8話

湧水を沸かした湯で拭った体は温まり、空木は寝台で微睡んでいた。


しかし眠りの縁にいた意識は、喧噪によって覚醒した。鍾乳洞を走る音に混じり、金属がぶつかる音が聞こえる。


戦っているのだ、この遺跡で。

空木は寝台から飛び降り寝室を出ると、彼らはもう防具をつけ武器を手にしていた。


「獣が来たのですか?」

「メロウが武器を持って走って行ってる、間違いないよ」

「だがこの横穴に入るには道が一つしかない。俺はメロウの加勢にいく。シオル、ここで空木を守れ」

「いや、でも――」

「待ってください、カイ……!」


横穴を飛びだしたカイはメロウに混じり、元来た通路の方角へと消えてしまった。


「一人で平気なのですか?」

「うん……まあ、乱戦だと守りづらくなるから」


シオルは少し考えながら、横穴の宿を見渡した。


「窓を塞ぐには部屋数が多すぎますね……」


アーチの広がる壁は息苦しさを感じさせないが、守りには適していなかった。


「炉のある部屋に籠ろう、あそこなら扉もあるし。もしそれでも入られそうになったら、また壁を造れるか?」

「ええ、いざという時は。ひとまずバリケードを作りましょう」


調理室の窓に手分けをして箱や甕を並べていく。


部屋にあるだけの甕には全て汲んだ水を入れ、扉が開かないよう重しにした。

重い甕を何往復も運ぶのは体力を使ったが、これなら獣は入ってこれないだろう。


「カイが逃げてきたらすぐ開けられませんね……」

「ちょっと甕を減らして階段に置いておくか。メロウもいるしあいつが撤退するとは思えないけど……」


二階の寝室部分はほとんど壁がなくアーチになっている。

獣なら飛び越えて侵入してしまうかもしれない。


「そうだ、まだ先生が寝ているはずです。起こしてきますね」

「待って」


森賀の寝室へと階段を上ろうしたところで呼び止められた。


「シオル?」

「手短に済ませるから。あんたに、知っておいて欲しいんだ……カイのことで」


気の強い少年は、どこか迷うように言い淀んだ。

金の髪の下で浅瀬色の瞳が悲し気に揺れている。

彼なら大抵のことははっきりと口にするだろうに、呼び止めてなお悩んでいた。


シオルの前に戻り、努めて優しい声で尋ねた。


「カイが、どうしましたか?」

「……セイラスになろうとしてるんだ」

「それは、どういう意味です?」


空木は彼女を知らない。

夢で見たあの城でのことしか。自身とは真逆の性質なのだろうという予測はついたが、シオルの言わんとすることは掴めなかった。


「セイラスは不死だったから、自分から前線に出て平気な顔してた。カイもそうなろうとしてる」

「たしかに戦いとなると、彼が前に出てくれているのはわかります。セイラスさんの役割を受け継ぐ、という意味ですか?」

「受け継ぐどころじゃない、そのままなんだ……死ねなくなったんだよ。人なのに、あいつはセイラスが死んでから年をとってないんだ!」

「死ねないなんて……」


人間ならあるはずがない。そう考えながら、空木は夢の記憶を反芻した。


カイの姿は、彼女が死んだという十五年以上も前から変わっていないのではないか。

当時の姿が二十代ほどだ、今の彼はいくつなのだろう。

三十代か、下手をすると四十になっていてもおかしくはない。だがとてもそうは見えなかった。


「まさか、そんな……」

「オレだって最初はそんなこと思ってなかった、気づいたのは少し前だよ。カイより若かった奴が、年上みたいになってたんだ。おかしいだろ? オレたち森の一族より、人はずっと老いるのが早いはずなのに、全然変わらないんだ……だから、セイラス何かしたんだと思う。どういう方法かわからないけど、それであいつは自害したんだ……じゃないと、不死が死ぬわけがない」


セイラスはなんと言っていたか。

彼女は死の間際「あなたが死ぬのは耐えられない」そう遺していた。


「……不死だって言われたことはないよ。でも死なないからって、なんでも無茶するんだよ、カイは。食事だって雑になったし、それに前はあんな戦い方しなかった……一人で走って行くなんて、なかった。だから、オレが言えないけど……カイに無茶させないようにしたいんだ」

「不死のことは、正直、よくわかりません。でも、カイに無茶をさせたくないという気持ちはわかります」


泣きだしそうなシオルの髪に触れ撫でれば、少年は気持ちを落ち着けるように瞳を閉じた。


「なんだい? えらく騒がしいけど……あれ、深刻な話してたかな」


甕を積む手を止め向かい合っていると、森賀がそろそろと寝室から降りてきた。


「あんたずっと寝てたのか……? 敵襲だよ」

「先生、階段を塞ごうとしていたのです。手伝ってください」

「ええ、またあの狼みたいなやつかい?」


三人であるだけの箱や甕を動かし、階段を封鎖する。

シオルはまだ話したそうにしていたが、森賀がいては障りがあるようだった。


「おや、あの大きい彼はどうしたの」

「カイは戦いに行きました……一人で」

「あの遺跡を通ってきたのかな。どこに出たんだい?」


森賀は扉や窓に置いた甕を見て驚いている。


「さあな、聞いてる暇もなかったから。でもあんな狭い所じゃ不利に決まってる。たぶん地底湖で迎え撃ってるよ」


「もし黒金の蛇が来ていたらどうしましょう……私たちも加勢に行くべきでは?」

「あいつと蛇になりたてのあんたじゃ勝負にならないよ、くぐり抜けてきた場数が比べ物にならない。覚られないように身を隠してるしかないって……なあ、蛇は使えそうか? 外じゃ案外、上手く使えてたみたいだけど」


責めるような口調ではなかった。至極当然という風に、シオルは空木が戦力になるか尋ねたのだ。足手まといにはなりたくないが、結局のところ武器を携えて戦えるほどの勇気も、蛇への信頼も持ててはいなかった。


「やってはみますが……咄嗟の状況で操れる自信がありません。少し練習してみます」

「じゃあ、手始めに扉を壊してもらおうかな」


森賀の言葉の意味を解しかねて、後ろを振り向く。

部屋に獣が、四つ足で立っていた。


ナイフを即座に抜いたシオルだったが、獣の動きは速く、地面に組み敷かれた。


空木が蛇を使うべく腕をかざす。

しかしその両肩を強く掴まれた。


「彼を噛み殺されたくなければ大人しくするんだよ、古梁川さん」

「森賀、先生……?」


森賀は場に似つかわしくない笑みを浮かべた。


「いやあ、なんだか悪役みたいな台詞だ。でも冗談じゃないから、動いちゃいけないよ」

「何を、言っているのですか……先生」


触れられている肩に寒気が走る。彼は本当に空木の知る森賀なのか。


「だって彼らはずっと離れないし、学院に戻ろうとしてもついて来ようとするからね。全く面倒だけど強硬手段をとるしかないんだ」


空木の背に立つ森賀を肩越しに睨む。獣は今にもシオルの首を食いちぎりそうだった。


「シオルを傷つけないでください」

「逃げろ、空木! 走ってカイのとこに行け!」


入口の扉に目を向けるが、先ほど重い甕を置いたばかりで、とても逃げ出せるような状況ではなかった。


「その獣は先生が操っていたのですね……どするつもりですか、私たちを。人質にでもしますか?」

「うん、物分かりがよくて助かるよ。古梁川さんが大人しく僕と来てくれるなら、彼は殺さないよ」


森賀の口から殺すなどと、聞きたくはなかった。

選択肢などなく、シオルを助けるためには彼の要求を呑むしかない。


「……従いましょう」

「ダメだ、行くなって!」

「シオルはじっとしていてください。お願いです」


部屋にさらに二匹の獣が、どこからともなく現れた。


甕や箱の立てかけられた扉に何度も体当たりし、壊して横穴へと飛びだした。

地面に倒れた甕が割れ派手な音を立てるが、洞窟の喧騒に紛れ、カイには届いていないだろう。


「さあ、行こうか」


ひとまわり大きな獣の背に跨る森賀に、手荒く制服の襟を掴まれ引っ張り上げられた。

すぐに獣は走り出し、横穴を抜ける。


「――空木?」


一瞬、剣を構えるメロウたちの中にカイが見えた。

彼らは数匹の獣と、そして黒金の蛇と戦っているようだった。


「カイ!」


彼の剣が獣を薙ぎ、追って走ってくるのが見える。

しかし増える獣がカイの行く手を阻んだ。


「空木、必ず助ける――!」


すぐにカイの姿は遠ざかり、消えてしまった。


獣は遺跡を出口ではなく、奥の方向へと走っている。

灰の匂いがする獣の背に揺られながら、空木は悔しさに唇を噛みしめた。


空木を連れて行くにはシオルさえ抑えておけばいいと思われたことに。

今まで正面から襲撃をしてこなかったのは、カイがいたからだ。剣で獣を倒してみせた彼に脅威を感じていたのだろう。行く先々で獣に襲われていたのは偶然ではなく、不意打ちとして森賀が仕掛けたのだ。空木は彼に、取るに足らない戦力だと計られた。足手まといになりたくないと思っていたのに、こうして連れて行かれる自分に激しい憤りを感じていた。


彼に裏切られていた事実よりも、自身への怒りが勝っていた。そのことが辛うじて平静さを装わせてくれた。森賀の事情は謎だが、おそらく異界に連れてこられたのも空木を利用できると思ったからだろう。

疾走する獣の背でひどい揺れを耐えながら、彼の目論見を考えることにした。


獣は二人の重さを物ともせず、坂の道を地中深くへと進んでいく。

ろくに前も見えない闇の中、何度も行き止まりの道を引き返していた。


地底湖の前をうねっていた通路は、奥へ進めばさらに複雑に繋がっている。花びらを辿らないのかと空木は心の中で考えていたが、この闇の中では人間にはあの淡い色は見えず、またこの獣たちには嗅覚がないのか、匂いを辿ることはしなかった。


道を迷いながらも、命のない獣たちの足は速く、そして疲れ知らずだった。

うんざりするほど続く石の遺跡がようやく終わり、天井の高い、神殿の回廊のような佇まいが現れた。


体感ではひどく長い時間に感じたが、どれだけの距離を走ったのだろうか。


「おい、いい加減休憩させろ」


合流したベルティネは皺の刻まれた額に汗が浮かび、息を荒げている。空木としても獣の背から降りるのは賛成だった。騎乗用の道具もなしに、何時間も走る獣にしがみついて腕が限界を迎えていた。


「私は戦っていたんだ、騎乗するのも体力を使うんだぞ」

「いいですよ。さすがに引き離したでしょう、まあ追ってきていればの話ですが」

「絶対に追ってくる。蛇を守れない鍵守は、裁かれずとも一族に殺されるからな」

「殺される……?」


痺れる腕をさすりながら、カイとシオルがどうしているかと来た道を振り返れば、森賀が制するように肩を強く掴んだ。


「逃がさないよ。古梁川さんが四足獣より足が速いなんてことはないだろうしね」


後ろから追いついた黒金の蛇がやってきた。


「お前はセイラスの転生者だったか。よく似ている……本当に彼女は死んだのだな」


彼女はじっと空木の顔を見つめ、苦々しい表情を浮かべた。


「教えてください、鍵守が殺されるとはどういうことですか?」

「騎士の替えなど掃いて捨てるほどいる。その幼い頭で考えてみろ、蛇が異界の者に使われれば、この国は脅かされる。守るべき対象をろくに護衛できない騎士など、ドルイドに裁かれて殺されるか、そうなる前に一族から暗殺されるだろうよ」


彼女の言葉は重みがあった。常識も文化もまるで違う。彼らには彼らの法があり、それに則って生きているのだ。ならばせめて、空木を守ろうとしてくれた二人のために、白金の蛇を渡さないよう戦うしかない。勝てる見込みがなくとも。


「血痕が飛び散っていた場所を見ました。あなたはご自分の仲間である鍵守を、その程度の存在と考えておられたのですか?」


黒金の蛇が動き、ベルティネの腕に絡んだ。激しい形相に怯みそうになるが、空木は臆さずに黒い瞳を見詰めた。


彼女はじっと睨みながらも、何かを躊躇うように瞳を反らし、離れた壁へ腰を下ろした。

ここで息をつくわけにはいかない。まだ問い質すべき問題は残っているのだから。


「どうしてイヴァン・ベァナを殺したです」


空木は許せなかった。非のない、あの妖精たちが襲われたことが。イヴァン・ベァナは何故、死ななければならなかったのか。その理由を知りたかった。


「イヴァン・ベァナ……? 誰だい、それは」

「樹洞で死んだ妖精です!」

「名前があったんだ」


壁にもたれているベルティネは無視するつもりだったのだろうが、空木が視線を逸らさず答えを待っていると、ぽつりと答えた。


「妖精は魔法を使う。殺らなければこちらが殺されていたところだ」


もし抵抗されていたら、彼女たちを全員殺すつもりだったのか。彼女が言っているのは加害者の言い訳にすぎない。


「殺させるつもりは特になかったんだけどね。彼女も自分の身を守るためだったんじゃないかな? 僕は伸びてるフリをしてたから知らないけど」


彼の表情にも、声にも、後悔の色は窺えなかった。

にわかには信じ難いが、彼が二人に対してとっていた、あの冷たいとも言える態度も今なら頷けた。


「先生は、黒金の蛇の仲間なのですか?」

「仲間なものか!」


ベルティネは吐き捨てるように叫ぶ。


「はは、だそうだよ。妖精を殺したのは僕を惑わせ往く手を阻んだから、という理由もあるけどね……本当はあの丘で、何事もなければ君を連れて行くつもりだったんだ。でも鍵守の二人は抵抗した。君も理由をつけて離れようとしなかったしね。だからせめて、引き離そうと思って機会をうかがっていたというわけだね」

「もっと穏便な手段があったでしょう。少なくとも、妖精を殺さなければ……私は先生について行きました!」

「そうかい? それなら君の信用を見誤ってたなあ……じゃあ休憩ついでだ、僕の理由を教えてあげよう。どの道、進めばわかることだからね」


こともなげにそういう彼は、空木に座るよう促して自らも腰を下ろし、語り出した。


「僕には病気の妹がいたと言ったね。妹を救える医者を、方法を探して世界中を旅した……行動も虚しく妹は死んでしまったけれどね」


森賀は古びたペンダントを握りしめる。


「これにはね、妹の遺灰が入ってるんだよ……体はもうないけど、一部だけでもどうにか運びたかったんだ」


彼はずっと、この旅の間に妹を連れて歩いていたのだ。

急に空木はこの場にもう一人の人間がいるような気がして寒気を覚えた。


「彼女たちとは海外で会ってね。僕らが通った学院の門があるだろう? あの門は世界中にあるらしいんだ、いくつもね。僕はその一つから出てくる彼女らを見かけて、出会ったんだ……」

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