朝が来る!

「は……ッ!」


 目が覚めるとそこは未知の場所だった。首だけを動かして周りを見るが、自分の部屋でも見慣れた部室でもない。身体の下にベッド。部屋の隅にクローゼット、机に、本棚。

 目が覚めたらまた作業か、と思ったが既に終わっていたことを遅れて思い出す。

 回らない頭であちこちを何度も見渡す。誰かの部屋、か? 慣れないベッドから体を起こした。目がとても乾燥していてショボショボする。


「ああ、起きたか」

「部長でしたか……え?」


 バスタオルを身体に巻き、湯気を纏いながら歯ブラシを口に咥えている部長が目の前にいた。


「キャアアアアア!!」

「悲鳴を上げるのは逆じゃないか?」


 そんなこと言ったって、ベッドから起きて目の前に湯上りの異性がいたら男だろうが女だろうが悲鳴は上げるだろう。決して僕が臆病なわけではないと主張はしておく。


「安心したまえ。ボクと君の間に性的なことは何一つ起きていない。君は、というかボクもだが、丸一日眠りこけていただけだ」

「え、だってまだ六時間しか時計は進んでないですけど」

「残念ながら三十時間睡眠なんだよこれが。よく衰弱死しなかったものだ。脱水症状にならなかったことを神に感謝しよう。夏だったらおそらく死んでいたね。ほら、水とカロリーメイト」


 部長から一日ぶりの水分と固形物を受け取り、ゆっくりと咀嚼する。途中何度もむせそうになったが、なんとか飲み込んだ。


「この身を持って性欲を睡眠欲が超えるということを実証したわけだ。人間、疲労と眠気が限界な時は勃起などする余裕がないらしい」

「そりゃそうでしょうに」


 頭がふらふらして指一本動かせない状態で、一体何をしろというのか。日光を受けた瞬間に倒れるようなコンディションで性欲など湧こうはずもない。


「ま、ボクと行為に及びたければもう少し好感度を上げることだ。今のままだと君にCG一つ渡す気はない。パッケージに乗っている攻略不可ヒロインだ。ファンディスクに期待したまえ」


 相も変わらずよく分からない例えをしながら部長が上着を羽織る。


「早く学校に行くぞ。皆が待っている。君も準備するんだ」


 といってもここは僕の家ではないわけで、着替えがあるわけではない。洗面所を借りて顔を洗い、寝癖を確かめるだけで終わりだ。

 部長と一緒に部屋を出た瞬間に外の日差しが僕らを襲い、再び倒れそうになった。倒れなかったのは一度倒れたから免疫が付いたのだろう。人生で最もいらない免疫である。

 見知らぬ道を二人で歩くこと数分、部長が何やら僕のことをちらちら見ていることに気が付いた。この人は物事をはっきり言うタイプだし、何より羞恥心というものがない。何かあったのだろうか。


「どうかしましたか?」


 僕が訊くと、部長はきまずそうに視線を逸らしながら口を開いた。


「その……君のボクへの愛の告白についてなんだが」

「はぁ!? 何の話ですか!?」


 唐突な質問に僕は驚いてつい大声を上げてしまった。通行人が訝し気に僕らを見てきたので、恥ずかしさを誤魔化すためにそっぽを向く。


「なんで僕が告白したことになっているんですか?」


 今度は周りに聞こえないように小さな声で訊く。すると部長は不思議そうに、当たり前のことのように首を傾げた。


「だってあの作品のヒロイン、モデルはボクだろう?」

「んなっ……!?」

「間違っていたかい?」


 間違っていない。間違っていないのだが、なぜ分かったんだ。

 僕が理想の女性を求めた時、思いついたのが部長だった。ひたむきで、情熱を間違った方向に真っ直ぐ伸ばした女性。僕の心に忘れようがないほど強く残ったその人。


「性格も言動も容姿も違うが、どこかボクと似た部分がある。波長、とでも言うのかな? ヒロインの感情にリンクできるんだ。ボクならこうするだろう、こう考えるだろうというのがピタリと一致する。ただ感情移入しているのとはまた違う。最初は偶然かなと思ったが、にしては頻度が多いし何より君の今までの作品と比べると何か違う。となるとモデルがいて、それがボクかなと思ったのだけれど」

「推理力が高すぎる……!」


 全部見透かされている。確かに僕の書いたヒロインのモデルは香苗部長で、彼女の思考を僕なりに再現したのがあのゲームなのだ。


「で、だ。つまり君の思いつくエロとはボクのことなのだろう? それに気づいた時、新時代の告白法だと思ってね。意中の人物をモデルにエロテキストを書いて本人に送りつける告白を行ったのは多分君が最初だよ。迂遠だが一歩間違えればセクハラだ」

「違います!」

「そうかい? だが君のエロスとは……」

「確かに僕のエロスは部長です。だけどそれは愛の告白なんてものじゃありません!」


 僕にとって何よりエロくて、女性らしく、耽美だったのがこの人だったのだ。それは一般的な意味でのエロさとはまた違って、説明できない僕だけのエロスがあったのだ。

 最高のエロスとは最高の女性が持つものだ。そういう意味では、部長が最高の女性だったのだ。その見た目もそうだが、それ以上に彼女の持つ意志や強さというものを僕は美しいと思った。こんなエロゲマニアの変態に、どういうわけか僕は女性らしさを見出してしまったのだ。

 多分徹夜で脳味噌が茹だっていたのもあるのではないだろうか、と今なら思う。


「だから好きってわけじゃないんです。いや、憧れとか羨望とかそういうのはあって、好きなのは好きです。だけど恋人に向けるのとは違うし、AV女優とも違ってて……なんて言うんでしょう?」


 エロスは感じるが、じゃあ今隣を歩いている香苗部長の胸やお尻を触りたいと思うか、と尋ねられるとまた違うのだ。なんというか、そのままでいてほしいのだ。エロを感じさせないことを魅力に感じるのだ。


「君、初恋は幼稚園の先生なタイプだろ。憧憬がそのまま恋心に直結するタイプだ。それが大人になってエロスを醸し出すようになったんじゃないか? 裸体なんかの直接的なものより、憧憬のような感情からエロスを沸かせるタイプだ。そして直接的な物を見ると萎える」

「そうなんでしょうかね」


 今回書いたものは自分でもよく分かっていない。あれだけ部長に自分のエロを見るように言われたが、でも未だに完全に理解はできない。

 けれど、分からないなりに僕が美しく、艶めかしく、可愛らしい女性を描いたのが部長だったのだ。


「ま、ある意味普通で当たり前だよ。遠くのAV女優なんかより近くの年上の女性であるボクを選ぶのは当然だろう」

「……」

「何かツッコんでくれないかい? 恥ずかしいじゃないか」


 顔をやや赤くした部長が誤魔化すように笑う。この人のこんな表情は初めて見た。


「どうやらボクも後輩からの愛の告白に正気ではなかったようだ。こんな柄にもないことをしてしまったよ」

「だから愛の告白じゃないですって!」

「いや、だが客観的に見てだね」

「それはそうかもしれませんけど僕は――」

「しかしだね――」


 僕と部長の議論は、結局答えの出ないまま大学に着くまで行われた。




「おー、二人揃って出勤でござるか。珍しいでござるな」

「……二日ぶり」

「お久しぶりですー」


 部室に行くと、休日にもかかわらず全員集合していた。いつも通りの風景だが、既に仕事が終わっているというだけで輝いて見えるのだから、いかに作業が辛かったか分かろうものである。


「友くん友くん。こっち来てください。このゲーム、もう感想が付いてますよ」

「本当か!?」

「そりゃもう。純粋な男子大学生を騙す趣味はないですって」


 僕は飛びつくように椅子を取り、それを歌子の近くまで引っ張って座る。ぐいっと顔をモニターに近づけた。


「どれ!? どれだ!?」

「落ち着いてくださいよ。別に感想は逃げませんから」


 そんなこと言ったって僕のシナリオに感想を付けてくれた人がいるのだ。見たくないわけがない。かぶりつくようにPCの画面を見つめる。

 販売ページをスクロールすると、感想欄に一つ文章があった。


『ライターが変わったから不安だったけど結構面白かった。女の子も可愛かったし、ストーリーもちゃんとしてた。雰囲気は変わったけどがらっと変わったわけでもないから、前作までが好きな人間にも安心。ヒロインもエロかった』


 それだけの簡素な感想だったが、僕の心を大きく揺さぶった。たった数行の文章が、何より僕を感動させた。

 世界に受け入れられた。そんな気がした。何者にもなれなかった僕が、初めて何かになれた。それは何より嬉しくて、僕の身体から力が抜ける。

 椅子に座り込んで溜息を吐く。この瞬間、ようやく僕は作品を完成させたと自覚した。今までふわふわと浮いていた感覚が、カチリと自分に嵌まった。

 

「君の文章が誰かの心を動かした。ちんこを起たせ、興奮させた。君のエロが誰かに届いた」


 人の心を震わせた。それを世間では、作家の歓びと言うのだ。媒体が何であれ、僕の作品が初めて人の感情に干渉したのだから。


「分かっていると思うけど、ここにいるのは純然たるファン。わざわざ素人の作品を発売日当日に買ってプレイして感想書いてくれた人間。肯定的な意見が多いのも当たり前だよ。問題はここからだから覚悟しておくことだね」

「はい……」


 そんなこと言われたって、嬉しいことは嬉しいのだ。このたった数行の文章のために、どれだけ僕らが頑張って来たか。自分たちの作品の意義を認められたことがどんなに嬉しいか。


「よかったでござるな友樹殿。おっと拙者ももらい泣きが……」


 初めてのゲーム制作、初めてのシナリオ執筆。駄目なところも多かった、失敗することもあった。けれどもここまで来られた。


「嬉しいです。僕が初めて認められたんだって思うと……」

「変態になってよかっただろう? 常識人ぶってる奴には一生理解できない感覚だ。必死に頭を捻ってエロを求めた人間の特権だ」


 ああ、泣いてしまいそうだ。自分の作品が褒められる。ただそれだけなのにどうしてこんなに嬉しいんだろう。小学生じゃないんだ。こんなことで泣くなよ僕。

 辛かったし、苦しかった。エロゲなんて馬鹿馬鹿しいとも思った。だけれど変態のラインを超えた甲斐はあった。僕の文章が誰かの心を動かして、誰かのちんこを起たせた。


「よし、よし、よし! やった! やったぞ!」

「……喜びすぎ」

「いいじゃないか。この瞬間のためにボクらは作品を作って来たんだ。それに、できたことを喜ぶことの何が悪いのさ。嬉しい時に笑い、悲しい時に泣く。それは人間に与えられた権利なんだから」


 まるで子供のようにはしゃぎ回る僕を見て、皆が笑う。恥ずかしがる必要なんてない。そんな概念とうに投げ捨てた。この部活には恥なんて概念は無いんだ。嬉しいことは嬉しいと言って、やりたいことをやればいいのだ。それがこの部活のモットーなのだから。


「ま、終わりよければ全て良しだ。一時はどうなることかと思ったが、一件落着。世は全てこともなし。締切に間に合い、クオリティも落とさなかった。重畳重畳っと」

「もう二度とやりたくないでござる」


 全員がふらふらの身体を無理矢理動かし、ガス欠のエンジンを気力でどうにかしていたのがこの数日だ。同じことを何度もやっていたらいつか倒れる(というか既に倒れている)。


「友樹。次はないぞ。もうボクは後輩の尻拭いのために限界を超えた残業はしないからな」

「はい、すみませんでした」

「分かったならいい。次、締切破ったら許さないからな」

「はい!」

「よし、皆! じゃあ今回の分の罰をこの馬鹿に与えるぞ!」

「え」


 僕の口から変な声が漏れる。何それ。


「しゃああああ! 待ってましたでござる!」

「……辛い作業に耐えた甲斐があったなぁ」

「この時を一日千秋の思いで待ちました」


 僕以外の全員が、叫びながら立ち上がった。目を溌剌とさせ、四肢には力がみなぎっている。ぎらぎらとした眼光が、僕の体を舐め回すように這いずる。


「さて、我々に無駄な作業を押し付けた無能に仕事について教えよう。先輩としての義務だからな」

「ちょっとレディースアンドジェントルマン。今いい雰囲気だったじゃん。皆で頑張ってやったーって雰囲気だったじゃん。そこで終わりでしょ普通?」


 もはや後はエンディングテーマと共にスタッフロールを流すだけの雰囲気だったはずだ。後は後日談と共にタイトル画面に戻って終わりのはずだ。じゃあこれから始まるのは何だ?


「何を言っている。罪には罰を。これは神話の時代から決まった絶対法則だ。悪いのは君だよベイブ。悪戯は怒られるもんさ」

「あれだけ言ったのに締切破るんですから、そりゃ身体で覚えるしかないでしょ? ねえ? サーカスに猛獣使いの鞭は必須ですよ」


 そう言って口元を歪ませる歌子の目は据わっていた。これは駄目な奴だと僕の脳がアラートを鳴らす。これは肉屋が豚を見る目だ。


「最初に言ったじゃないか。締切に遅れるなと。なのに遅れた。じゃあ誰が悪い? 君だろう?」

「ちょっと遅めの研修です。この部活において最も大事なことを身体に叩きこんであげます」

「もう叩きこまれましたって! 三日も徹夜したら嫌でも脳が覚えるわ!」

「遅い! もっと早く覚えてくれ!」

「そうです! それなら私たちがこんなに苦しむこともなかったのに!」


 そう言われると反論のしようがない。僕がテキストを遅らせたせいで先輩たちの苦しみが増えたというのは確かである。


「……分かりました。僕も男です。甘んじて受けましょう」

「良く言った、それでこそ男だ。よし歌子、ペンチを」

「――と思いましたが用事を思い出しました!」


 今こそ動け僕の足! ここで捕まったら爪を全て剥がされて、一生シールを剥がせない身体にされてしまう!


「冗談だ」

「ですよね。まさかそんなこと――」

「歌子、ニッパー」

「――急な葬式を思い出したので帰ります!」


 このままでは大事な腱を切られて、一生二足歩行できない身体にされてしまう!


「……捕縛!」

 逃げ出した僕の腰にプロ並みにタックルをかましてくる次郎先輩に容易く捕らえられた。くそ! なんでこんなときに無駄な運動神経を発揮するんだ!


「次郎先輩! 裏切ったな!」

「……裏切ってない。最初から仲間じゃない」

「今明かされる衝撃の真実!?」


 次郎先輩は見事な手並みで僕の両腕を縛る。一体どこでこんな技術を……多分AVだな。間違いない。


「……お前がいなければ単位を落とすこともなかった。お前のせいで俺は……!」

「いや、僕が入学する前から単位落としてるでしょあなた。人のせいにしないでください」

「……ッ!」

「やめてください! 図星だからって血が止まりそうなほどきつく縛らないで!」

「……お前がいなければ単位を落とすこともなかった!」

「聞かなかったことにして話を進めないでください!」


 手足を縛られて床に転がされる。芋虫状態になった僕は動けないまま無様に地面を這いずることしかできない。担ぎ上げられ、片付けられた机の上に載せられる。


「いやー小学生の理科の時間を思い出すでござるなぁ。なんだったか、あの――」

「蛙の解剖は嫌じゃー! 死にたくない!」

「――プレパラート割るやつでござる」

「生物ですらねええええ!?」


 砕かれる! 全身を砕かれて蛸人間にされてしまう! 


「金槌と釘はOKだ」

「助けて! 僕は磔になりたくない!」


 文字通りまな板の上の鯉として抵抗すらできない。ホラー映画のように先輩たちがにじり寄ってくる。全員が怪しげな笑みを浮かべている。


「好きに神に祈るといい。ま、槍を脇腹に刺すことはないから安心したまえ」

「そのレベルなんですか!?」

「当たり前だろう。締切を破る悪い子はいないかと毎年なまはげが襲ってくる地域もあるんだ」

「そんな現代的ななまはげはいない!」

「ではこれが歴史上最初だ。喜ぶといい、パイオニアだ」


 まったく嬉しくない! 歴史上はじめて締切を破って磔にされたエロゲライターになどなりたくない! 末代までの恥――いやここで死ぬから僕が末代になる!


「おーソーレソーレ! 火炙りじゃ!」

「おお、神よ! 供物を捧げるでござる!」

「……これでおらが村に雨を降らしてくだされ」


 僕を囲んで怪しげな儀式が始まる。ここだけ千年ぐらい前にタイムスリップしたんではないだろうか。つい先日まで悲鳴と呻き声で満ちていた部室は、謎の言語と儀式が行われる場所になった。

 滅茶苦茶にふざけて、滅茶苦茶に笑う。辛くても苦しくても真面目にふざける。それが我ら文芸部!

 エロゲ制作は難しくて、苦しくて、辛いことも多かった。先輩たちには迷惑かけたし、どうにもならないと諦めかけたこともあった。


「ぬわははっは! ござる! ござるでござろう!」

「燃やせ燃やせ!」


 全員がとんでもなく馬鹿で、変態で、ろくでなし。エロゲなんて作っている場合じゃない人の方が多い。性格がぶっ飛んでて、僕が着いていくのは大変だった。


「でも、楽しかったな」


 やりたいことやって、作りたいものを作る。僕の夢が、当初の想像とは違う形だけれど、叶った場所だ。これからもこの部活でやっていくのも楽しそうだ。



 だって僕は心で生きる変態なのだから。

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変態ボーダーライン 藤野すその @susono

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