれるだろう。

灰の臭いをさせるあの獣を倒さずに、森賀を止める方法。焦りに、額に汗が滲むのを感じた。


「古梁川さん、あらためて言うよ。僕に協力してくれ」


森賀は気を数本挟んだ先まで斜面を下りていた。

獣をすぐ呼び寄せられるのか、彼はこちらを警戒した風もなく、平然と話しかけた。


「……いいえ、できません」

「このままだと彼は本当に死んでしまうよ?」


戦う彼を見れば、腹を爪で切り裂かれ、切れた紐と黒灰の髪が背に広がった。

こうして言葉を交わせるのも、カイが食い止めてくれているからにすぎない。カイの次はシオルを食らうつもりだろう。


「俺があいつに仕掛ける。術者が死ねば獣も消えるはずだ……」

「もしあの獣がシオルを狙ったら、あなたが死ぬのですよ!」

「わかってる。だからその隙に逃げろ、空木。蛇が無事ならどうとでもなるから」


空木は歯噛みした。彼の命を使って逃げ延びるような真似はしたくなかった。


「灰の臭い……」

「え? ……たしかにするな、そんな臭い」


その同意に、直感的な確信を得た。

考え違いでなければ、森賀は妹の遺灰をあの獣にしている。方法は分からないが、彼は何某かの手段で操っているのだ。


「灰を操る、そんな手段はありますか?」

「操る……? 優れたドルイドなら、変身の術を使えるとは聞いたな。でもあいつはドルイドじゃないだろ?」

「ええ。でもその術を使っているのです、おそらくは……遺灰を使って」

「でもそんな素振りもなかったぞ。第一あいつは杖も持ってないだろ」

「代わりになる何かを持っているのです……シオル、私の賭けにのってくれますか?」

「方法があるんだな、何か」

「はい。シオル、いいですか。合図をしたら……」

小声で隣の少年に囁く。

「おや、秘密の相談かい?」


耳打ちを終えても森賀は移動するでもなく、こちらを見ていた。


「行きますよ……シオル!」

「ああ!」


警戒した森賀に背を向け、二人は獣の方向へと走った。


シオルは残った矢を惜しげもなく打つ。

カイは血が目に入ったのか片目を閉じて驚いたようにこちらを見ている。


蛇を地面に穿ち、気を取られたカイの前に三つの壁を立てた。獣の攻撃を阻み、空木はすぐに木に隠れた。


短剣が獣に向かって飛ぶのを確認し、次の木へと向かう。

逃げるのかと叫ぶ森賀の声が聞こえたが、空木は足を止めなかった。


壁が功を奏し、まだ彼らは足止めをできている。


死角になる木を選び、空木は全力で草地を駆ける。森賀に向けて。

木陰から飛び出した空木に驚き、身を引くが、狙いは彼の体ではない。


掌の熱の中に金属の冷たさを感じ、すぐにそれを引きちぎって森賀から離れた。


「何を……自暴自棄にでもなったのかい?」

「いいえ……いいえ、狙いはこれですから」


空木はゆっくりと後退しながら、右手に掴んだそれを見せた。

千切れた細い鎖がたわんで滑り空中に揺れる、アンティーク調の色味をした、円柱形の箱のペンダント。


森賀は自らの胸に手を当て、揺れる重みがないことに気づくと、凄まじい形相で空木に掴みかかろうとした。


しかし彼の足は一歩踏み出す前に、矢に射抜かれくずおれた。


「うあっ――ぐうぅ!」


空木はさらに数歩下がり、獣を振り返るが、その形はもう保たれていなかった。


灰は空を舞い、ペンダントに返ってくる。

むせるような灰の臭いの後、巨大な幻の獣は消えていた。


「空木っ……!」


全身から血を流すカイが手足を引きずりながらこちらへ歩む。その肩の下にシオルが入り、支えになった。


「怪我は……ないな」

「無事です。私より、もっと自分を労わってください……!」

「なあ、それが魔道具だったのか?」


シオルがペンダントを指し、意外そうな声を上げる。


「ええ、そうです。この箱に灰を入れ、獣を呼び出していたのでしょう」

「あの水鏡と似た原理だろう。条件を満たせば発動する魔術だ」


安堵から、空木は滅多になく声を荒げた。叫びにも似た言葉に、カイはただ笑って見せた。


「返せ――!!」


地の底に響くような声が森にこだました。

突き刺さった矢を引き抜き、足をかばいながら森賀は地を這っている。


「返しません。黒金の蛇も、ペンダントも……もうあなたには渡しません」


空木は彼の手にしている黒鉄の蛇に手を伸ばし、それを奪った。抵抗を見せたが、彼の手は血に濡れ滑り落ちた。


「……先生が異界を渡る方法はもうありません。妹さんの遺灰も、もう使えないように泉に撒きます」


草地に膝をつき、あらためて森賀に視線を合わせた。


「この遺灰に魂が残っていれば、転生することもできるでしょう。もしかしたら……妹さんも、私のように少しだけ記憶を思い出すかもしれません。そうしたら、時間がかかるでしょうけれど、きっといつかどこかで……再会できるかもしれません。ここで起こしたことを絶対に忘れないでください。私は先生がこれまで目的としてきたことを、人生を奪います……そして新たな目的をあなたに与えましょう。妹さんが生まれ変わり、再び会えるまで待つのです。わずかな希望でしょうけれど、この小さな望みを糧に、必ず生きてください」


後ろから歩み出たシオルに、森賀は腕を持ち上げられた。


空木は腕の蛇を黄金の門に這わせた。

光るその扉に銀の流体が流れ込み、渦に命が宿る。


「先生はこのまま私たちの世界に帰っていただきます。ですが……無辜の命を奪った咎を、決して忘れないで欲しいのです」

「……僕が、君の言うことを聞いて、大人しくしていると思うのかい」

「その時は、私が先生を止めます。だからもし、私が学院に戻ったときにいなくなっていたら嫌ですよ。学院で待っていてください……きっと先生はこれからの人生を長く感じると思います。その慰めに旅の話を、今度は私が聞かせてさしあげますから」


門が開く。黄金の光を溢れさせ、学院の広大な敷地が、懐かしいアイリスの花の匂いが流れる。


「恐ろしい女だよ、君は……」


森賀は諦めにも似た声色で苦笑を漏らした。


「ふふ、罪を裁く立場にないのに、あなたに罰を与える私はもしかすると……ひどいエゴイストなのかもしれませんね」


彼の背中をそっと押し、学院の灰の石畳へ送り出す。


そして空木は、両腕で異界の門を閉じた。


「……殺さなくてよかったの?」

「殺していたら後悔したと思います。それに私は、人を裁く立場にありません」

「妹の転生を待つんだ。魂が生まれ変わり、人として育つのを待たなければいけない……十分な罰になる」


彼もまた空木が現れるのを待ったのだ。

不確かなものを信じ、耐える時間の長さを誰よりも理解しているのだろう。


「怒っていますか。私が勝手に決めてしまったことを」


灰色の瞳が静かに空木を見た。


「君は人の顔色をうかがい過ぎるきらいがあるな。それが悪いというわけではないが」


自覚はなかったものの、その言葉に空木は体の内側が冷える思いをした。

意識しなければ、これまでの生き方から他人の考えを気にし過ぎてしまうのだ。そうして気疲れをし、孤独と従順の道を選んでいた。


空木が暗い面持ちになるのを感じたのか、シオルが口を開いた。


「恨みを持った奴が自分や家族の近くにいるかもって考えたら怖くならないか? 空木の世界だから、いいならオレは気にしないけどさ」

「ああ。怒りは感じていない……だが彼は蛇の敵になった。野放しにすれば、いずれ巡って俺たちに恨みを晴らそうとするかもしれない」

「たしかに、考えが足りていないかもしれません。でも殺してしまうよりは、ずっといい……ベルティネさんを観察していて、そう思ったのです」


彼らもベルティネには思うところがあったのか、それ以上は追及しなかった。


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