10話

「ああ……あれだ」


感嘆の声に顔を上げれば、明かりに包まれた神殿に入りかけていた。

白い石壁や床を満たすこの不思議な光には見覚えがあった。


壁に松明のような灯りはなく、天井が開いているわけでもない。なのに光は地の底にあるはずの神殿に満ち、昼のような明るさで照らしていた。

中央には深い泉が石の床にぽっかりと深い青の口を開けている。手すりはなく、下手に覗き込めば底なしの泉へ落ちてしまいそうだった。


「これが楽園の門だよ。この先に行けるのは、死者だけとされているんだ」


楽園の門は、およそ人のために造られているとは言い難かった。

その繊細な渦の模様と、門から放たれる黄金の輝き。ティル・オールと学院を繋いでいる門と同じ物だった。


しかし高く壁のように天井まで聳える門はまるで大きさが違い、人間の背丈よりも遥かに大きく、人の力で開けられるようには到底思えない。巨人のために誂えられたと言えるほど巨大だった。


「これを……この扉を開けるつもりですか?」

「……ああ……壮観だね」


森賀は獣から降り、うっとうした表情で引き寄せられるように歩いて行く。

ベルティネの目もまた門に奪われており、逃げ出す好機だった。


だが空木は門の先への、神々に会おうとしている彼への興味が勝り、逃げる足は動かなかった。


「神々が楽園に消えてから、この門を開ける試みは一度もなされたことがなかったらしい。蛇が頑なに鍵を守っているからね……僕たちが初めて到達するんだ、楽園へ」


彼は大いに喜びを表現した。茶の瞳は瞳孔が開き、これから起こすことへの期待に満ちている。

森賀に学院での面影はどこにもない。

おどけたところのあった彼の教師としての姿は演技だったのだろうか。


「さあ、ベルティネさん。門を開けてください」


彼女は何も言わず、無言で進み出た。

その横顔は引きつり、恐怖を抱いているようにも見える。左腕に巻きつく黒い蛇は息を吹き込まれたように動きだし、門の扉へ身を這わせ始めた。


黄金の扉に掘られた渦を這い、黒がゆっくりと上へ伸びていく。

生物というよりは水銀のような流体に近い動きだった。


腕に巻きつく装身具のような蛇では到底足りないはずだが、不可思議な金属は自在に伸び、扉を覆おうとしている。平原で獣に襲われたときに建物の入り口を阻んだ壁も大きなものだったが、今や比にならないほどの長さになっていた。


森賀の目はもう扉すら見ていなかった。その先の、再会を幻視していた。

空木は門から目を背けていた。


門を開けようとする行動を止められないという自らの臆病さに恥を感じ、カイとシオルがあれだけ熱心に信じる、手を伸ばし難い場所へ勝手に分け入ってしまう異界人としての蛮行を、とても見てはいられなかった。


「もう少しだ、理緒……もう少しで、また、会える……」


彼の呟くような声に顔を向ければ、丸みを帯びた蛇の頭が、迷いながらも複雑な模様をなぞる様はあまりに生々しく、思わず身を抱いた。


黒の蛇が扉の模様を覆うのに、やけに時間がゆっくりと過ぎ、遅く感じられた。


その頭が上りきると、ベルティネはぴくりと肩を震わせた。


「なんです……?」

「どうしたんですか。さあ、開けてください」


ベルティネは答えなかった。ただ数歩後退り、動揺しているのは見てとれた。


「何故だ……馬鹿な、黒金の鍵だぞ……」

「聞いているんですか……!?」


反応しない彼女に、苛立った森賀が肩を掴んで振り向かせた。

ベルティネの顔は青白く、唇はわなないていた。


「開かない……? まさか、そんなはずがない」

「冗談はやめてください、何かの間違いでしょう」

「だが、だが開かないのだ……異界の門はいつもこうすれば開くというのに……これでは、私の戦士達は、蘇らない……」

「あなたが……あなたが、僕を連れてくるって言ったんですよ……開かない……? 何を言っているんだ?」

「わ、私も知らなかったのだ……門に手をかけるなど、恐れ多いことを試せるはずがない……」


森賀は激しく老女の細い肩を揺さぶった。


「それじゃあどうするんです、死んだ人間を蘇らせるられないと? 妹は、理緒はどうなるっ――助けられないとでも言うのかっ?」


慟哭の声が神殿に響いた。


彼らの鬼気迫る怒声に気圧され、空木はゆっくりと数歩、後退した。


なぜ楽園の門が開かないのかはわからないが、とにかく彼らにとって想定外の、異常な事態にあるのは理解できる。


錯乱しつつある人間に身を任せているのは恐ろしかった。今こそ逃げるべきだ。

だが獣に追いつかれれば、逃亡の好機も無意味になってしまう。逃げるならば気づかれないように去らなければ。


「空木」


囁く声に名を呼ばれ、冷たく大きな手が手首に触れた。

黒灰の髪は濡れて額に張りつき、濃い色の服も水滴を垂らして湿っている。


「カイ……」


どうやってかは知らないが、カイが神殿に、空木の後ろに立っていた。


マントも荷もなく、ただ簡素な服に剣を携えて。

灰色の瞳は安堵に細められ、空木を見つめている。


獣の足に人が追いつけるはずがない。

助けは諦めていたし、カイが来てくれるとは夢にも思っていなかった。


視界が滲むのを必死に抑えても、安堵を覚えた心は勝手に熱いものを溢れさせた。


「おい、空木……早く来いって!」


金の髪を乱したシオルも泉の縁に腕をつき、空木に腕を伸ばしている。


「シオルまで……」


カイに背を押され、門から離れて泉の縁に膝をついた。


「二人とも、来てくれたのですか……?」

「ああ。さあ、メロウについて逃げるんだ」


カイは振り返り、空木の前に立つと神殿に響く声で叫んだ。


「その門は開かないぞ!」


森賀とベルティネはすぐに振り返るが、その視線は彼へ向いている。

注意を自分に向けて、空木を逃がすつもりなのだ。


「泉を泳いで逃げる。空木、早く潜れって!」


這い上がりながら、シオルは小声で空木の体を押す。


「シオルはどうするのです!」

「俺はカイと戦う。黒金の蛇をあいつから奪わないといけないから……こっちの蛇さえ無事ならどうにでもなるんだ、早く逃げろ!」


彼の小さな背には弓がない。泳ぎの邪魔だったのか、腰に短剣を二振り差しているだけだ。


「蛇、逃げる」


メロウに腕を引かれ泉へ入るよう促されたが、空木の手は縁を掴んで離れなかった。

彼らは真っ向から戦いを挑み、決着をつけるつもりなのだ。森賀と、ベルティネとの。


どう考えても劣勢だった。無限に蘇る獣と、歴戦の黒金の蛇。

仮に二人が勝てたとして、そのとき誰が生き残っているのだろうか。不死のカイは立っていられるかもしれない。だがシオルはどうか、そして森賀は。


あの森で見た血の痕のように、ひどく傷つくのは間違いない。

まともな医療設備もないフィニステールであれだけの血を流せば、助かる見込みはないだろう。


三人に死んでほしくはなかった。

最善を掴みとるために、空木は泉の縁から手を離した。


「二人はご自分の仲間を守ってください……私もそうします」


泉に浸かったままの二人のメロウは顔を見合わせ、水路へと潜っていった。

縁から立ち上がれば、カイは剣を抜きベルティネに向き合っている。


「黒金の蛇だけでは、楽園の門は開かない。諦めろ」

「白金の鍵守……!」

「鍵は三種揃えなければ楽園には辿り着けない。二つの鍵が揃ったところで、赤金の蛇はこの場にいない!」

「三種の鍵だと……!?」

「門を開ければ、ティル・オールは滅びる。あなたもよく知っているはずだ、ベルティネ・ドゥーンフォルト」

「君も大概しつこいね。そんなのは言い伝えじゃないか。鍵が足りないなら、集めるまでさ……古梁川さんにも力を貸してもらってね」


森賀の瞳がこちらを向いた。


「妹が蘇らせた後に、記憶を取り戻す手助けをしてもらうつもりだったけど。鍵まで必要とは思っていなかったよ」

「門を開ける助けは、できません」

「っ……空木、何をしている!?」

「まだあなたには、シャルトールに連れて行ってもらうという約束を叶えてもらっていません」

「そんなことを言っている場合ではない!」


カイは今までにない慌てようで空木の肩を掴み押し戻そうとする。


「もう決めました。私も戦います」

「来るだろうとは思っていたが、まさか泉を泳いで追ってくるとはな……」


扉に這っていた蛇も開かないと悟ったのか、ベルティネの腕へ戻っていた。


「カイとシオルにはここまで守ってもらいました。だから、私もあなた方が守る手助けをします……もし足手まといになりそうなら、泉に逃げます。もう迷惑はかけません」

「迷惑だのという話ではない、空木――」

「言い争ってる場合じゃないって!」

「なるべく戦いたくないから穏便な方法をとっていたんだけどね。だって面倒じゃないか、僕は一般人だしね」


森賀の声にカイが視線を戻せば、彼の足元には五匹の獣がいた。


「白金の蛇……お前を捕らえ、赤金の蛇からも奪ってやる!」

蛇を黒い刀身に変え、ベルティネはこちらへ床を蹴った。

「蛇は俺が相手をする、シオルは獣を引きつけてくれ……空木、シオルの傍から離れるな」

「はい!」


剣を構え、黒い剣先を逸らすカイから後退する。

獣はカイを無視し、二人を目がけて襲いかかる。


「あの壁は出せる?」

「ええ、盾にしてみせます」


シオルは短剣でその牙と爪を弾き、背後に立つ空木へ攻撃が届かないよう立ちまわる。

空木は左腕に盾を作り、背中の攻撃を防いだ。盾は軽く、身の丈ほどに形を変えても重量は変わらない。


足を狙われないよう盾で精一杯に押し返すが、幻の獣は疲れを知らず、何度でも襲いかかってきた。


「平気ですか、シオル!」


体を庇える空木はまだ体力が残っているが、かすり傷から血を流すシオルは、獣を蹴りつけ刃を振るう腕に消耗が見えた。


「まだ戦えるっ……」


気丈な返事だが、状況が劣勢であることは明らかだった。

防戦一方の上、大きな盾を持っていると視界が遮られる。盾を持っていない方に走られれば爪が腕に食い込んだ。


傷は浅いが、何度も繰り返されれば痛みと疲労で反応が鈍っていく。


「君たちが抵抗を止めてくれれば、無暗に傷つける真似はしないよ」


森賀は何をするでもなく、離れて悠々と立っていた。


彼の命令に従ってか、獣たちは接近していた体を離し、ゆっくりと周囲を回り始めた。


「誰が止めるかっ……!」

「いたぶるような真似がお好きなのですか?」


息を荒げながら睨めば、森賀は笑いながら頷いた。


「ああ、すまないね。じゃあ手早く終わらせようか」


その言葉に合わせ、獲物の様子を見物していた獣が一斉に襲いかかる。


「動かないで!」


空木は右手でシオルを掴み、盾を持った左腕を振るって、とっさに周りを籠で囲んだ。


「うわっ……」


床から鋭く伸びた網にシオルが仰け反る。


獣はすぐに網へ入ろうと、籠の細い隙間から顎や爪でひっ掻くが届かない。中心で背中合わせに立てば時間稼ぎにはなった。


「切っても倒れないんだよ、こいつら!」

「獣が籠の中に現れたら終わりですね……気づかれるまで、作戦会議といきましょう」

「オレの武器は短剣と削った貝だけだよ。弓は泳ぎの邪魔になるから置いてきた……あんたの蛇はどう?」

「私は武器が扱えませんから、ベルティネのようには戦えません。それ以外の方法を考えます」


助けを求めて隙間からカイに視線を向けるが、彼にも余裕がないのが見てとれた。

ベルティネの持つ黒い蛇は剣に鞭に姿を変え、叩きつけたかと思えば絡むように打ち込んでいた。カイはなんとか凌いでいるが、変則的な攻撃に袖や腹が切られ、肩は抉られ、満身創痍になりつつあった。


どうしたらあんな風に蛇を扱い、攻撃できるのか。せめて足止めだけでも。


「この獣、倒したら消えてまた現れる幻なのに、数は増えないんだな?」

「言われてみれば……そうですね」

「早く終わらせて欲しいのかと思ったけど、作戦を変えたのかい? 納得いくまで足掻きたい気持ちはよくわかるけどね」


こちらを挑発したいのだろう。

森賀は笑っているが、門が開かなかった事実に焦れ、怒りを感じているのが見て取れた。


「倒さなければ灰には戻らない……?」


空木は初めて自らが戦った時に獣を貫いた、あの槍が浮かんだ。串刺しにすれば倒してしまうかもしれないが、倒さないのであれば。


「やりようがあるかもしれません」

「どうするんだっ?」


小声でシオルに説明しかけたが、獣は素早く、不意をつく必要があった。


「試します」


籠はぐにゃりと鋼の硬さを失って曲がり、籠に爪をかけていた獣の群れに倒れ込んだ。


「おい――!?」

「大丈夫です!」


下から抜けようとする獣の首を、腹や足の隙間を籠の先端が串刺し、木にまとわりつく蔦のように締めあげた。


五匹の獣は神殿の床と網に挟まれ、身動きをするたびに複雑に絡んでいく。獣は逃れられず、ただ唸り声をあげている。


「獣はもう動けません。森賀先生……諦めてください」


シオルは素早く森賀に近づき、短剣を首に突きつけると跪かせた。


「殺さないでください、シオル」

「こいつ次第だな」


少年の冷酷な言葉に森賀は苦笑した。重ねていた革帯を一つ引き抜き、腕を縛り上げる。


「古梁川さんの実力を見誤っていたみたいだね……あの穴ぐらで彼を人質にしておけばよかったな」

「空木、何を言われても気を抜くなよ。こいつ油断を誘うつもりだ」

「ただ守られる立場に甘んじるつもりはありません。私が選んだ旅ですから」


鋼の撃ち合う音が高く響く。

門の前で戦いを続けているカイを見れば、白銀の刃と黒の刃が交差していた。


「ベルティネ・ドゥーンフォルト! 黒金の蛇であるあなたが、なぜ楽園の門を開けようとする!」

「私の鍵守たちは殺された……オーエン、レイモン、ジョスラン、ギィ! 死体もなく、弔うこともできなかった。異界を守るために渡り歩き、共に幾度も死線をくぐり抜けた戦士たちだぞ! 私が少女であった頃から旅をした、仲間たちが。だから楽園の神々に頼むのだ。仲間を蘇らせてほしいと!」


黒金の蛇も仲間を蘇らせるためにここへ来たのだ。森賀は同じ目的を持って。


「それでもあなたは鍵守を捨ておくべきだった。鍵守があなたの行動を望むと思うか? 彼らの功績を、鍵守の命を無駄にするな。蛇ならば楽園を守れ!」

「小僧に何がわかるというのだ……」


カイの言葉は重く圧しかかった。

空木にとっては目先の事象に対する判断だが、彼らは人生をかけているのだ。


「なあ、黒金の蛇を足止めできる?」


シオルがそっと近づき、耳打ちをしてきた。


「もう少し近づいてくれれば……網を伸ばすと、あからさまな罠に見えてしまいますから」

「俺が追い込む、獣とあのでっかいのから気を抜くなよ!」


手にしている短剣を構え、神殿の右端からわざと泉を周り込み接近していく。

小型ナイフのように尖らせた貝を投げ、ベルティネの隙をついた。


「あんたもいい加減にしろ!」


二人の鍵守を相手に、黒金の蛇は徐々に押されつつあった。

ベルティネの戦い方は攻めに偏っていた。空木の守りとは真逆の、ひたすら武器を撃ち込み牽制する。手品のように握る武器が変化する様は美しい。まるで生きた蛇のように獲物に食らいついている。


目まぐるしく武器を変えるその戦い方はセイラスに似ているようで、だが身体能力に明確な違いがあった。二人の剣は徐々に網へとベルティネを後退させていく。近づく戦いに、空木も気づかれぬよう、距離を詰めた。


いまだ獣は唸り続け、戦意を失っていない。

気を抜いて網を緩めれば、すぐにでも這い出し食らいついてくるだろう。


腕を後ろで拘束されている森賀は床に膝をついたまま、彼女の戦いを見ていた。この状態で彼が何をできるとも思えず、網の先を茨のように伸ばす作業に注力した。


ベルティネの変則的な攻撃は脅威だが、カイの豪胆で重い一撃と、シオルのが繰り出す素早く剣が立て続けに撃ち込まれると攻撃の暇もなかった。


一歩、また一歩。彼女の革靴が磨かれた床の石を鳴らし、網の罠に近づいてくる。

ほんの少し、茨の先を伸ばせば足を絡みとれる。


「――ベルティネ!」


森賀の叫びが逆方向から聞こえ、一瞬、視線が奪われる。

振り返ったベルティネとの距離は数歩ほどだった。


空木は声を上げそうになったが、歯を食いしばってこちらに狙いをつけた彼女の足に銀の茨を食い込ませた。


「ぐぅっ――!?」


老女は体勢を崩し、派手に床へ倒れ込んだ。


だが彼女は予想に反して諦めなかった。隙のできたカイの胸に噛みつこうと黒蛇が迫った。


「カイ!」


蛇を伸ばし、伸びる黒の蛇に、ベルティネの体を拘束する銀の蛇が巻きつく。

阻まれた黒蛇はそのまま包まれるように捕らえられた。


「黒金の蛇――!」


カイは剣を頭上に構え、自らの胸に食らいつこうとした蛇を、左腕ごと切り落とした。


「がああああぁ!」


伸ばされた腕は舞い、蛇をまとわりつかせながら、ぼとりと落下した。

床に抑えつけられたままの獣を飛び越し、カイは即座にこちらへ走り寄った。

シオルが叫んだ森賀の腕を掴み、引き摺り連れて来る。


腕から流れる赤い血が白い床を染め、泉へと零れていく。


「ぐぅっ……うう……まだ、まだ終わっていない……」


痛みに、地の底に響くような低い唸り声を上げている。


「終わりだ、黒金の蛇。そして、森賀刑理」


戦いが終わったのだ。

空木はいまだ戦闘の恐怖と緊張が途切れず、捕らえられた森賀と黒金の蛇を繰り返し見て、ようやく落ち着きを取り戻した。


カイはまだ赤く濡れる剣を抜いたままだったが、呆然とする空木の背を優しくさすってくれた。


「大丈夫か?」

「ええ……ええ、なんとか」


まだ興奮しているが頷き、いくらか平常心に帰ることができた。


「君たちは何故僕らの邪魔をするんだ?」


険しい表情はカイへ向けられていた。

空木がどう答えるべきか逡巡していると、カイは森賀を見た。


「神々が地上へ戻れば、ティルオールはまた神の戦が起きる。そうさせないための蛇だ」


ベルティネはびくりと体を揺する。彼女も理解していて、それでも門に手をかけたのだ。


「知ったことじゃないよ。僕の世界の話じゃない……しかも可能性の話だろう?」

「もし……もしも神々が戦を起こされたとして……我々蛇が、また異界へ導けば……民は救われる」

「命だけは救われるだろうな。だが住処も、家畜も、作物も全て失われる。異界に逃げた先で失ったものを再び得るのに、どれだけの時間がかかると思う」


カイの言葉に、ベルティネは噛み殺すような嗚咽を漏らし、石の床へ額を擦りつけた。


「終わりだ。お前たちの企みは挫いた。楽園の門は開かない。処遇はドルイドが決めるだろう」

「待てっ……最後に聞かせろ……」


失いつつある血に顔を白くさせながらも、ベルティネは必死に這い寄ろうとする。


「私の仲間たちを殺したのは……森賀刑理、お前か……?」


もはや蛇を操る腕のないベルティネを一瞥し、森賀はふっと笑った。


「ああ……僕が殺したよ」

「お前が……やはりお前が、殺したのかっ……!」


蛇を奪われた老女ベルティネ・ドゥーンフォルトは絶望に呻いた。

ベルティネの鍵守である四人の戦士を、森賀が殺した。妹を蘇らせるために、彼女が楽園へ同行する理由を、命を奪ってまで作り出したのだ。


信じられず彼を見るが、その横顔は学院にいた彼と同じものだった。


「森賀先生……どうして、彼女の仲間を……」


穏やかな瞳で森賀は空木を見た。


「古梁川さん。僕は君に妹を重ね合わせていた……大事に思っていたんだよ、結果はどうあれ……僕なりにね」


彼は空木の問いには答えず、ただ思いを口にした。

瞬間、言葉を紡いだその喉に、黒蛇が食らいついた。


森賀の体は縁へと傾き、深く暗い泉の底へと落ちる。

黒金の蛇は最後の力を振り絞り、落ちていた蛇に触れたのだ。


「先生――!」


彼の姿が闇の底へ飲まれていく。

空木は泉へ飛び込んで追いかけようと腕を伸ばした。


「空木、だめだ間に合わない」

「カイ、離してください! 先生を助けないと……!」

「……なら俺が行こう」


カイと空木を止めるように泉の前にシオルが立った。


「自害する気か!? この深さじゃ、人を抱えて上がってこられないって!」


底は見えないほど深く、沈んでいった森賀も、もう見えなくなっていた。

空木の周りで呻いていた獣たちも灰に返った。彼の命令が途切れたのだ。


「うそ、先生……そんな……」


酷い人だったが、死んで欲しくはなかった。自身が利用されても、妖精を殺し、ベルティネの仲間を殺した非道な人間でも。教師と生徒の関係性を越えて、友人だと思っていたから。


力なく崩れる空木の肩を、横に座るシオルが撫でた。


ベルティネの腕を止血しようとカイは服の裾を裂いたが、それは拒否された。


「私は助からない。助かるつもりもない……白金の蛇、こちらへ来い」


ほとんど憔悴しきった顔で空木を呼んだが、彼女はもう動くほどの力もなかった。

数歩だけ近づき、空木は止まった。


そしてベルティネは途切れがちに語り出した。森賀との出会いを。


森賀は黒金の蛇に取り入り、時間をかけて仲間になっていったらしい。

学院の扉から出てきたベルティネに言語能力を買われ、雇われて以来、彼とは交流を持つようになった。


森賀は妹の生前、治療法や医者を探していたが、見つからなかった。異界ならば治す術があるかもしれないと、森賀は仲間にして欲しいと懇願した。それ以来、彼をたまに連れてはティル・オールに移動し、学院側の世界を案内しながら教職を続けていたらしい。


妹の話を聞き、ベルティネも治療できる者がいないか協力していたが、見つからない。その間に森賀の妹は亡くなってしまったそうだ。


「楽園の神々ならば死体がなくとも転生させてくれるかもしれない」と思い付きを口にした彼女に、森賀はすがるように頼み込んだという。


そしてある晩、森賀は彼女に貰った灰を操る魔道具で獣を操り、鍵守を殺したという。

ベルティネは初め、彼を疑っていなかった。だがこのフィニステール島に蛇や鍵守を狙う者がいるとは思えず、疑いを持ったと。


そこへ、空木が前世の夢を森賀に語ってしまった。


ベルティネは憧れていた白金の蛇、セイラスのことを彼に話していた。森賀は空木の夢を信じ、記憶を持った転生者として観察し、妹の記憶を取り戻すきっかけしようと連れてきた。そしてベルティネと合流し、楽園の門へ向かったと。


話し終えたベルティネの息はか細く、命の灯火が消えかけているのが見てとれた。


「あいつの企みには、気づいていた……私の鍵守は全員死んでしまったと、どこかで理解していた……」

「あなたは知っていて、森賀先生と同行していたのですか?」

「どちらにせよ……仲間を蘇らせるには、神々に会うしかない……お前は道を違えるな、白金の蛇」

「……心に、留めておきます」


「母なるダヌよ……私と、私の戦士たちを、そちらへ、お連れください……」

そう言い残して、ベルティネ・ドゥーンフォルトは絶命した。


「弔ってやろう。手向けてやる花もないが……体を泉に沈めてやれば、転生するだろう」

「空木、泣くなよ……森賀も泉に落ちたんだ。次の生を授かって、またいつか会えるから」

「そう、ですね……」


ティル・オールの死生観には馴染めないが、このときばかりは救いだった。


横たわるベルティネの衣服はところどころが切れ、腕の他にも血が出ていた。服はどうにもならなかったが、ハンカチで傷をぬぐって綺麗にする。


イヴァンの死を目にした夜よりは、落ち着いて送り出すことができそうだった。

森賀を看取れなかったのは心残りだが、代わりに彼女の亡骸を繕うことで、彼を共に見送る心の整理がついた。カイは彼女の胸元に自らが切った腕を乗せ抱き上げると、転生の泉へゆっくりと沈めた。


「蘇る術があれば……そんなものは俺が試している」


ぽつりと呟く声が聞こえた気がしたが、カイは消えていくベルティネを静かに見ていた。

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