お家に帰るまでが創作です

「エロとは……。僕にとっての興奮する存在、エロの象徴」


 テキストをどんどん打ち込んでいく。ストーリーを書いている間も一つの問いが頭の中で渦巻いていた。

 エロはなんだ。性の象徴。男の欲望。やってみたいこと、やられたいこと。見てみたい物、聞いてみたい物。何に興奮するか、何をエロいと思うか。

 そんなのは愛とは何かとか、恋とは何かのように答えが出ないものだろう。誰もが考えるのが馬鹿らしいから考えないだけで、複雑さは同じだ。

 その複雑な物を解きほぐし、例え正解でなくても答えを出す。それこそが人間に与えられた権利だ。


「だけど、一つだけ答えは出せる」


 僕にとって、僕だけにとってのエロ。これには答えが出せるし、他の誰にも答えは出せない。ただ自分に素直になるだけだ。


「僕が一番エロくて耽美だと思ったものをそのまま書けばいい」


 おっぱいだとかお尻だとか、もしくはもっといやらしい部分とか。そういった興奮の奥底、僕が憧れ、興奮し、何かを欲する女性の要素。

 股座を開くだけがエロではない。服を脱ぐのがエロではない。それは当たり前のことで、つまらないことだ。真のエロとは秘めることだ。僕の心に秘めた桃色の興奮を無理やり引っ張り出してくる。


「……よし!」


 携帯電話を取り、部長に発信する。数回のコール音の後、僕は口を開く。


「もしもし、頼みがあるんですけれど――」

『なんだい?』


 いつも通りの凛とした声。けれどどこか疲れているように聞こえるのは気のせいではないだろう。


「非常に馬鹿なことを言っているという自覚があります。ですが、一つお願いがあります」

『その願いを叶えるかどうかは、内容を聞いてからだ』

「――」


 僕が簡潔に用件を伝えると、部長はすぐさま返答をした。


『いいだろう。やれ』


 電話の向こうにサムズアップをしている部長が見えた。こんな無茶なことを言って許してくれるのだ。一生頭が上がらない。


「やりますか!」


 僕はキーボードを滑らかに叩いた。もう、頭の中のもやもやは消え、何を書くべきかが次々浮かんできた。白いテキストエディタなど、どこにもなかった。

 ニューロンが弾ける。頭の中で文章が思いついた瞬間、それは目の前の画面に転写されている。頭が先か、手が先か。そんなことすら分からなくなって、現在と未来の境界線が曖昧になって行く。

 分からない。締め切り前に急いで書いている時とも違う。新たに思いついた小説の出だしを書いている時とも違う。頭の中に生まれた世界が、なんの齟齬も抵抗も摩擦も無く、僕の感情と意志のまま文章に起こせる。

 頭の中で乱雑とした文字列が結びついていく。手を伸ばせば最適な文字を掴み取れる。なんだろうこれは。答えが分かり切っているジグゾーパズルを解いている気分だ。

 集中力が途切れない。時計に目を落とそうとすら思わない。キーボードを叩く音すら遅れて聴こえて来そうな、そんな三次元のステレオグラムが目の前に広がっている。

 ああ、そうだ。この感覚だ。この感覚が変態への第一歩だ。やりたいことを、やりたいように。好きなことを、好きなだけ。もっと僕は先に進める。


「書け」


 エロスを。僕の持つ欲望を。


「書け」


 エロスを。僕の持つ興奮を。

 もう迷う必要はない。僕にとって書くべきことも、書くべきエロも既に見つかったのだから。

 自然に僕の顔は緩んでいたのだけれど、それを僕は戻そうとはしなかった。誰もいない部屋の中でぐらい、笑っていたかったから。




「持ってきたかい?」

「はい」


 僕は印刷した原稿を部長に差し出した。誰もいない早朝の部室で、僕の全てを載せた分厚い紙束を見せた。


「データでも良かったのに。というかそっちの方が早くて助かるのだけど」

「すいません。でも初心忘るべからずということで、最初のように読んでほしいんです」


 初めてこの部活に来たとき、真っ赤に直された原稿。あそこから僕が成長していなかった場合、このシナリオに意味はない。時間が差し迫っているからといって妥協するような人間は文芸部にはいない。質も守る、時間も守る。それが合言葉だ。


「…………」


 香苗部長がぺらぺらと僕の原稿を捲る。かなりの速読だが、僕にはとても長い時間だ。静寂の中で部長が真剣な表情で僕のテキストを読んでいる。

 それは永遠のように長く、刹那のように短かった。部長は読み終えると、熱い茶を飲んだ後のようにほっと息を吐いた。


「これが、君の全てだね?」

「はい。僕が書きたかった、僕の書いたエロと世界の全てです」


 僕が得たことを全て絞り出した、僕の世界の現身が彼女の手元の紙束だ。


「なるほど……ふふっ。これが君の答えか。面白い。今までいなかったタイプだ」


 部長は原稿を封筒に入れて脇に抱えると、携帯電話を取り出した。


「ああ、勝義だな? 友樹からシナリオを受け取った。多少のヒロインイメージの変更がある。最優先で目を通してくれ。こっちはこれから友樹と二人で修正を終わらせ次第、順番に送っていく。歌子と次郎によろしく言っておいてくれ」


 合格だ。そう言って部長は僕の肩を叩いた。


「さて、ここからが本番だ。今から片っ端から修正していくぞ。修正したら台本を作る。速度と正確さが命だ。寝られると思うな」

「もちろんです。望むところです」

「よし、じゃあ行こう。エロの世界にラブを込めてログインだ」


 僕と部長は笑い合った。まるで無垢な子供のように。




 という前向きな気持ちを持っていたのはもはや遥か昔だ。ここで話が終わっていればどんなに良かっただろうか。


「……はっ」

「今、意識が飛んでたな。いい感じだ」

「何もよくないでござるぅ。もうパンとカップラーメンの生活は飽きたでござる。野菜が食べたいでござる。野菜ジュース以外の野菜が欲しいでござる」

「日の光が……新鮮な空気が欲しい……」


 締切までのこり一週間を切っている今、余裕はまったくない。元々一日二十四時間勤務だったのに、それが増えるとはこれいかに。

 もう全員が授業には出ていない。落とすとまずそうな授業だけ出席し、後はサボりだ。僕にも大学五年生が見えてきた今日この頃。世の中のまともな人間が効いたら青筋立てそうではある。いや、それは今更か。


「ファイト、一発!」

「……なお本日五発目の模様」


 買いだめしておいた栄養ドリンクで無理やりエンジンを入れつつ、再びPCに視線を戻す。自分の息は薬臭いんじゃないかと思う余裕はない。どうせ指摘する人間もいない。栄養ドリンクと目薬だけが友達だ。

 やってもやっても作業に終わりはない。というか終わらせるたびに作業が湧いてくる。一の仕事が終わると五の仕事が生まれる。なんだこれ、バクテリアか何かか? 分裂しているのか?

 地図もコンパスも持たずに砂漠の中を彷徨っている気分だ。今自分がどこに立っているのかすら理解できない。ただただ太陽で乾くのを待っている気分である。オアシスはどこだ?


「人間、徹夜をすると感覚が鋭敏になり、いいアイデアやインスピレーションが降ってくる。しかしながら、クリエイターたるもの、できるだけこの状態に陥ってはならない。徹夜なんて、やらなくていいならやりたくないんだ!」


 やらなくていいならやりたくない。真理である。しかしやらなくてはいけないのでやっている。徹夜しようが食事を抜こうが腰が痛くなろうが仕事は止まらない。


「……うっぐ……ひっく……」

「泣くな歌子! 泣いたって作業は減らない! 体力を消耗するだけだ!」

「だってぇ~音声ミス発見しちゃって~! 台本捲る音が入っちゃってます~」

「大丈夫だ。一日は二十四時間もある。録り直すだけでいいんだ」

「わたしの~睡眠時間が~ひっぐ」

「泣くな。体力を消耗するだけだ。泣く暇があったらとっとと録音して、帰りの電車で寝ろ」


 もはや雪山で遭難したかのごとき言葉である。どんどん体力が削られ、今にも死にそうであることは一緒だが、全員室内なのでシュールさがすごい。

 限界だ。全員が体力を削り、どうにかこうにか動かしているものの、効率はどんどん落ちていく。見えない完成、迫る期限。進めたと思ったら、ミスが発見されて戻らされる。どんどんと精神が磨り減り、もはやゾンビよろしく進軍するしか道が無い。


「全員起立! 散歩に行くぞ! 全員財布と携帯だけ持ってこい!」


 締切が目と鼻の先に迫っているなか、部長はそう言って立ち上がった。しかし、僕らはそちらに視線を向けず、死んだ目でキーボードを叩いていた。


「部長! そんなことやってる暇ないですよぉ!」

「だからこそ! あえて! 遊びに行くんだ!」


 部長の謎の理論。しかしどういうわけだか説得力がある。


「締切まで一分たりとも無駄な時間は無い! それは確かだ! だからこそ! 遊ぶ!」

「意味が分かりません!」

「嫌なら作業しててもいいぞ!」

「誰が行かないなんて言いましたか! 行くに決まってんでしょ!」

「よく言った! それでこそ我が部員だ!」


 この作業から逃げられるなら些細なことだ。休めるなら何をしたって休む。むしろ休む大義名分を与えてくれたことに感謝の祈りを捧げよう。


「余裕は心のオアシスだ! だが我々に余裕はない。ならばどうするか」


 部長は勢いよく立ち上がり、その目を見開いた。寝不足のせいで赤く充血している。


「遊びに行くことで余裕があるように自分を誤魔化す! 自己暗示だ!」

「最低の手段だ!?」


 だがそんな最低の手段を使わねばならないほど切羽詰まっているのもまた事実。もはや催眠でもかけて脳を誤魔化さないとどうにもならないのは確かだ。


「それにだ! もしかしたらボクらが出かけている内に――」

「内に?」


 部長はまるで聖母のようにふわりと微笑み、鈴を転がすような声色でこう言った。


「――妖精さんが全て仕事を片付けてくれているかもしれないだろう?」


 あ、もうだめそう。ついに現実と空想の区別がつかなくなっている。優しい顔でファンタジーな存在のことを語る部長の顔色は土気色だった。


「そうですね!」


 だが悲しいかな。もはや僕もその言葉を否定するほどまともではないのだ。脳が混乱していて、物事の正しさなどどうでもよくなっている。


「どこ行くでござるか?」

「部屋から出られればどこでもいい。その辺の公園でもぶらつこう」


 同感だ。ここ以外ならどこでもパラダイスだ。なんなら真夏のビニールハウスの中の方が快適といって過言ではない。


「行くぞ! 映画、『大脱走』だ!」


 それは三分の二が捕まるフラグです、とツッコむ気力も無かった。ゾンビのように部長の痕を着いていく。

 外に出て初めに考えたことは日の光を十年ぶりぐらいに浴びた気がするということだ。それぐらい太陽は眩しくて、外の空気は美味かった。青い空がこんなにも美しい物だとは知らなかった。

 全員でスキップしながら青空の下を歩き回り、公園の芝生に寝転がる。


「いやー、仕事が終わった後のビールは美味いでござるな!」

「……作業終了! 最高!」

「なんとかなったねーははは」

「ゲーム作る楽しみはここにあるね」


 先輩たちは酒盛りを始めた。僕もジュースを片手につまみをもらいながらテンションを上げていく。雰囲気だけでも酔うには十分すぎる。

 もちろん仕事は終わっていないし、こんなことをしている暇はない。だが全力で自分に嘘を吐かねばならないときはある。それが今だ。

 ほんの少しの休憩ではあるが、全力で自分を騙す。幻影を見ろ僕。幻聴を聴け僕。現実を見ずに、錯覚を見続けろ。

 今日は日曜日、部活も授業も無い。作業は終わってゲームは完成して、後は打ち上げ行って終わりなんだ。もうPCの画面は見る必要はないんだ。もうテキストファイルを開いて文章をうちこむ作業はしなくていいんだ。やったこともない演出を手伝わされることも、音声のずれを延々確認させられることもないんだ。


「ほら見てごらん歌子。あそこにカモの親子が」

「ほのぼのしてますねー。動物を見ると心が癒されます」

「あははー」

「うふふー」


 あの二人を見習うんだ。池の上にはカモなんていないが、脳が幻影を創り出してリラックスしている部長と歌子を見習え僕!


「今日はお盆……。今日は正月……。今日はゴールデンウィーク……」


 なんか段々脳が麻痺してきた気がする。ああ、悦び。仕事が終わった後の達成感。僕はようやくあの辛い仕事を乗り越えたんだ。

 そうだ、今日は休みだ。安息日だ。神様は六日でエロゲを作り、余った一日は休んだんだ。つまり今僕らがやっていることは神に保証されたことなんだ。


「ハッピーホリデー!」

「ハッピーホリデー!」

「ハッピーホリデー!」

「ハッピーホリデー!」

「メリークリスマス!」


 謎の歌を歌い始める四人に僕も混じる。元の歌を知らないから手拍子と茶々を入れるだけだが、それでも気分が上向きになってくる。

 死んだ目をした大学生が真夏に何かよく分からない歌(おそらくエロゲ)を歌うこと約五分。


「……生きてるって素晴らしい」

「ああ、神よ。感謝します」


 こんなことで感謝される神様もたまったものではないだろう。神よ、残念ながら我々に安息日はありません。


「よし! 全員寿司でも食いに行こう!」

「おお~いいですねぇ。行きましょ行きましょ」

「仕事終了記念の打ち上げでござる!」


 何もかもが間違っていることを除けば大体正しいセリフを吐きながら僕らは歓楽街へと歩を進めた。気が大きくなっていたのか、一駅程度の距離にタクシーを使う。


「ちょっ、次郎殿! 最初から金皿は学生ではNGでござる!」

「……割り勘だろ?」

「ボクはアジとイカを」

「あ、唐揚げもらいまーす」

「歌子、寿司屋なんだから寿司を頼めって」


 こうして回転寿司で盛り上がり。


「……フルコンボだドン!」

「はぇ~次郎さん上手いですねぇ」

「友樹。この諭吉を百円玉に買えてきてくれ」

「やめなされ。クレーンゲームは金を吸い取る沼ですから」

「うーむ、この幼児向けポップコーン機、いつ見ても買っている人間を見たことないでござる」


 ゲームセンターではしゃぎ回り。


「すいませーん、生ビール五つ!」

「ちょ、部長! 僕ビールは……!」

「……代わりに俺が飲むぜ」

「拙者が飲むでござる」

「じゃあ二杯追加でー!」


 居酒屋をはしごし。


「じゃあ今から『エロゲ男性ボーカルメドレー』開始するでござる!」

「ほげぇ! 三作品ぐらいしか知らないです!」

「……質問、一つも知らない場合は?」

「アメイジング・グレイスでも歌えばいいでござる!」

「なんで!?」

「挿入歌でアメイジング・グレイスが流れるゲームがあったんだよ昔」


 カラオケで歌い続けた。


「……じゃあまた明日」

「バイバーイ!」


 こうして今日一日、見事なまでにリフレッシュを完了した。




 そして次の日。当然ながら現実がやってくる。一日かけて盛り上がった気分はどん底へと落とされた。上げて、落とす。心理学で何と呼ぶ現象かは知らないが、そのダメージの大きさは我が身で実感している。


「とてもつらい」

「知っている。とっとと続きをやれ」


 因果応報というべきか。昨日仕事をしなかった分は今日取り返すしかない。過去の負債は未来の自分が取り返すしかないのだ。八月三十一日に小学生が死ぬほど後悔することを、大学生にもなって感じるとは思わなかった。

 重い指を動かしキーボードを叩く。しかし全身が鉛のごとく動かない。机に突っ伏してぐったりとしている僕の背中を部長が叩く。


「もう一度あの気持ちを味わいたければ、仕事を終わらせるんだ」

「この飴と鞭……効き目があり過ぎる……!」


 一度知ってしまうと外が恋しくなってくる。囚人はこんな気分なんだろうか。ああ娑婆に出たい。新鮮な空気を吸いたい。そのためには仕事を終わらせなければならない。じゃあ頑張らなきゃ、という見事な論法によって無理やり頑張ることができるのだ。

 仕事から逃れるために仕事をする。見事な理論である。完璧すぎて口を挟む余地がこれっぽっちもない。問題としては死にたくなることぐらいだ。


「配給だ!」


 昼時になると戦時中がごとく食料が配られる。部長がコンビニで買って来た弁当やパンが机の上に広げられる。そこに僕を含む部員全員が跳びかかった。飢饉かよ。


「焼肉弁当は拙者でござる!」

「は? それは私の物ですよ。レディファーストです」

「……このチョコメロンパンは俺の物だ」

「次郎先輩、僕は先輩を後輩として尊敬したいと思ってます。だからその手を離してください」


 もはや全員のストレスはマックスで、食事以外に娯楽はない。いい歳した大学生が集まって数百円の昼飯を奪い合う。刑務所かここは。ちなみに今日は刑務所よりも不健康な生活しかしていないしできない。明日も明後日も同じである。


「全員仕事に戻れ! もう時間がないんだ!」

「時間なんて最初からないでござる!」

「だったら早くやるんだ! ほら、食いながらやれ!」


 どこぞの伯爵はゲームをしながら飯を食いたかったからサンドイッチを開発したらしいが、実に余計な物を開発してくれたものだ。おかげで僕らはご飯を食べながら仕事をしなくてはならない。


「ふおおお! 熱さまシートをおでこにピタコライズ! 脳みそウルトライズ! でござる!」

「……なんだ勝義っ!? 寝てないぞ、俺は寝てない!」


 無理矢理ハイテンションを作り出している勝義先輩と、明らかに寝ていた人間の動きをする次郎先輩にツッコむ余裕のある人間はおらず、無機質なキーボードの音とクリック音だけが響いていた。


「あ、ここ音声と文章がずれてますね。修正でーす」

「なんで見つけるんだ! 見つかっても黙っててくれればいいのに!」


 無茶苦茶言うな。見つけるためにチェックしてるんだから、見つかるのはいいことなんだ。


「くそぉ……。クオリティのためにはミスが見つかって欲しいが、自分のためにはミスなんて全て見逃したい。この二律背反」


 いいことなのだ、と自分に言い聞かせる。そうでもしないとこの仕事の存在価値を疑いそうだから。


「古今東西! 喫茶店を舞台にしたエロゲ!」

「はいはい僕の負けです! 何を買って来ればいいですか!」

「戦う前から降参なんて男らしくないですよ! このヘタレ!」

「ナニィ! そこまで言うならやってやろうじゃねえか! 部長、お題を!」

「タイトルに「*」が入ってるエロゲ!」

「千恋*万花!」

「英雄*戦姫!」

「ハナヒメ*アブソリュート!」

「――コンビニ行ってきます!」


 コンビニに走り、片っ端から栄養ドリンクを買ってくる。なんて悲しい買い物だ。


「買ってきました!」

「よし! 仕事に戻れ!」

「くそがっ!」


 文句を言いながらも僕は椅子に座る。そして仕事の続きだ。やった分しか終わらないのが仕事だ。そしてやらければならないのは残念ながら僕である。


 そしてやってきた最後の日。僕らは力なく椅子に、そして床に倒れ込んでいた。


「これだけの労働の対価が缶ジュース一本とは……」

「安心しろ。後十本はある」

「勘弁してくださいよ」


 薬っぽいドリンクを煽る。冷蔵庫に入っていたわけではないのでぬるい上、変に甘い。こんなもの一本で十分だ。が、疲れた体にはちょうどいい。生ぬるい液体が胃を落ち着かせてくれる。

 ようやくゲームが完成したことの歓びを身体で表現するほどの元気がない。できるのは薬っぽい液体を嚥下することだけだ。それすらも気怠いと思えるのだから、僕の身体はもう滅茶苦茶だ。これが本当に十代の肉体かと疑うほどだ。


「生きてるかー諸君」

「死んでまーす」

「……もう二度とプログラミングしない」

「………………」


 屍累々。力なく転がった人間があちこちに。誰も彼もが精根尽き果て、机の上で死んだように眠っていた。勝義先輩に至っては白目をむいてピクリとも動かない。死んでるんじゃないだろうか。

 終わった! やったぁ! と喜び合う元気もない。そんなことより寝かせてくれ、というのが本音だ。

 全身が鉛のごとく重い。関節が思い通りに動いてくれない。脳から命令が各神経に伝達されない。今地球の重力は十倍ぐらいになってるんじゃないだろうか。


「今日は休め。明日からはパッチの製作とアドオンの追加だ」

「……やだ」


 どれだけチェックしてもバグは出る。どうせプレイヤーから数個のバグ報告は出るだろう。進行不能になるほどのものはないだろうが、おそらく何かしらは絶対に出る。その作業が待っているのだ。

 けれどもこれで終わり。作品としての終点はもう超えた。一つの区切り。これでようやく家に帰って目覚ましもかけずに寝られる。

 そう思うと喜びもひとしお、ではあるが、残念ながらそれを身体で表すほど体力が余っていない。指一本動かせないほど疲れている。


「さて、ファミレスにでも行って宴会するか」


 全身の骨からおかしい音を立てながら部長が立ち上がる。他の人間は疲れからナメクジのような速度で立ち上がっている。僕も疲れで目が回って足元がふらつく。


「今ファミレスに行ったらドリンク混ぜて肌色作りそうでござる」

「……カロリー計算ツールとか作りそう。もう数値を見たくない」

「自分の声がどういうものだか分からなくなってきました。もう自分の喘ぎ声は聞きたくない……。コンフィグからボイス設定を選んでミュート……ってここ現実でした」


 僕も声を出す元気がない。眼を開ければデジタルな光が点滅していた。ああ、寝不足特有の視界。視覚の半分も情報が入ってこない。

 全員がのそのそと床で這いずり回る。毛布にミノムシのようにくるまり、芋虫のような速度で動く。


「ほれ、立て。蹴り飛ばすよ」

「……うう、あと五時間。ウゴッ! 本当に蹴る奴があるか!」

「ほら歌子も」

「勘弁してください。寝かせてください。うがっ!」


 一向に動かない部員にしびれを切らした部長が無理やり起こし始めた。男には蹴りで、女にも蹴りで。これこそ男女平等である。


「幼馴染ヒロインが暴力で起こすのは基本だろう?」

「……俺の知っている幼馴染は鳩尾に蹴りを入れない」

「それはよかった。新たな性癖が目覚めるかもしれないじゃないか」

「……そんなものはもう二年は前に目覚めさせている。今更だ」

「自慢することじゃないです……」


 相変わらずのやり取り。もう慣れたというか、自分の日常として混ざってしまった。


「ほら、勝義。起きないと鼻から栄養ドリンクとウォッカの混ぜ物捻じ込むよ」

「なぜ拙者だけ!?」

「ラッキーだね」

「幸運の定義がおかしいでござる!」


 ぶつぶつ言いながらも全員が起き上がる。ふらふらと足元がおぼつかないながらも、全員が二足歩行にようやく成功した。


「さて、正真正銘の終わりだ諸君! 遊ぶぞ!」

「やったー!」

「最高でござる!」

「……はよ寝たい!」


 一度体を起こすと目が覚めた。眠気を通り越してしまい、脳が覚醒した。部長が蹴り飛ばしたせいもあるが、覚醒には違いない。


「行こう! 念願の外だ!」


 部長が扉を勢いよく開く。すると外の明かりが入ってきて僕らの顔を照らす。数日ぶりの日光に僕らの目がくらみ――。


「あ、これ駄目な奴だ」


 そのまま全員が同時に床にぶっ倒れた。

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