6話
死ぬ思いをしたというのに、空木の心は苛烈な刺激に興奮を覚えている。
長年にわたり灰をかぶってきた好奇心の炎が、種火として小さく燃え始めていた。
「あの獣も妖精なのかい? どうして襲ってくるんだろうね?」
「いいや、妖精ではないだろう。少なくとも俺たちを襲った獣には生きている様子はなかった。本体か、群れの頭は別にいるんだ」
遺跡の狭苦しい通路を抜けた先にある石室に着き、一行は休憩をとっていた。
獣が追ってきている様子はないが、執念深さがあれば湖を泳げば匂いを辿ってくるかもしれない。
イシュカ遺跡は迷宮のように入り組んでいた。
自然にできた洞窟ではなく、柱となる巨石と細長い石を積み上げて作られた遺跡だ。石は雲母のように幾重にも積まれ、壁を、天井を構成している。
入口からだいぶ離れたが遺跡内は薄明かりで照らされている。
天井付近から外光を取り入れる石の隙間があるのだ。
「まだ歩けそうか、空木」
言葉少なに気遣ってくれるカイに微笑みが漏れる。
「大丈夫です。初日の森が一番大変でしたから」
「その黒い靴は丈夫そうだが、歩くには向いていないようだ」
制服に合わせてはいている革靴は足の擦れがひどく、冬用の靴下も履いていても庇いながら歩く様だった。
「後で足を冷やそう。湧水が流れる水路が先にあったはずだ」
「ええ、冷やせば明日もきっと歩けると思います」
一見するとわからないが、カイはつぶさに周囲を観察していた。
獣の襲撃も彼が最初に気づき、戦ってくれた。こうして周りに目を向けることで騎士として生き残ってきたのだろうか。
「林檎をもいでおけばよかった」
拗ねたような表情でシオルは呟く。
「浜辺に行く途中でたくさん実がなっていましたね」
「ああ、食べたくなってきちゃったよ……あの林檎は誰かが世話してるのかな。立派な大きさだったけど」
森賀も林檎を思い出したようで腹をさすった。
「いいや、ティル=オールの林檎は何もせずともああやって育つ……もし林檎を持って行こうとしていたら妖精が出てきていただろうな」
「そうだよ、そう思ってやらなかったんだよ。ああいうのは勝手にとったら怒られるんだ。ちゃんと許可を得なくちゃ何されるかわからない、わかってるよ」
溜息をついてシオルは引き寄せた膝の上に項垂れた。
「あまり休んでもいられないな。もう日が暮れてもおかしくないから、夜になったらこの洞窟じゃ身動きがとれなくなる」
「とにかくメロウの住処に行こう。彼らなら戦いに手を貸してくれる」
「メロウは戦いが得意なのですか?」
「遺跡の守護者として住み着いているからな。怪しい者が通れば彼らが退けてくれる」
休憩はすぐに切り上げられ、一人通るのがやっとな遺跡の通路を進む。
背の高いカイは頭をぶつけないように屈んで歩いていた。
「いやあ、予想外に大変な旅路だね」
「先生も以前来た時には、危ない旅を?」
「まさか! 僕が訪れた時は獣も妖精も出くわさなかったし、極めて平和的だったよ。シャルトール島で現地の人と交流したくらいかな。もちろんスムーズな旅とはいかなかったよ。船がいつ来るかはわからないから、テントで野宿をしたりね」
休憩中にこっそりと見せてくれたリュックには、テントや水や食料が数日暮らせるだけ入っていた。
「前に来た時は冬休みだったかな。休日なら喜んで古梁川さんを案内するんだけど、平日を選んで失敗したよ。ほんの少し散歩するつもりだったから」
振り向きながら喋る森賀は低い天井に頭をぶつけ、痛そうにさすっている。
「しかしこんなに迷路みたいだと迷ってしまうね。道はわかるのかい?」
細い迷宮はいくつもの通路が伸び、合流してはまた分岐していた。休憩に使えるような石室のような場所にも出るが、ほとんど横に並んで歩くのも難しい幅だった。
「弔いの列が通った道には跡が残っている」
たしかに通路の足元を見れば、枯れて乾いた花びらとまだ水分の残る白い花びらが散っている。
「花びらの落ちている通路が正しい道なのですね。これはわざと残しているのかしら」
「次に通る奴が迷わないようにしてるんだ。喉渇いたな……川で水も汲めなかったし」
空になってしまった皮の水筒を振ってシオルは溜息をつく。
「進めばいくらでも水はある。もう少しの辛抱だ」
空木も喉は乾いていたし、昼食も黒馬にあげてしまったから食べそこなっていた。
森賀のリュックにある非常食はねだればもらえるだろうが、まだ我慢ができる状況でそれをやるのは躊躇われた。全員が朝から何も口にしていなかったが、これまで誰も弱音を吐いていなかったのだ。
しかし非常食があるのなら二人に見せてもいいところを、空木にだけ知らせたというのは気にかかった。
どうも森賀は二人に対し、まだ気を許していないようなのだ。不和を生むような言動はしていないが、どことなく壁を作っているような雰囲気がある。だがこのくらいの警戒心がなければ旅をしてまわるなど難しいのかもしれない。
シオルはささやかな愚痴を吐いたが、カイは辛抱強く空腹にも耐え、獣の襲撃にも動揺を見せなかった。彼の忍耐強さはどこからくるのか。過去の旅に比べれば、この状況は彼にとって過酷ではないのだろうか。
旅の仲間を観察していると、森賀がそういえばと声をあげた。
「ここまで来てから聞くのもどうかと思うんだけどね、山の遺跡にメロウが住んでいるのかい?」
メロウは水に住む妖精だ。山を奥へと進んでいたら住処から遠のくのではないか。まだ海か、橋のある湖に住んでいるほうがそれらしい。
「遺跡の水路と海が繋がってるんだよ。だから迷わずに進めば会えるはずなんだ」
列の後ろを歩くシオルも、空木に比べればではあるが平気そうな顔をしている。彼の場合は小柄で柱に体が擦れていないからだろう。空木の先を歩く森賀は後ろからでもうんざりした様子が伝わってくる。
かなりの時間、遺跡の中を歩いているはずだったが、通路は曲がりくねり進んでいるのか戻っているのか不確かな道ばかりだ。
「少しだけ、不安になってきました……」
平たい石の通路は木の根や土の盛り上がりがない分、歩きやすく足への負担は大きくはない。
だが精神的な試練を課されているような気分になるこの遺跡を、本当に人々は弔いのためとはいえ亡骸を運んで歩くいたのだろうか。時折いくらか幅のある通路と合流するが、それもまた何度か曲がれば細い通路へと交互に繰り返されていく。
フィニステールの道は来る者を試し、拒んでいる気がしてならなかった。水鏡の仕掛けも、空木のように何も知らなければ橋へは進めなかっただろう。
「道は長いが、着実に進んではいる」
先頭を歩くカイの言葉を信じ、空木はひたすらメロウに会える喜びを考えて足を進ませた。
次第に天井から入る光量が減り、薄暗闇になりつつある洞窟内を急ぎ足で進む。
光源がなければ花びらも見えない。闇の中を不用意に歩けばすぐさま迷うだろう。どこへも行けずに圧迫感のひどい通路で一晩を過ごすのは耐えられそうになかった。
みるみる明かりは薄れていくが、代わりに水音が聞こえた。
「さざなみの音が聞こえませんか?」
「ああ。着いたんだ、メロウの住処に」
遺跡の石室を抜けた先に、鍾乳洞があった。岩肌や天井には繋がりそうなほど垂れた鍾乳石が伸び、冷えた空気が岩壁を流れてくる。鍾乳洞には道になる岩場と、奥へと伸びる地底湖が満ちていた。
壁からは水滴が落ち、広い天井から開いた穴から湧水が流れている。
「これは飲める水かな?」
「山の湧水だから平気だよ」
空の水筒に彼らはこれ幸いと水を汲み始めた。
「洞窟なのに明るいですね。どこかに照明の火でもあるのでしょうか」
反射する青い光が洞内を照らし、陽光も入らず灯火もないというのに湖は薄く輝いている。
「地底湖をのぞいてみるといい」
促され、すぐ真下で湖面を揺らす地底湖を見下ろすと、無数の小さな明かりが不規則に動いているのが見えた。
魚が発光しているのだ。提灯のような灯りをいくつも吊るした魚や、傘の中に光を包み浮遊しているクラゲのような多足の生物が水の中を照らすように泳ぎ回っている。
地底湖に深く下りる洞窟の壁面は、窓のようなアーチが彫られ、逆さのビルのように奥底へ連なっている。さながら水中都市だ。そのアーチの間を、白い女の背中が見えた。女は水に浸かった長い緑の髪をたゆたわせながらゆっくりと泳いでいる。
「人魚、だわ……」
その半身は魚だった。
童話に描かれる人魚そのものの姿をしている。
空木にも魚の半身があれば、彼女のような自由さで水の中を泳げただろうが、人の身では行って帰って来られるような広さではなかった。
女のメロウが湖面へと上半身を捻り、こちらを見たのもつかの間、近くのアーチへとすぐに身を隠した。
「驚かせてしまったでしょうか」
「いや、仲間に知らせているんだ」
するとすぐに別のメロウが地底湖から飛びだした。
彼らは魚類というよりも、一見すると青や緑の鱗をしたトカゲのようで、頭には鋭いヒレが伸び、指と足先には水かきが張っている。人間の部位がなく、魚人といった風体だった。
手には銛を構え、ガラスのような目で敵意を向けている。
銛を構えたメロウは続々と増え、空木たちを取り囲んだ。
手に灯篭のような貝のランプシェードを持つ者も数名いた。ランプは地底湖の青白い光りに似た明かりが灯っている。貝殻の中に水と魚を入れて泳がせているようだった。
「メロウは人が通ろうとするといつもこうなのです?」
「男のメロウはこの洞窟を守っているからな」
「弔いの列は楽器を鳴らして歩いてるから気づいて通してくれるけど……カイ、知り合いはいないのかよ!?」
「俺たちは白金の蛇とその鍵守だ。一度ここには来たことがある、覚えていないか?」
カイの視線に頷きながら空木は腕を挙げて蛇を示してみせる。
雄のメロウたちは顔を見合わせ、銛をおろしてくれた。
「カイだ。鍵守のカイ」
「新しい白金の蛇。誰か死んだか?」
トカゲの姿から発される人の言葉にどきりとするが、空木は負けずに声を張った。
「丘の人が黒金の蛇と獣に襲われて亡くなったのです。あなた方も襲われる可能性があると、知らせに来ました」
ざわりとメロウたちに動揺が走る。イヴァン・ベァナの死は彼らにとっても衝撃だったらしい。
「ここに来る途中でオレたちも襲撃されたから、あんたらを襲うつもりなら数日の内だと思うよ」
クランの丘での経緯を聞かせれば、敵襲に注意すると頷き、数人を残してメロウたちは地底湖へ戻った。
「黒金の蛇、裏切り?」
「まだわからないが、再び獣が現れるかもしれない。君たちも身を守ってくれ」
地底湖の岸には成り行きを見守っていた女のメロウたちが集まっている。いずれも美しく上半身は人間と変わらないが、喋らずにこちらを観察していた。彼女たちは人の言葉を話さないのだろうか。
「宿ある。泊まっていくといい」
「あなたたちの宿に、ですか? いえその、ありがたいのですが、水中では……」
「人間用だ。弔いに通る人間が使う部屋がいくつか洞窟内にある」
少しだけ微笑みながらカイが教えてくれた。
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