9話

遠い地での記憶を思い起こし、彼は回廊の天井を見つめた。


「幸せな家庭だったよ。父母と、年の離れた妹が一人の四人家族。特別に裕福ではないけど、生活に貧窮するほど貧しくもない平凡な家庭だ。妹は明るく可愛らしい子で。よく走り回っている子供で。走れば学校の誰よりも速かった。将来はマラソンの選手にもなれるかもしれないと、よく頭を撫で褒めていたよ。教職の道を目指して大学へ進みもしたし、順調な人生だった……そんな時にあの子は病気を発症してね、ほんの数年で歩くのが難しくなったんだ」


「病気……」

「妹の体の異変に気がついたのはかなり進行した後だったよ。初めは上手く走れなくなってね。次第に日常生活すら困難になっていった。病気が発覚するまでにいくつもの検査を受け、難病が発覚したんだ」


次第に彼の顔は色を失い、無表情になっていく。


「妹がまた元気になるよう、手を尽くした……でも治る見込みのない病だと告知された。僕は医者を探し海外へ行った。大学の合間に、卒業すれば仕事の合間に駆け巡った。妹は死なないと信じて疑わなかった。治る手段が見つかって……いや、完璧には治らなくとも、グラウンドを走れる体にはならなくとも……また一緒に笑って暮らしていける未来が来ると思っていた……そんなことはないと、死んでからわかったけどね」


空木はすでに言葉を失っていた。

口を挟むこともできずに、ただ彼の話を聞いていた。


「まだ子供だった彼女を父母と支えていたけど……治療困難だと言われたよ。その頃から僕は医者を探し始めた。医者で無理なら薬、漢方……少しでも体の辛さを除こうとした。それでも症状は悪化の一途を辿り、僕はどこかに治せる医者がいると信じて南の方に足を伸ばし、薬草医を探していた。そして彼女たちと出会ったんだ」


森賀が話してくれた方々への旅というのは、彼の妹を助ける手段を探す目的だったのだ。

聞いていただけでも数年はかかっているはずだ。彼が話していないだけで、もしかすると半分近い人生を継ぎ込んでいたかもしれない。


ベルティネは応えないが、静かに話を聞いているようだった。

驚いた様子もなく、彼女は以前に森賀から知らされていたのかもしれない。


「異界の話は驚くばかりだったよ。古梁川さんならわかってくれると思うけど、最初は信じられなくてね……」

「……ええ」

「でも実際、扉の向こうに全く違う景色があったのを見ていたからね。しつこく問い質したら異界から来たと話してくれたよ。希望が持てるならと、夢のような話だけど、信じることにしたんだ。彼女たちと行動を共にする内に、僕はティル=オールに連れて行ってもらえるようになった。まだ知らない医術や、薬学の知恵があるかもしれないと期待した。まあ、そんな上手い話はなかったけどね……そして妹は宣告されていた余命よりも早く、合併症に罹って死んでいった。でも、転生という新しい境地を知ったんだ」


彼の目は開かれていた。

その未知の閃きのような、違う視点への感動を思い出し、茶の瞳は当時の喜びに輝きを見せた。


「僕たちの世界にも転生のような機構があるんじゃないかと探したこともあったよ。妹が生まれ変わって、なんの不便もなく、健康に新しい生を謳歌できないか。だけど存在しなかった……何故、ティル=オールにだけあって、こちらの世界には存在しないのだろうね? だから異界の神に訴えるのさ、妹を蘇らせて欲しいと……こちらで出来なくても、ティル=オールでなら、妹は蘇ることができる」


「……この世界では転生ができると、私も聞きました。でも先生、死んだ方が生き返るわけではありません。別の人間に生まれるのです」


セイラスの魂が巡り空木になったように。だが空木とセイラスは違う人格を持った他人だ。


「そう。転生では、別の誰かに生まれ変わらせることしかできない……でも神々に頼めば、妹の人格と記憶をそのままに蘇らせてくれるかもしれない。そのために僕は、危険を冒してここまで来たんだよ」


手段を尽くし、最後に辿り着いたのが神頼みだったのだ。


「なんでも、死者すら再生することのできる道具を神々は持っていると言うんだ。ただ懇願し神に頼み込むわけじゃない、すでにある道具で蘇らせてもらうんだ」


空木はあまりに壮絶な人生に言葉が出なかったが、引っかかりを覚えた。


「記憶を、そのままに……?」

「そう、そうさ。君のおかげなんだよ、古梁川さん」


森賀は笑顔で空木に顔を寄せたが、その目は笑っていない。

空木は彼に狂気じみた恐ろしさを感じ思わず身を引いたが、背後を柱に阻まれ、彼から離れることはできなかった。


「断片的にだけど、前世の記憶を僕に教えてくれたね。君こそが僕が欲しかった結果なんだ。記憶さえあれば妹は生き返る、例え違う人間だったとしても記憶があるなら僕らの失われた人生はやり直せるんだ」


いわば空木は転生の実験台だったのだ。

親愛の情を抱いていた彼にただ利用されていただけだと知り、怒りと悔しさが再び沸き起こった。


「そんな……そんな方法があればカイが試しているはずです……!」


彼はセイラスが死に、シオルが憐れに思うほど嘆き、深く絶望し続けていたのだから。

きっと森賀はベルティネに騙されているのだ。妹を亡くした彼の悲しみを利用されたのではないか。


「さて閑話休題だ。十分休んだろう? 先に進むとしようじゃないか」


松明に火を点け、再び獣の背に乗せられた。

先程よりは幾分ゆっくりとした歩みで進んでいく。


神殿のような回廊は美しく、島のどの場所よりも優れた技術で造られているのがわかる。

ファナ・ベァナとイヴァン・ベァナが案内してくれた、川辺の浴場にある柱に似ていた。古い時代の建物だと彼女たちは言っていたか。


壁や柱を形作る個々の石は見事に均一に切り出され、配置されている。

回廊の壁面には壁画と呼べるような彩りはないが、見覚えのある装飾が施されていた。あの門に刻まれていた、渦を巻き絡み合う紐のような装飾。壁の中ほどを帯のように、遺跡の奥へと模様は伸びている。


しかしじっくりと鑑賞している余裕はなかった。

今すぐにでも殺されるというような心配はないが、用が済めばそうなってもおかしくはない。

逃げ道の確保。それが空木にとって危急の課題だった。


できるだけ周りの景色を焼きつけ、通路でも部屋でも、逃げられそうな場所を探さねば。


遺跡の狭い通路を抜けると、石の柱を縫うような道は次第に、傾斜のついた回廊と階段に変わり、さらに地下へと進んでいくようだった。


「この通路はいつまで続くのかな」


岩山の底へと伸びる回廊は暖かな外の気温とは違い、どこからか冷風の流れる不気味な冷たさがあった。


「覚悟しておけ、ここは亡霊の領土だ。弔われずに死んだ者、ドルイドに裁かれた者……魂が泉から解き放たれずこの回廊に留まるのだ」

「亡霊……?」


空木は首を傾げたが、しばらくすればその言葉を理解できるようになった。

薄く影のように佇み、回廊の影にいるのだ。

亡霊たちは何をするでもないが、影のようにつきまとい、恨めしげにこちらを見ている。


「あまり亡霊と目を合わせるな。稀に悪霊が混ざって、こちらの肉体を狙おうとする」


妖精も神もいれば、さらに亡霊までいるのかと空木は眩暈を覚えたが、もうあまり驚きはしなかった。


「弔いに来る方々は……この回廊を通るのですか?」

「修行中の若いドルイドを同行させるのだ。まじないをさせて悪霊を退ける」


最低限の忠告はしてくれるが、ほとんど空木の存在は無視されていた。

殺すつもりはないが、守るつもりもないらしい。


白金の蛇として、ある程度は戦えるだろうという認識なのかもしれない。


鍵守のいない道のりの不安さが徐々に心をむしばみ、カイとシオル、そして妖精たちが空木にどれだけ快適な旅を提供してくれていたかを思い知った。

ましてやこの二人は敵であり、安心できるはずもない。知らない内に彼らに助けられていたのが、離れた後で骨身に染みていた。


森賀はカイたちと歩いていた時に比べ、質問をぱたりと止めていた。

興味がないのか、それとも必要な情報だけ探りをいれていたのか。

今の彼には楽園の門にしか関心がないのかもしれない。


地底湖までは空木を気遣う様子もあったが、もう彼の眼中にはないと言ってもよかった。

ひたすらに獣の背に揺られながら、亡霊を見ないように気を紛らわそうと、空木はフィニステールの旅を顧みていた。


興味のまま旅が出来ていると思い込んでいたのに、それは全くの誤解だと気づいた。


妖精の仇を頼まれ、森賀の目的のためでに利用され、自分が行きたいと思いつつ、カイたちを手伝っていたのだから。彼らに義理立てする必要はないのだ。蛇が勝手についているのだから、こんなものは知らないと学院へ戻ってしまえばいい。


だがカイとシオルは断られたから鍵守をやめるなど、役目を簡単に捨てることはできない。

彼らに対して、空木は責任のようなものを感じ始めていた。


ティル=オールの住民として命がかかっているのだから。空木は白銀の蛇として、鍵守に責任のようなものを感じ始めていた。

この責任を捨てるつもりはないが、心の赴く方へ自由に動きたいという思いが募り始めているのも感じていた。



「空木を追う」


カイは剣を鞘に納め、今にも追いかけて行きそうなところを止められ、耐え難い沈痛な面持ちで遺跡の奥を見つめていた。


シオルの矢筒に矢は少なく、それを見たメロウが彼らに短剣や小型ナイフを与えてくれた。

相手は黒金の蛇とあの獣を操る森賀だ。備えをして挑まなければならない。


「ごめん! あいつは敵じゃないと思って油断してた……」


装備を仕込む手を止めずにシオルは悔しそうに顔を歪めた。


「それは俺も同じだ。空木の知り合いだと、気を許していた」


「間に合うかな、もう殺されてたらーー」


皮の腰帯に差しながら、シオルは後悔の念に苛まれていた。

空木の守りを頼まれながら、むしろ彼女に助けられてしまったことに。


「黒金の蛇がいるんだ、白金の蛇を殺すとは思えない。まだ希望を捨てるな」


獣の姿はすでになく、空木を追おうとしたカイを牽制し、遺跡の奥へと消えていった。


「転生の泉、行くのか?」

「ああ」

「遺跡は迷宮。水路で行け」

「ずっと早く着ける」

「オレたちも手を貸す」


銛を担いだメロウたちが口々に頷き、カイに助けを申し出た。

だが彼らをこの地底湖の巣から離せば、また襲撃を受けないとも言えない。


「いいや、案内だけ頼みたい。この先には俺とシオルで行く……だが、もしも遺跡を戻ってきた人間の中に俺がいなければ、ここを通してはいけない。シオル、荷はここに捨てていけ」


マントを脱ぎ捨てるカイに、シオルは血相を抱えて飛び込もうとする彼の帯を掴んだ。


「カイ、泳いでいくのか!? メロウの水路だぞ、オレたちが通って行けるわけないって!」

「俺一人でも行く」


そう伝えれば、シオルは水面とカイの顔を交互に見て、そして諦めた。


「ーーくそっ、途中で息継ぎさせてくれよ!」


荷を捨て、地底湖に飛び降りた。続いたメロウがすぐに彼らを追い抜き、先導を務めてくれる。

男のメロウである二人はチボーとギヨームと名乗った。

特に戦いに慣れた戦士であり助けになると、住処の守りから人数を割いてくれたのだ。


鍾乳洞の水は冷たく、服に染みて身を重くした。

冬の海ほどではないが、油断すれば飲み込まれてしまうだろう。


体の熱を奪われないよう大きな動きで、しかしできるだけ体力を残せるような泳ぎに集中した。

建ち並ぶ住処を通り過ぎ、魚たちの間を縫って泳いでいく。メロウの住処は貝殻と海藻で彩られ、女のメロウが飾りつけている姿が見えた。


澄んだ水中に飛び込んでもなお地底湖は底が見えず、青の中を縦に伸びるアーチ群は空を飛んでいるのではないかと錯覚させた。力を抜けば水面へ浮いていく体のみが、自身がどこにいるのかを知らしめてくれる。


メロウの住処を通り過ぎ、気づけば洞窟の岩肌が水中へ食い込む水路へ来ていた。まだ息には余裕がある。泳いでいるだけではなく流れに乗っているのだろう。先導するメロウは的確に水流を掴み、泉へと向かっていた。


今にして思えば、メロウたちに武器を持たせおびき寄せたのも、彼女を攫い、遺跡を無事通過するための陽動だったのだ。


カイにとっては誤算だった。つい染みついた習慣から、守るべき蛇の傍を離れてしまった。離れていても蛇自身が戦えるという思い込みによって、空木を連れ去られた。


セイラスは強かった。一人でも巨体の怪物を倒し、不死ゆえに老いによる体力の変化もなく、常に人を守り前に立っていた。


カイの騎士としての戦い方は彼女から学んだと言ってもいい。

十八の歳でセイラスの鍵守になり、その後の九年を共にした。


一方で、空木はろくに喧嘩も知らない、守られ育てられた貴族の子どものようだった。護衛の対象が変わったのだから、カイは彼女に合わせて行動を変えるべきだったのだ。体に根づいた戦い方に身を任せるのではなく。だが戦わずに勝つ方法が、カイには思いつかなかった。


とにかく戦いに勝利すれば守りきれるという考えに支配されていた。


この水路を抜け、辿り着いた先にいる敵は一筋縄ではいかない。

カイよりも熟達した戦士と戦うならば、考え方を変えなければいけないのだ。


自分が守っている少女はセイラスではない。

どれだけ似ていても、カイがセイラスのように扱おうと、別人なのだ。こうして痛いほどに結果が事実を突きつけていた。


あの無限に立ち上がる獣と、黒金の蛇、彼らは難敵だ。

彼らに奇襲を仕掛けられそうではあったが、どう戦うべきかが思いつかない。


泳ぎに体が慣れ、思考に集中しているカイの肩を背後のメロウが掴み、浮上させた。


「ぷはっーーはぁ……だいぶ進んだんじゃないか?」


水路の岸に座りながら呼吸を整え、体を休ませる。

身軽な格好で泳いでいたとはいえ、冷たい水の中で泳ぎ続けるのは体力を使った。


「ここはどの辺りだ?」

「泉は遠い。まだ半ば」

「そうか……シオル、蛇を相手にどう戦うべきだろうな。俺たちは……」

「戦わない、逃げる」

「逃げる?」


シオルは驚くほどあっさりと答えた。


「こっそり背後から忍び寄って、空木がいたらこの水路に引っ張っるしかないんじゃない?」

「空木を助けるならば、そうだろうな。だが黒金の蛇は野放しになる。森賀刑理もな」

「だよなあ……じゃあ空木だけでも連れて行ってもらおうぜ。なあチボー、ギヨーム。白金の蛇だけでいいんだ、連れて逃げてくれるか?」

「蛇と逃げる、わかった」

「鍵守はどうする?」

「オレらは戦うよ。だろ、カイ?」

「……ああ」

「遺跡までくれば、オレたちの仲間、一緒に戦う」

「そうか、撤退しながら戦うという手もあるな」


カイが悩めば、シオルは違う手を考えてくれる。妖精も手を貸してくれる。

空木だけならどうにか守り抜けるのではないかと、光が見え始めた。


「さあ、進もう。彼らは門の前で止まるだろうが、引き返されてはすれ違いになる」


再び水中に身を沈め、先ほどより力強く泳ぎ始めた。



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