1話

「森賀先生?」


門を抜けた空木は濃霧の中を彷徨っていた。

通ってきたばかりの地下倉庫はとうに見えない。


「どこにいらっしゃるんです」

「古梁川さん、こっちだよ。僕を信じてくれたんだね」


嬉し気な森賀の声はするが、方角がわからず、暗闇の中に広がる霧を手探りで歩く。


「声は聞こえるのですけれど、霧が濃くて見えないのです」


空木が呼びかければ森賀の声は返ってきたが、それも次第に遠ざかり、とうとう聞こえなくなった。煙のように濃い霧の中ではぐれてしまったのだ。


不安から霧に手を伸ばすと、掌に触れる木肌の感触を感じて顔を上げた。

白い小花をつけたニワトコの木がいつの間にか立っており、気づけば歩き進めていたせいか森の中にいた。それでも霧はなお濃く、木々の間を漂っている。


空木はひたすらに木々の方角へと進み、霧を包む暗闇が明るくなっていくのを感じた。

風が体に吹きつけ、周囲の霧が後方へと流れていく。空木が一歩足を踏み出すと、暗闇に慣れた目に光りが飛び込む。


眩しさに瞼を伏せ、黒い瞳を開けば、そこには広大な黄金に輝く麦の草原が現れていた。

胸がどきりと高鳴り、足を数歩伸ばすと、麦が体を洗うように風に流れる。


「私は夢を見ているの……?」


夜の学院で謎の門を通り抜ければ、真昼の草原なのだ。

寝ぼけているのかとも思ったが、手の甲を撫ぜる穂先の感触はたしかに本物だ。空は澄み渡り、薄い雲が流れる。遥か遠くには草原を囲む森と白む山が望める。


一面を覆う土と草花の香りが涼風に乗り、大気を包み込んでいた。

久しく触れていなかった雄大な自然に喜びを覚え、スカートが翻るのも気に留めず、空木は草原を走った。


母がいた頃の家の庭には芝生が青々として、よく駆けまわったものだ。学院の古びた塀の中に入れられて以来、自由に駆けまわることのできる世界とは縁がなかった。


麦の間を滑るように走ると、巨石が等間隔に並んでいるのが目に入った。左右に延々と立ち並ぶ巨石は、その間に踏み固められた地面が道のように続いている。道は遠く湖畔に佇む白の建物に伸び、人の往来を感じさせる。空木は草原の間を続く道を頼りに歩みを進めた。


並ぶ巨石を近くで見れば、あの門の扉に似た渦を巻く模様が薄く刻まれている。何か文化的な柄なのかもしれない。


学院の敷地を往復する空木はそれなりに体力があるが、それでも長い道に息が上がる。

麦の草原を歩きながら、その周囲に民家がないか探していたが、草原の遠くには森ばかりが続き屋根すらない。


革靴を履いた足が痛むほどに歩き続け、ようやく湖畔へ辿り着いた。

湖は風に揺れる湖面に空の色や雲を映し、青に輝いている。


伸びた道の先、湖への行く手を遮るように建物は造られていた。建物の下部は湖の底に浸り、草地のすぐ側でも水位が深いことがわかる。切り出された多色の石はレンガのように積み上げられ、教会のような風体だ。しかし入口から覗ける内部に人の気配はなかった。


誰かに会えば現在地を聞くこともできるが、人影が一つもないどころか森賀の姿も見つからない。


一本道をゆっくり歩いていたから見つけやすかっただろうに、追いかけてくる気配もない。おそらく森賀はまだ霧の中にいるのだ。


彼は何度か門を通ったと言っていたし、迷っていても帰り道がわかるはずだ。空木はこの建物で休憩することにした。もし彼が探していれば、こちらに歩いてくるかもしれない。


入口の壁にもたれて階段に座り込み、ゆったりと時間の流れていく草原を眺めていた。

あがった息も整い、空木は屋内をゆっくり見まわした。小さな建物の中は教室ほどの奥行しかなく、家具のような物は置かれていない。民家ではないが、草や苔がないことから手入れはされているらしい。


天井は元から造られていないのか、抜けて空から光が射しこんでいる。

古びた石のタイルが続く床の中央には円形の石段が設けられていた。床の溝から絶えず石段の中へ水が流れ込み、細い溝にわずかな水量が排出されている。


何のための建物かはかりかね石段に近づくと、建物の外から耳慣れない発音が聞こえた。空木がようやく聞こえた人の声に安堵し、振り返って話しかけようとするが、男は厳しい表情でこちらに近づいてくる。


迫力に気圧され、後退りして石段に躓きしたたかに腰を打ちつける。


「いたっ――」


石段の淵に手をかけて体を支えると、段上の平らな円の中に女が見えた。


亜麻色の髪と榛色の瞳をした女の姿が、鏡のような水面に映っている。

とっさに自分の後ろを振り返るが、女の姿はなく、青年がもうすぐ後ろに立っていた。


「建物の持ち主の方ですか? 勝手に入ってしまって、すみません」


謝罪しながら視線を上げ、彼の顔を近くで見れば、夢の青年そのものだった。

背格好も寸分違わず、空木の目の前に立っている。紛れもなく同じ人物といえるほどに、その容貌は似ていた。


高い背をした彼の首には広い背を覆う濃紺のマントが巻かれ、ゆったりと編まれた黒灰の髪は長く、揺れる獣の尾にも見える。革の胸当てをつけ、腰帯の皮には剣を佩いていた。


厳しい色を向けていた薄い灰の瞳は、空木の顔を間近に見れば、驚きに見開かれた。頬に触れる両手は壊れ物に触れるような手つきで包んだ。

青年は何事かを呟いたが、空木はその言葉を聞きとれなかった。


虹彩を彩り輝く色に、学院のあの石畳の色とは異なる、美しい瑞々しさを含んだ灰色もあるのだと惹き込まれた。


青年は空木の髪の房を指ですくいあげ、懐かしむような愛おし気な瞳を向ける。まるで離れていた恋人と再会したかのような仕草だ。


空木もつられて視線を落とせば、淡い亜麻色の髪が流れている。空木の黒髪は水面に浮かんだ女と同じ色に変わってしまっていた。


「ど、どうして髪が……変色して」


驚きたじろぐと、左腕に鋭い痛みが走るのを感じた。青年の懐から伸びた銀の蛇が手首に噛みつき、慌てて腕を引いて彼から離れるも、蛇は白い腕に絡みついたまま装飾品のように居座り動かなくなった。


まるで誂えた銀の腕輪のように大人しくなった蛇は、腕から外そうとしても頑なに動かない。締めつけられるような痛みはないが、蛇が腕にいるという状況がただ不気味だった。


「白金の蛇が……」


呟いた言葉は先程と変わって日本語だった。やはり異界などではないのだと空木は心の中で胸を撫で下ろした。まるで演劇の舞台から飛びだしたような服装をしているが、今は他人の服をとやかく考えている場合ではない。


「俺は当代のアインジィール。そして先代から白金の蛇を守り預かる鍵守の騎士だ」


「申し訳ないのですけれど、おっしゃっる意味が理解できません……それよりも、この蛇が巻きついて離れないのです。とっていただけませんか」


青年は石段に座り込んでいる空木の体を、差しだした腕を引いて起こしてくれたと思うや、そのまま抱きしめられた。


この腕の強さを、温かさを知っている。

空木はそう直感した。知らない彼の腕の中に懐かしさを覚え、心に湧きあがる知らぬ感情がこみあげ、振り払う腕は動かなかった。


「ずっと君を、待っていた……」

「私を待って……?」

「転生した君に再び会いたいと、幾度も、幾度も……願っていた。この異界で君が死んでから……気が狂いそうなほどの長い時間だった」


抵抗して押し返そうとするが、青年の堅い胸はまるで動かない。


下心もなく、ただ怯えた仔犬のように体を震わせる男を哀れに思い、空木は抱きしめられたまま少しだけ待つことにした。そして夢で見たことがもしや本当に起きていたのだろうかと悩み、そんなことがあるはずはと考えを打ち消す。

言葉が通じるのだから、日本のどこかなのだ。


しばらくして、青年はようやく身を離してくれた。


「取り乱してすまない。俺の名は、カイ・グウィンヒル・ナハーシュだ。君の名を聞かせてくれるか?」


「古梁川空木です。どうして髪の色が変わってしまったのかわかりませんが、水面を見たら突然こうなって。あなたのお知り合いに似ているのかもしれませんが……私は別人です」

「ああ、落ち着いた今ならわかる……でも君は、俺が愛してた女性に、恋人だった人の生き写しなんだ」

「生き写し……」


空木を石段から降りるよう促しながら、カイは姿が映らないように注意深く水溜を指し示す。


「この建物はなんなのです?」

「悪しき心を持ちながら、神殿の先へ進む者を拒むためのものだ。あの水鏡は魂の姿を暴く呪いがある。君はセイラスの生まれ変わりだから、本来の姿になったんだろう……その蛇も、君の前世が守っていた鍵だ」


生まれ変わりというほど、今の自分は姿が変わってしまったのだろうかと空木はいくらか暗い気持ちになった。


「鍵とは……? 何の鍵なのですか、この蛇は?」

「異界と通じる門を開く鍵だ。おそらく君も、門を通ってここへ来たのだろう?」

「ええ、門は通りましたけれど……」


異界。彼は森賀と同じ言葉を発した。

「その腕にある白金の蛇と、そして赤金と黒金、三種の鍵がある。白金の鍵は先代のセイラス・ロッドが長く守っていたが、彼女亡き後、俺たちは新たに白金の蛇となる者を探していた」

「白金の蛇……」


空木の腕に巻きついたその銀の蛇は、たしかに夢で巻きついていたものだ。すると夢で自分が成り変わっていた女はセイラスだったのだろうか。夢と現実が混ざり合った状況に、空木はひどく混乱した。


「鍵が心悪しき者の手に渡れば、異界を破滅させてしまいかねない。だから蛇となる者が守っているんだ」


本の登場人物のような口ぶりについていけず、空木は左腕を差し出した。


「ではお返しします。私の身には余りますから」

「主と認められてしまえば、死ぬまで共にある。君が外そうとしても離れないのなら、俺にも無理だ」


変わってしまった姿に、蛇の鍵。そして見知らぬ土地と夢で見た青年。

彼なりに理解しやすいよう噛み砕いて話しているのだろうが、あまりに突然の出来事が立て続けに起きてしまい、空木は困り果て、目が眩みそうな状況に顔を覆った。


どうにも信じ難い内容だが、彼は真っ直ぐに空木の目を見て話し、その真剣さからは嘘があるとは感じられない。


そもそも、空木が住む学院の山は夜だった。ここまで歩いてきた場所のように真昼のはずはなく、森の奥に切り立つ崖も敷地内からは見たことがない。夢でなければ、たしかにここは異界と呼ばれる場所なのだろうとようやく空木は納得がいった。


そういえば何故彼のことを夢で見たのかと不思議がる空木だが、カイが神殿の外に人を待たせているというので共に草原へ出ると、外壁にもたれかかった少女がいた。剣を持つカイに対し、こちらは自分の背よりも長い弓を背負っている。


銀の髪が肩まで伸び、こちらを見る瞳は浅瀬の色を鋭く光らせている。カイも背の高い美青年ではあるが、彼女は紛うことなき美少女だ。チュニックのような膝丈の服を腰帯で絞め、胸元の紐を寛げている。足には皮紐を膝まで編み上げたサンダルを履き、カイよりも軽装のいでたちだが、肩にかけた鞄は大きく膨らんでいた。


「彼はシオル。まだ若いが、鍵守の仲間だ」

「おい、まさかこいつを拾ったのか? あれだけ生きてるのを拾うなって言っただろ!」


美少年は澄ましていた表情を思い切りしかめて説教を始めた。


その声は少女のものにしてはいくらか低く、空木はやっと彼が少年であると気づいた。よく見れば、骨張った膝が見慣れた少女のそれではない。このくらいの年頃であれば、もう少し柔らかく丸みを帯びているものだ。

寡黙そうなカイはそんな少年の様子にも慣れているのか、飄々としている。


「彼女の顔をよく見てくれ、シオル」


文句を言いながら空木の顔をじっと見つめると、シオルは明らかに狼狽した。


「せ、セイラス……あんた生きてたのかよ!?」

「そんなにセイラスさんに似ていますか……」


手鏡は鞄に入れて寮に置いてきてしまった。自分の顔を見る術もないが、どうやら相当の変化が起きているらしい。


「彼女はセイラスの転生者、空木だ。よく見るんだシオル、彼女よりは幼いだろう」

「そうだよな……死体を綺麗にしたの、オレだし……」


たしかに違うと頷いたシオルに、カイは空木の左腕を持ち上げる。


「空木が新たな白金の蛇になった」

「うわっ、本当だ! あんたが新しい白金の蛇……戦士には見えないけど、戦えるんだよな?」

「彼女の細腕では武器も持ったことがないだろう。セイラスが特殊だったんだ。戦を知らない蛇のために俺たちのような鍵守がいる、問題はない」

「冗談だろ? 戦わないでどうやって生きてきたんだよ」


シオルの悲鳴じみた叫びに空木は早く帰りたい気持ちになった。


「あの、鍵はどうしても外れませんか。私はここにいるわけにはいかないのです」

「蛇が主を認めれば、二度とは離れない。君でなくてはいけないんだ」

「なあ、あんたどこから来たんだ? 蛇を知らないから、別の異界だよな……服も変な形だし」

「赤金か黒金か、蛇のどちらかが門を開けた時に迷い込んだのかもしれない」


シオルは蛇は何をしてるんだと唸り溜息をついた。


「私と一緒に門をくぐった男性を見かけませんでしたか。焦茶の癖毛で、金縁の眼鏡をかけている方なのですが。彼を探して、元の場所に戻りたいのです」

「君が戻りたいと言うなら、従おう」

「色々と聞きたいことはあるけどさ……もうじき夜だよ、丘に戻ろうぜ? あんたの連れは明日探してやるから」


門からほど近い森の中に部屋を貸してもらっている家があるからと言うシオルの提案に、空木も疲れを感じて同意した。


空木がこちらへ来る前の学院は夜のはずで、今頃は夜中になっているだろう。しかしまだ夕方にもなっていないのにと青い空を見上げていると、シオルが空木に小声で話しかけた。


「あんたさ、カイにセイラスって呼ばれた?」

「ええ、私の前世だとか……とても信じられませんけれど」


「この異界だと転生っていうのは本当にあるんだよ。そっちの異界じゃ転生のことは忘れられてるみたいだけどさ。カイはあんたと、その前世を重ねてるんだ……悪いんだけどさ、少しでいいから優しくしてやってくれる?」


「でも私は、その方と別人なのですよ。そちらの方が酷ではないですか」

「そうかもね。でも酷い死に別れ方だったからさ、ずっと引きずってるんだ。今じゃだいぶ元に戻ったけど、当時はただでさえ無口なのに口もきけない状態だったから」


空木よりも幼く見える少年だが、内面はひどく大人びていた。素っ気ない口調だが、心からカイを案じている様子だった。


「どうして私をセイラスさんだと思うのでしょう。ただ似ているというだけかもしれないのですよ」

「外見だけで言うなら、あんたは本当に似てるよ……でもたしかに、似てるだけかもしれない。カイは生まれ変わりだと思いたがってるんだろうな。あんたに前世の記憶がなくても、信じたいものを信じてるんだよ。その幻を砕かないでやって欲しいんだ」


そうまで言うならと空木は頷いた。今のところは同一視されて害があるわけでもない。


「セイラスさんが亡くなった後は、お二人で旅をしていたのですか?」

「他にも仲間がいたけどさ、セイラスだから着いて行きたいって奴らだったから。死んだ後は気づけば、オレとカイだけになってたな」


「まだ若いのに、大変な旅をしているのですね、シオル君は」

「シオルでいいよ。あとオレは長命の種族だから、あんたよりは年上だよ」

「長命……? 寿命が長いのですか」

「妖精に近い種族って言ってわかるのかな。とにかくあんたたちよりはずっと長生きな種族ってこと」


言われて見れば、シオルには人間離れした妖精的な風貌の魅力があった。


このまま彼らと同行していいのだろうかと空木は悩んでいた。今すぐにでも逃げ出す心の準備はできている。走って逃げれば麦畑の波に紛れて隠れられるだろう。

もし拐かしなら手が込んでいるが、自分だけならまだしも万が一にも父に迷惑がかかる状況は避けたかった。


考える内に麦の草原を突き抜け、進むにつれ鬱蒼とした茂みになっていく森を歩いていると、女の笑い声が聞こえた。苔むした岩と倒木の間を流れる小川で女たちが水浴びをしている。長い髪で白い裸身を隠し、囁くように笑いあっている。


話してみる価値があると、空木は救われた気持ちになった。この二人以外の、それも女性だ。彼らが本当に信頼していい人物なのか見定めなければならない。


「近くの方々ですか? ここは何と言う場所なのでしょうか。森で迷ってしまって……」


苔に足をとられながら、岩場の上へ歩み寄った。

赤毛に近い茶の髪を川ですすぎ、笑いあっていた女たちは一斉に振り返り、茶の瞳で空木を捉えた。空木が驚いて身をすくめると、女たちは笑顔を浮かべながら手を取って水中へ招こうとする。


「え……待って、服が濡れてしまいますから!」


強く手を引かれ、岩場から落ちそうになった瞬間、体に腕が回された。


「悪いが、遊び相手にはなれない」


川に落ちそうになった体を、カイが抱き上げて岸へと戻してくれる。


「あ、ありがとうございます……」

「不用意に近づいてはいけない。相手がわからないのなら尚更だ」

「あいつらは川の精霊だよ。あんたと遊びたかったんだ」


女たちはいっそう笑うと、空木が落としたストールを抱いて水中へ沈み、それきり浮いてはこなかった。


「本当に、私の世界とは違う場所なのですね……」

「ここは妖精住まう異界……『黄金の国〈ティル=オール〉』だ」


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