3話
妖精に連れられ、空木は川辺に湧く温泉へやって来た。
柱で囲われた浴場には天井がない代わりに、夜空は壁で四角に切り取られ、輝く星々がよく見えた。
「まさか異界で露天風呂に入れるなんて」
湯気の上がる水面に指先を付ければ、体を温めるに十分な温度の湯が浴場に満ちていた。
柱の隙間から浴場が見えてしまうのだけが難点だ。空木は周囲をうかがいながら制服のタイをほどいたが、野外で裸になるのは躊躇いがあった。
「誰も見ていやしないから、湯船に浸かりなさいな」
イヴァン・ベァナに促され、制服を脱いで薄緑の温泉にそっと身を沈めれば、日中に歩き詰めた体の疲れがほぐれるようだった。
「たまに他所の子とも会うのよ? ここはみんなのお風呂なの」
他所の子というのはつまり彼女たち以外の妖精のことだろう。ここは妖精が使う極上の風呂なのだ。ファナ・ベァナとイヴァン・ベァナは翅を沈めないよう、腰先まで浸かり湯船を歩いている。
「このお風呂はあなた方で造ったのですか?」
「ううん、違うわ」
「ティル=オールにはこういう古い建物が遺ってるのよ。うんと昔のものなの」
湯の縁に建てられた石柱はよく見れば湯で変色している。
それは妖精たちを長い間ひっそりとここで受け入れてきた佇まいだ。
湖の畔に建っていた水鏡の建物といい、どこか古い時代の、それも古代神殿のような彫りの造形が見受けられた。これらの古い建物は遺跡として活用しながら保存されているのかもしれない。
「いつもこのお風呂を使えるなんて、羨ましいです」
時間を気にせずに浸かれる湯船は、空木の人生にない贅沢だった。
寮にも浴場はあったが、入浴時間が決められ寮生の女子たちが慌ただしく入れ替わる風呂に心からの休息はない。結局、空木は静かな入浴を求めて自室の狭いシャワールームを使っていた。
肩まで湯につかり、ぼんやりと自らの日常との差異を考えつつ星を見上げていた空木は、そこにないものに気づいた。
「星は綺麗ですけれど、月は見えませんね……隠れているだけでしょうか」
「月はないわよ」
「太陽もないわね」
「月も太陽もない……?」
そんなまさかと思い返すも、あの麦の平原を歩いている時でさえ眩しい太陽の光がなかったと気がついた。
「太陽が消えたのは昔の話だけど、月がなくなったのはほんの少し前のことよ」
「空木はティル=オールのこと、何も知らないのね?」
ファナ・ベァナは興味深げに空木を見るが、イヴァン・ベァナは優しくたしなめてくれる。
「異界から来たんだもの、知らないのも無理ないわ。教えてあげましょう、この世界の成り立ちを」
空木の隣に腰かけたファナ・ベァナは、歌うように語り始めた。
「ティル=オールは遠い昔、神々の戦があったの。人々に生贄を求める天の神は血を求めるあまりに、地上の人々を殺しすぎ、他の神々を怒らせたのよ。天の神は太陽を支配していたから、沈んだ陽を我が物とし、島々をその炎で焼き尽くしてしまったわ。焼かれた島は海の底に沈んでしまい、ティル=オールは半分ほどの大きさになってしまったわ。奪われた陽も二度と昇らなくなり、夜が世界を覆ったの。人と妖精は嘆き、見かねた神々は太陽の消えたティル=オールに光を与え、昼をもたらした。楽園の神々は罰として天の神を冥府に閉じ込めようとしたけど、彼は封じられる前に地上の魔法を奪い去り、冥府へ逃げていったわ。神々は二度と大きな戦を起こさないよう、厳重に冥府を閉じ、神族と英雄たちを連れて楽園へと去られたの。それから長く、ティル=オールからは太陽も魔法も失われたままよ」
神話とも歴史ともつかない話だが、妖精にこれだけ出会い交流したのだから、おそらく神々もいるのだろう。
湯でくつろいだ空木は異界の住人の話を聞けるだけ、いくらか柔軟な思考になっていた。
楽園と呼ばれる場所に興味はあったが、彼女らの深い信仰と聖域を汚してはいけないと察して追究は控えた。もし興味のままに、無遠慮に楽園へ踏み入れば、二人の信頼はすぐさま失われるだろう。
「だから夕陽も、赤い夕焼けもなかったのですね」
「なくなっちゃったのよ。夜には黒い夜空の布が降りてくるだけなのよ」
「詩的な表現ですね」
「ねえ、空木はいつまでフィニステールにいるの? それともシャルトールに行くのかしら」
「いつまで……そうですね、先生とも会えましたから、明日にでも帰ると思います」
「もっといたらいいじゃない。寝床ならいくらでも使っていいのよ」
イヴァン・ベァナが微笑みかけてくれる。
空木もその好意を受け取りたかったが、彼女たちとは生きる世界が違うのだ。
「……そろそろあがりましょうか。彼らも湯船を使いたいでしょうし」
濡れた肌を布で拭い、妖精に借りたローブに身を包んで丘への道を戻る。
熱く火照った肌をくすぐる夜風が気持ちよく、空木はしばらく感じていなかった心の穏やかさに身を任せていた。
◇
空木は干し草のベッドを借りてすぐに眠ってしまい、気がついた時には傍で眠っていたファナ・ベァナに肩を揺すられていた。
「起きて、起きてちょうだい!」
身を起こせば、樹洞の寝床で同じように眠っていた他の妖精も困惑したように顔を見合わせている。
「ファナ・ベァナ、何かあったのですか?」
「大変なの、霧が消えたのよ! あたしたちを守ってくれる霧がないの!」
階下から騒ぎを聞きつけてカイとシオル、森賀が上がってきた。
「霧の幻が消えているようだが、何があった?」
「こんなこと初めてよ! きっと門を閉めに行った子に何かあったんだわ……霧はみんなで作っているから、誰かが欠けると消えちゃうのよ!」
「カイ、急いで門に行こう。獣に襲われてるのかもしれないよ」
「何か入ってきた……丘に入ってきたわ!」
一斉に窓の外を見れば、暗闇の中を走る無数の獣が森を抜け、丘へ走ってきている。
「俺たちが外で迎え撃つ、君たちはこの樹洞を守れ」
「待って、外に出るつもりですか。二人も中にいてください。無謀です!」
一匹が相手ならともかく、群れの獣を相手にするなど自殺行為だ。猟銃があるならまだしも、見たところ彼は剣しか持っていない。
「問題ない」
どう問題がないのか空木が問う暇もなく、剣を抜きカイは丘へ飛びだしていった。
「オレたちは平気だから。あんたらは窓と扉をふさいで、入ってこないようにして!」
シオルは窓の鎧戸を閉めながら指示をすると、弓を背負ってカイを追って行った。
「先生、ドアを塞ぎましょう。それから何か、身を守るものを……!」
「ああ、そうだね。テーブルを動かすよ、みんな手伝ってくれるかい?」
妖精の手を借り、丸太のテーブルを転がしてドアの前に立てかけた。
窓も全て閉め、室内は揺らぐランプの灯りで照らされている。
「古梁川さんは彼女たちと一緒に上の階にいるんだ。僕は扉の前で見張ってるから。外に出て行った彼らが戻ってくるかもしれないし、あの狼みたいなのがドアを破る可能性もあるからね」
「は、はい。先生!」
灰のかきだし棒を構えた森賀はひどく頼りなく見える。
心配ではあるが、重たいテーブルがドアを守っているのだから大丈夫だろう。空木は上階の寝床へと階段を上り扉を閉め、妖精たちと干し草に座り込んだ。
「怖いわ、恐ろしいわ」
「獣はあたしたちを狙っていたのね!」
「カイさんに頼んでいた森の獣って、このことだったのですか?」
震える妖精の肩を頭を撫でながら聞けば、口々にそうよと肯定する。
鎧戸を少し開けて地上の様子をうかがうと、カイは獣に銀の刃を浴びせていた。彼らに向かって走る獣の群れに踏み込もうとはせず、大木の家に寄ろうとする獣を排除している。
カイが取り囲まれそうになれば、シオルが矢を放って牽制する。危なげない戦いだ。
空木が演者ではないかと疑っていた彼らは、真に戦士だったのだ。
「本当に騎士なのね……」
怪し気な人物だと思っていたが、命懸けで空木と妖精たちを守っている。彼らの人となりを、ようやく自分が誤解していたことに気づいた。
猛獣の牙にも負けずカイがその口を切り裂くと、獣は霧散して消えていく。生きているわけではなく、幻の獣なのだ。
数を減らしたと思いきや、霧散した獣は再び形を取って襲い来る。
「あれじゃあ戦いが終わらないじゃないの!」
空木の横で外の様子を覗いていたファナ・ベァナが声を上げた。
「二人を呼び戻してきます。立て籠もってどこかへ去るのを待ちましょう」
空木が立ち上がると、階段を這う血のような目と視線が交わった。
「黒い蛇……?」
「きゃあああああぁ!」
樹洞を切り裂くような悲鳴が上がる。
「食べられちゃう、食べられちゃうわ!」
目を剥いて狼狽した妖精たちを宥めようと空木が慌てて手を伸ばそうとした瞬間、黒い影がイヴァン・ベァナの喉元に食らいついた。
「あっ――ゲ――」
「イヴァン!」
イヴァン・ベァナの緑の瞳がぐるりと回転し、肌はみるみる青く変色する。翅の羽ばたきが止まって、ようやく巻きついていた蛇はその身を離した。
床に力無く落ちた彼女に悲鳴を上げ、妖精たちは窓の外から飛び立っていく。
「蛇なんて――!」
翅のない空木は手近な花瓶を掴み、床を這いうごめく蛇に投げつけた。
しかし蛇は身を緩めると階段へ戻り、花瓶の割れた音だけが鳴る。
「お前は……セイラス・ロッドか……?」
しわがれた声がセイラスの名を呼ぶ。
「誰です……?」
いないはずの人間の声が聞こえ、空木が蛇の消えた方向を見れば、薄暗い階段から老女が姿を現した。
「どうやって入ってきたのですか……あなたが蛇を!?」
階下には森賀がいるはずで、ドアも窓もくまなく塞いである。
空木が老女を睨みつけると、彼女は驚くような表情を浮かべた。
「お前……お前は、死んだはずでは……」
老女の腕に巻きついた蛇が空木の腕に絡みつき、引き寄せられる。
彼女は空木の顔を見て低く唸り声を上げる。
「……私と来るんだ」
空木は蛇から逃れようともがくが、ますます腕に巻きついて離れない。
「嫌です……離してください!」
家具を倒して逃れようとした空木の腕から、白い光が飛び床と天井を穿った。
矢のような白光は部屋を縦横無尽に往復し、老女の体を貫こうとする。
黒い蛇は素早く離れてその身を退き、張り巡らされていく白い矢の壁から老女は逃れた。
「くそ……こちらへ来い、白金の蛇! 妖精をまた殺されたいか!」
白壁で覆われた室内は二分され、阻まれた老女の怒る声が聞こえるが、壁は堅く閉ざされている。
「空木――!」
激しい音を立て、鎧戸の木片が飛び散る。
干し草と樹洞の床を踏む音が近付き、振り返ればカイが空木の肩を掴んでいた。
「空木、無事か!!」
「カイ……!」
樹を登り、閉じてあった窓の鎧戸を蹴破ってきたのだろう。
白く張り巡らされた壁越しに舌打ちが聞こえ、階段を下りる足音が去って行く。
「奴を追う。壁を解いてくれ!」
「ど、どうすれば――」
空木は老女に襲われかけた恐怖に体が強張っていた。
カイは追うのを諦めたのか、空木を落ち着かせるように両肩に触れた。
「もう大丈夫だ、敵は去った。怪我はないか、空木?」
「平気、です……殺そうとはしていなかったみたいですから」
「獣に気を奪われて、君を守ってやれなかった……すまない、セイラス」
悔しそうな声色にいくらか心が落ち着いたが、数瞬して名前を呼び間違えられたのだと気づいた。
「私は空木です……! セイラスさんではありません。間違えないでください!」
変わってしまった外見に想い人を重ねられ、空木は珍しく怒りを感じた。空木にとってセイラスはただ夢に見ただけの人物なのだ。
「そうだった……空木」
「もう平気です。結果的には無事でしたから」
空木の肩に触れる、彼の両腕にはめられた鉄の篭手は冷たいが、剣を握り振るっていた手は熱かった。
「守ってくださって、ありがとうございます……あなたのことを、誤解していたようです。謝罪します、カイ」
「気にしていない。会ったばかりの相手を信頼しないのは当然だ」
頷いたカイに空木が安堵の息を漏らすと、白い壁が解けるように縮み、蛇の形を取ると空木の腕に戻った。
「今のは……何だったのですか……?」
「君が使った力は、鍵の持つ能力の一端だ。望めば盾にも、槍にも、剣にもなる」
何事もなかったように静かな銀色の蛇は青い石の目を光らせ、空木を見ているようだった。
「そうだ、イヴァン……!」
蛇に襲われたイヴァン・ベァナは、そのまま床に倒れ伏し、目を剥いたままだ。
「嘘……イヴァン、死んでしまったの……イヴァン?」
優しくしてくれたイヴァン・ベァナ。
呼びかけても彼女は動かなかった。貴婦人のようだったイヴァン・ベァナの体に、もうその雰囲気は残っていない。小さな手を握るが、力なく滑り落ちそうになる。
見るのも偲びなく、シーツを彼女にかけてやろうとすると、カイがその傷口を覗き込み眉根を寄せた。
「獣の噛み痕ではないな……傷口が牙の太さと合わない」
「私たちを襲ったのは獣ではありません。初老の女性がいつの間にか侵入していて……黒い不気味な蛇をけしかけたのです」
「黒い蛇? まさか……見間違いではないのか?」
「間違いないわ、あの黒金の蛇よ! でも襲ってきたのは彼女だわ。逃げていくところを見ていたけど、鍵守はいなかったの」
大木の枝に隠れていたのか、ファナ・ベァナが窓から飛んで戻ってきた。
ファナ・ベァナは激しい怒りを露わにしながら、イヴァンの左手を握った。
「可哀想なイヴァン・ベァナ……先に楽園で待っていてね」
「カイ、あの女性は誰なのです?」
「一度会ったことはあるが……黒金の蛇と言うのは、君の白金の蛇と同じ存在だ」
三種の鍵があるという、その一つ。あれが黒金の蛇。空木に巻きついた白金の蛇と、同じ存在の鍵。装飾品にしか見えない腕の蛇と違い、まるで生きている蛇の動きだった。
「黒金の蛇ベルティネ・ドゥーンフォルト……彼女は生涯を黒金の蛇として捧げてきた女性だ。鍵守も連れずに一人で、何故ここに? これまでの功績を捨て、役目に背いた行動をするとは思えない」
「鍵守……」
「ベルティネ・ドゥーンフォルトには四人の鍵守がいる。いずれも彼女が黒金の蛇になった当時からの仲間で、老練な歴戦の戦士たちだ」
「その方は、こういった残酷な行動をする人なのですか」
「聞いたこともない、そんな話は。彼女は妖精を守りはしても、傷つけることはしないはずだ……」
だが現にこうしてイヴァンは殺された。殺すほどの恨みがあったとでも言うのだろうか。
小さな妖精の亡骸は茶の髪が乱れてしまっている。空木は涙が落ちるのも構わず、そのほつれを撫でつけた。
「なあ、こいつ放っといていいの? 気絶してるけど」
階下からシオルの声が聞こえ、我に返った空木は涙を拭った。
「森賀先生は、無事ですか?」
「血は出てないし平気だと思うけど」
下で頭を打って気絶していたという森賀をカイが運んでくれる。干し草のベッドに寝かされるが、見たところ大きな怪我はなかった。
「今夜はひとまずさ、イヴァン・ベァナを落ち着いた場所に運んでやろうぜ。あんたの連れも気絶してるし……カイはどうせ明日、朝から追いかけるんだろ」
カイは頷き、イヴァン・ベァナの亡骸を抱き上げた。
大木の傍にシーツを敷き、瞼をそっと下ろした。力の抜けたその体を眠る体勢に整えてやり、空木は摘んだブルーベルを一輪備えた。
妖精たちは悲しみに翅を震わせ、その体に縋り付いている。
「ひどいわ……こんな死に方ってないわ!」
「お別れも言えなかったのに死んでしまうなんて……かわいそうよ」
転生という魂のシステムがあっても、やはり死は辛いものなのだ。人も妖精も、生き返りはしない。
「彼女も、イヴァン・ベァナも転生できるのですよね……?」
妖精たちから離れたカイに尋ねると、彼は頷いた。
「ああ。だが理不尽に奪われていい命はない」
「……そうですね」
嗚咽を殺さず、妖精たちは声をあげて泣き叫んだ。
あれほど楽し気に笑っていた妖精たちの涙につられ、空木も涙がこみあげる。
彼らに見られないよう寝床へと駆け上がった。
部屋の中で戦闘があったにしては、さほど荒れていなかった。
干し草のベッドに寝そべるや堪えた涙が一筋こぼれ、止めどなく流れていった。
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