変態ボーダーライン

 部室で作業している香苗部長を追いかけて扉を開ける。部長は誰もいない静かな部屋の中で、一人でキーボードを叩いていた。


「香苗さん! うちのシナリオライターについてお話が!」

「うちのライターはボクだけだ。ボクについての話ならここで聞こう」

「では言い換えます。うちの元ライターである友くんについてお話があります」

「ボクにはない。壁に向かって一人で話していろ」


 部長はこちらに興味を持っていない。ひどく冷たい目で見つめてくるだけだ。まるで氷柱のような目がほんの一瞬僕を見て、そして興味なさげに戻った。


「お願いします!」

「嫌だね! 約束を守らない男は発売日を守らないメーカーより嫌いだ! とっとと失せたまえ! 今なら殴らないでおいてやる!」


 それだけ言うと部長は椅子を回転させ、僕に背を向けた。交渉の余地などないと体全体で表現している。

 だが、僕にできるのは頭を下げることだけだ。何度も深々と頭を下げる。


「君の出番はない!」

「それでもやりたいんです!」

「もうボクは君抜きで書き始めたぞ!」

「それでもやります!」

「やかましい出て行け!」


 部長は靴を脱いで投げつけてきた。大した威力はないが、それは僕を敵として見ている何よりの証明だ。持ち主を失った靴が床の上を転がる。


「言っただろう、ここがボーダーラインだと。このボーダーラインを君は超える資格があった。けれどもその能力と覚悟がなかった。であれば君にこの部活の敷居を二度とまたぐ権利はない」


 扉のレール。そのたった一センチが、僕にとっての分水嶺で、何より高い壁だったのだ。僕はそのことに気付かなかった。簡単だ、なんて自分の力を過信して、こうして失敗の責任を部長に押し付けている。


「間抜けだよ君は。もう遅い。一度失った物は二度と取り返せない。覆水盆に返らずだ。時は撒き戻らないんだ。何もできない君は繰り返せない」

「分かってます。だから、もう一度始めさせてください。取り戻すのではなく、再び始めたいんです。水をもう一度盆に注がせてください」

「……君はどれだけおかしなことを言っているのか理解しているかい? 理解していないなら脳外科を勧めるよ」


 一度失敗した人間にチャンスなどない。だけれど、僕はそれを求めてしまうのだ。


「会社のために生きている社畜や、化粧と服にしか興味の無い女、履歴書の資格欄を埋めるために本を読むガリ勉、バイトのシフトと飲み会の日程調節が最大の仕事の馬鹿学生。そういうのになれなかった奴ら以上の馬鹿どもの集まりがボクたちだ。君は賢いんだ。そちら側に行きたまえ」

「だけど、僕もそんな普通の人間にはなれません。何にもなれない人間だと自負しています」


 今から適当な部活に入って、適当に勉強して、適当に就職する。そんな人間にはなれないのだ。書くことを、物語を紡ぐ楽しさを知ってしまったから、僕は捨てられないのだ。どれだけ下手でも、どれだけ失敗を積み重ねても。物語を書く生き方を選んでしまう。


「……どれだけ書いても、OKは出さないぞ」

「それでも、僕は書きたいんです」


 だって、書かなかったら、僕は僕でなくなるから。クリエイターは作らなくなった時に死ぬのだ。僕は、死にたくない。もう二度と死にたくない。もう嫌なのだ。白紙のテキストを前に何もしないのは。


「僕のシナリオを採用しなくてもいいです。読み終わったら消去してくれても構いません。だけど、書くのだけは許してください」

「一体何を言っているんだ君は?」


 部長が変なものを見る目で僕を見下ろす。当たり前だ。僕の言葉に筋道が通っていないことなど分かっている。だけど言わなくてはならない。


「僕はシナリオライターです。エロゲを作る変態です。変態の仲間でいたいんです」


 変態、という言葉は侮蔑の言葉だ。だけれど僕には眩しくて仕方がない。だって手が届かなかったから。馬鹿にして見ていた変態たちが羨ましくて仕方がなかった。


「でもここで書かなかったら、僕は変態未満です。馬鹿にもなれない、正真正銘のできそこないです。変態以下の人間に、僕は戻りたくないんです」


 大きく息を吸い込む。心から湧き上がる言葉を咀嚼もせずに口に出す。


「僕は変態になりたいんです。真面目にふざける、変態の一員になりたいんです」


 僕が初めてこの文芸部を訪れたとき、彼女はこう言った。真面目にふざけている、と。その言葉をここに来てようやく理解した。

 ここのメンバーは誰も彼も真剣なのだ。その欲望を、変態性を絶対に曲げたりしない。どんな壁だって壊すし、ハードルだって飛び越える。その先にある快楽を掴むためなら、困難なぞ蹴り飛ばしてしまう。


「ならば越えてこい。ここが賢者と変態のボーダーラインだ。正真正銘最後のチャンスだ。自分が変態だと、変態になれると思うのなら超えてこい」


 部長が指を僕の足元に向け、横一文字を描く。虚空に描かれた直線が、僕と変態の世界にある壁だ。


「誰でも変態になれるわけではない。変態には努力と覚悟が必要だ。興奮すること、興奮させることは多くの人間が思っているほど簡単ではない。力が無いなら帰れ、生半可な気持ちで入ってくるな。ボクはこの仕事に不純物を入れたくない」


 僕は不純物だった。ならば今、純粋な変態になれ!


「僕は、変態になります!」


 今ここに変態になることを宣言した。小さい部屋の中で、僕の決意表明だけが響く。


「あーあ、こんなこと言われてしまったら仕方がない」


 諦めたように部長は息を吐き、席を立って僕の襟元を掴んだ。


「ほら、立て。後三回、いや歌子は終わったから二回か。頭を下げなければいかんのだ。急ぐぞ。あのアホ男二人に謝りに行くんだ」

「許してくれるんですか?」

「阿保。許してなどいない。締切を破ったことは絶対に許さないが、もう一度チャレンジすることは許してやる。ただそれだけだ。せいぜい積み上げることだ」


 部長は僕にデコピンをすると、勢いよく教室の扉を開けた。


「変態になりたいと君は言ったな」


 はい! と答える。僕は誰にも恥じぬ変態になりたいのだ。自分の心を偽らない、この部活の仲間のような変態に。


「ならば叫べ。歓迎しよう。変態以外にこんなことができるか。人の目を気にして変態になれるものか。行くぞ、人生の、いや変態の道の先輩に着いて来い」


 部長は、柳田香苗は、携帯電話を取り出しにっこりと笑う。この笑顔を純粋に美しいと思えるぐらいには、僕も文芸部に毒されたようだった。




「いいことを教えてあげよう。エロなんてものはね、馬鹿が将来考えず欲望と情熱だけで作るから面白いんだ。赤本読んでる暇があったらエロ本を読む。履歴書書いてる暇があったら濡れ場を書く、取引先回るぐらいならコミケを回る。そういう馬鹿がいるから性産業は有史以来続いてきたのさ」


 カツカツ、と足音が廊下で反響する。部長の速い足取りは、何一つ迷いなく進んでいく。


「そもそも古代エジプトの壁画にすら春画はあった。メソポタミアにもだ。文明の発達において性産業は顔を覗かせることは珍しくない。技術というのは一に軍事、二に医療、三にエロだ。常にエロには最新技術が使われる。ビデオデッキの普及はAVが、パソコンの普及はエロサイトが担ってきた」


 文芸部、と書かれた見慣れた扉の前で止まる。部長は深呼吸を一度すると、その扉を蹴り開けた。


「諸君、元気か!」

「……どうした部長。シナリオを書いていたんじゃなかったのか?」

「やっぱり発売延期でござるか? それならどれだけ延期するか早めに決めてほしいでござる。発売日以降に発売延期発表とか笑えんでござるよ」


 勝義先輩と次郎先輩は部長の後ろにいた僕に一瞬視線を向けると、何事も無かったかのようにPCに視線を戻した。

 この二人にとっても、作品を作れなかった僕は興味の埒外にあるのだろう。ならば、再び興味を持たせるのが僕の役割であり使命だ。


「僕は、変態です!」

「………………お、おう」

「唐突な後輩のカミングアウトに絶句でござるよ」


 何か間違えた気がするがどうでもいい。これは僕の決意表明だ。僕が変態になったことは言わねばならないことだ。

 部長が一歩踏み出し、部室全体を指し示すように手を動かした。


「見ろ友樹、ここに集まった馬鹿どもを。全員将来の事なんかこれっぽっちも考えてない。目を血走らせて女体に興奮する変態どもだ。愚か者、馬鹿、阿呆、ろくでなしのうつけものの集団だ」

「ありがとうございます!」

「……あざ――す!」

「常日頃からエロゲのことを考え、デスクトップはエロゲのアイコンで埋まり、財布の中には新作の予約券が入り、カラオケではエロゲソングを歌う馬鹿どもだ」


 そうだ。ここにいるのは馬鹿ばかりだ。昔の僕ならそう思って他人事のように溜息を吐いていただろう。だけれどいつの間にか自分が馬鹿になっていた。それが正しい道なのだ。


「本棚はエロ漫画で埋まった。画像フォルダはエロ画像で埋まった。そして心はエロへの執念で埋まった」


 どん、と部長が拳を胸に当てた。それは自分の心を確かめるような動きだった。心に耳を傾ける動きだ。


「辛くて仕方が無くて、なんで自分はこんなことやってんだろうって泣きたくなることもある。エロゲ作ってるなんて誰にも言えなくて。面接官に学生時代頑張ったことを聞かれたら何にも答えられないさ。十年後、二十年後、何も残ってないかもしれない。こんなことなら資格の勉強でもやればよかったと悔いているかもしれない。会社の飲み会で学生時代の思い出を語ることすらできないかもしれない。もしかしたら記憶を必死で消そうと布団の上でのたうち回っているかもしれない」


 だけどそんなことは、僕らにとって些細なことなのだ。脳味噌を一バイトたりとも割いてやる必要のない些事だ。


「後先考えて変態になれるか! 馬鹿になれるか!」


 今を生きている僕たちにとって、何年も後のことなんて塵芥だ。考える意味もない。


「性とは心で生きると書く! ボクらは心に嘘を吐かない! 嘘を吐くぐらいならエロに素直に生きる!」


 ここにいるのは、この世で最も心に正直に生きている集団だ。その行動に恥は無く、思想に曇りは無い。止まることも、振り返ることもない。


「いいか、馬鹿になれ。世の中エロを低俗だ下劣だっていうがな、工場じゃエロは生産できない。下半身は正直だ。エロくないものには絶対反応しない。面白くないものを面白い振りはできても、エロくないものをエロい振りはできない。ちんこはこの世で最も正しいレーダーだ」


 すぅ、と部長は息を吸い、そして数瞬の間を空け叫んだ。


「断言しよう! 世界中の仕事が機械に置き換えられても、この仕事だけは無くならない! 手を変え品を変え生き残るに決まっている! なぜなら性癖は計算ではない! 統計ではない! 十人十色、七十億の性癖があるからだ!」


 七十億の性癖、そしてその中の五つがこの部屋にある。


「聞け同志たちよ! 世の中ではエロゲは斜陽産業だと言われている。既に全盛期は過ぎ、多様なメディアによりエロゲは衰退の一途をたどっている。十年後にエロゲは残っているのかなんて話題は誰もが思っているだろう。この二十年の間に一般ゲーム業界は大きく変わった。オンライン対戦、3Dモデル、多彩なアップデートにVRなんてものまで出てきた」


 そこで部長は一度言葉を止め、大きく溜息を吐いた。


「それに比べてエロゲ業界はどうだ! 音声付き紙芝居からほとんど進化していない! ちょっとボイスが増えて、絵が綺麗になって、UIが整っただけだ! 面白いシステムを開発した会社もあるが、大多数は取り残されている! エロゲは所詮紙芝居! 映像ほどの臨場感も無ければ、漫画ほどの躍動感も無い。あるのはやたらデカイ箱と使い道に困る予約特典ポスターと抱き枕カバーだけだ! ついでに時々設定資料集とCDも付いてくるがな!

 あのデカイ箱を見るたびに諸君は思うだろう! 置き場がないと! 特典ポスターを見るたびに思うだろう! どこに貼ればいいんだと! 抱き枕カバーを見て思うだろう! こんなの一枚あれば十分だと! どこに干せばいいんだ!

メーカーは分裂と解散を繰り返し! 一年二年の延期は当たり前! 体験版がいつまで経っても出ず! マスターアップ後に延期する! パースの狂った画像や使い回しも珍しくない! 続編を出さずにやれ豪華版だのやれ廉価版だのを売り続け! しまいには当時のスタッフが一人もいないのに続編を作り始める! 前作で好評だったライターが変わり! ブランドに愛想をつかす! いらない機能と無駄な取り組みによって容量と値段が増え! なぜか比例してバグも増える! ウェブラジオではどうでもいい内輪ネタを聞かされ! そのくせ開発ブログは更新されない! 3Dなどの領域に手を出しては! よく分からないキャラクターが量産される! グッズを大量に作り始め! ゲーム会社なのかグッズ製造会社なのか分からなくなった会社がいくらある!

 OPだけはいい! キャラデザはいい! 音楽はいい! そんな言い訳をどれだけ自分の心で繰り返そうとも、眼の前にあるゲームはクソゲーなのだと知ってしまう! なんだこれは! こんなものに自分は一万円を払い、数か月前から予約券を買ってワクワクしていたのかと後悔する! 最初からCDだけ買っていればよかったと後悔した回数は覚えていない! 客のことを考えた良いメーカーに限って潰れ! クソゲーメーカーに限って続編を出す! マーフィーの法則もいい加減にしろ!

 ワクワクして買いに行った続編が! 前作の努力を無かったことにする! 数年の延期によって待たされたワクワクは! 延期してまで何を作っていたのかと溜息を吐かせる! 製作期間何年という煽り文句は! もはやどれだけ企画を放置していたかの指標にしかならない! 意味深な伏線と共に壮大に風呂敷を広げ! それを畳めずにエンディングに突入することなど日常茶飯事だ!」


 長い長い演説の中、ここで部長は一度息を止め、数秒の静寂を作った。そして静かに、低い声で語り始めた。


「これがエロゲ業界だ」


 部長は両拳を机に叩き付けた。振動でカタカタと机の上のペットボトルが揺れる。


「我々が進む世界はこんなものだ! この程度だ! いつまでたっても進化しない、ふざけた業界だ!」


 そして再び声が止まった。ほんの数秒の静寂。だけれども加熱した僕らの熱気が行き場を失って、身体の中に溜まるには十分な時間だった。


「だから、我々が変えよう」


 沈みかけの泥船だろうが、終わりの見えたコンテンツだろうが関係ない。僕らは好きだからここにいるのだ。前へ進むのだ。


「この世界に我々のゲームをぶつけてやる! 老害を、懐古厨を気取る暇があったらこれをやれと! エロは日々進化するのだと! 無能を全員蹴り飛ばし、栄光の道を突き進んでやる!」


 僕らは笑う。獰猛な笑みを浮かべて、噛みつく先を探して牙を見せる。討ち倒す敵は誰だ? 消費者か? 制作者か? どっちもだ!


「こんなもの、誰でも作れる!? じゃあ作ってやろう! 最高のゲームを! ボクらのやっていることを見て、馬鹿だなと、くだらないと笑うやつもいるだろう。だがな、ボクらはエロゲを作ったんだと胸を張れる! 勉強だって運動だってできないが、このゲームだけは、このROMに収まる数GBだけは自分で決めて自分で作ったんだと大声で言える!」


 そうだ。僕らは何もしないわけじゃない。作るんだ。たった一枚のROMの中に、僕らの情熱の全てを込めるんだ。馬鹿で変態で駄目な僕らは、一枚のディスクに全てを込めるんだ。


「君らは何者だ!」

「変態でござる!」


 勝義先輩が椅子から立ち上がって手を突き上げた。


「変態は恥か!」

「私たちは恥じません!」


 歌子が拳を握りしめる。


「エロは大好きか!」

「……大好きだ!」


 次郎先輩が今まで聞いた事のない声量で叫ぶ。


「『ピ――』か!」

「『ピ――』です!!」


 そして僕も、普段なら絶対に口に出さない言葉を思い切り叫んだ。


「エロ!」

「エロ! エロ! エロ! エロ!」

「エロ!」


 僕は声を張り上げる。まるでロックバンドのライブか何かのように喉から声を振り絞り、必死に叫ぶ。大学の一室でエロという言葉の大合唱がうねりを上げて響かせる。

 これは熱気だ。夏に入りかけた小さな場所で、僕らの熱意が轟々と燃え上がる。行く手を阻むものを全て焼こうと熱を撒き散らす。


「現在スケジュールはキツキツどころかボロボロだ! 穴だらけでどうしようもなく、正直ただ一分の余裕もない! しかーし! 我々は客を裏切らない! 誰かのちんこを裏切らない! 約束通り、発売日当日に売ってやろう!」


 部長の一声で部屋が静まり返り、そして数秒後に全員が反対の声を上げた。溜まった熱気が悪いほうへ弾けた。


「無理でござる! 今必死こいて色塗ってるでござるが、絶対間に合わんでござる! というかシナリオがないのに何の原画を描けと!?」

「こっちも……。バグ見直す時間が無い……。ていうか組込む素材がねえ。そもそも演出は速度を上げろと言われて上げられるものじゃない。最終的には時間とマンパワーだ」

「私まだ音声撮ってないんですけど? チェックしてる時間、全然ないですけど? 音声は二倍の速度で録れないんですけど?」


 次から次へと反対意見が出てくる。そのどれもがもっともで、あまりにも正論だった。何をどう考えたって、現実的には延期するのが最善なのだ。

 飛んできた言葉を咀嚼するように部長は頷きながら聞き、そして口を開いた。


「君たちにも言いたいことは色々あるだろう。――だがこう返そう。何とかしろ!」

『なるわけねえだろォ――ッ!』


 全員が異口同音に叫んだ。続いてあちこちから文句と罵倒の声が上がる。馬鹿、不可能、ブラック上司。部屋の中で反響するそれらの言葉を、部長は机を叩くことで止めた。


「するんだよ! ディレクターの仕事は二つだ。無理難題を出すことと、文句を言う部下を黙らせることだ。ほらやれ!」

「末代まで恨んでやるでござる」

「安心しろ。二次元にしか興奮できない以上ボクで末代だ。子孫などできない」

「……死ね!」

「ボクが死んだらその日から次郎がプロジェクトリーダーだ。OK?」


 クソがっ、と吐き捨てて次郎先輩はパソコンに向き直る。

 香苗部長は文句を言い散らす部員に対し、一度咳ばらいをし、そしてこう言った。


「こうなったのは全て、仕事を受け持ちながらほっぽりだし、その上今更戻って来たこの男が悪い。正直ぶっ殺してやりたい。しかし、彼を百回殴ったところで時間が百秒巻き戻るわけではない。君らがやるしかないんだ」

「すみません! 自分のせいで先輩方には……」


 僕は土下座する。何も差し出せない僕ができる最大の手段である。


「……ふざけんなボケ!」

「ちょ、待っ!?」


 三人が殴りかかってくる。蹴り飛ばされ、殴られ、関節技を極められること数分。僕は悲鳴を上げながら床をタップすることしかできなかった。

 三人はすっきりした顔で息を吐くと、僕に手を差し出しながら微笑んだ。


「後輩一人のケツ拭えないほど、拙者無能ではありませぬ。こちとら先輩でござるよ? 年上でござるよ?」

「……ふん。俺は通常の三倍で動く男だ。後輩一人抱えたところで人以上に働くのは変わらん。むしろいいハンデだ」

「かわいい後輩くんの初仕事。ミソつけるわけにもいけません。頼れる先輩っぽさをアピールしなければいけません。私、頼れる先輩キャラ以外は先輩キャラだと認めない主義なので」

「じゃあ殴る必要ありました!?」


 殴られ損じゃん! 最初から後輩に対する優しさを見せてくれよ。なんかいい先輩を気取っているが、正直手遅れである。


「……ま、学生の間にできるだけ無茶しておこう。見てるか世の社畜共。趣味に徹夜できる学生の姿を……羨ましいだろ!」

「おっぱいを描きながら寿命を削る! 絵師にとっての本望でござる! 肌色の多さがエロさではないことを知らしめてやりましょうぞ! ビバ着衣!」

「楽しいですねぇ。仲間とやるならやっぱり高難易度ゲーに限ります!」


 部長は倒れた僕に手を差し出してきた。他の三人も笑いながら、いや獣のように歯を見せながら僕を見つめている。


「楽しいな! 人生においてここまで楽しいことはないぞ!」


 ここが、こここそが快楽の行き着く果てだ。人間の原初の快楽。エロを求め、磨き、研ぎ澄まし、鍛造する場所だ。


「諸君、頭に自分がやった中で一番面白いエロゲを思い浮かべろ」

「メイドメイドメイド……」

「ロリロリロリロリ……」

「妹、姉、妹、姉……」


 怪しい宗教みたいになってる。しかも全員煩悩だらけだ。ぶつぶつと下を向きながら自分の性癖を呟くさまはちょっとしたホラーである。

 僕も目を瞑る。やったゲームで一番面白い物。先輩たちに勧められて色々やった。面白い物も、つまらない物もあった。


「そのゲームをやったとき、どう思った? 楽しかっただろう? 面白かっただろう?」


 僕が知る最も面白いゲームは決まっている。この場所に初めて来たとき、手渡された一つのゲーム。僕を殴りつけたあのゲーム。どこまでも楽しくて、面白くて、世界に引きずり込まれた。

 レディ、レディ、レディ。あんなゲームを作りたいと僕は思った。あんな風に誰かの心を動かしてみたいと思った。

 必死に追いつこうとした。たくさん学んだ。学べば学ぶほど自分とはかけ離れていることを認識した。自分の力の無さに絶望しかけた。

 でもこれはゲームだ。シナリオとイラストと音声とプログラムが合体したのがゲームだ。だったら僕が一人で作る理由などどこにもない。頼れる先輩が、仲間がいるのだから。

 目を瞑って深呼吸。数秒後目を開くと、部長がしたり顔で仁王立ちしていた。間違いなく、今まで最も頼もしい姿だった。


「それを超えるぞ」

「はい!」


 最高の作品を作る。ただそれだけのために僕らクリエイターは生きているのだから。


「諸君! プランBだ!」


 部長がホワイトボードに大きくBと書く。皆も自信ありげに頷いている。


「プランBとは?」


 僕は知らないが周りを見るにすごい作戦なのだろう。この状況を打開できるようなプランが部長にはあるらしい。部長がバン! と大きな音を立ててボードを叩いた。


「Aは予定通りに進行し締切を守る。Bは予定通り進行できなかったが締切を守る。Cはない」

「Fooー! 最高の作戦でござる!」


 つまるところ作戦などなく、無理を通して道理を蹴飛ばせということだ。実にこの部活らしい。


「やることはいくらでもある。まずは買い出しからだ。スーパー行って食べ物と飲み物を大量に買ってこい。警備の人間に追い出されるまで作業だ!」

「追い出されたら帰っていいのでござるな!?」

「いいわけないだろ! 家でも作業しろ!」

「ブラックすぎるでござる!」

「ホワイトなゲーム制作なんてあるわけないだろ現実見ろ! 二十四時間勤務のフレックス制だ! しかも週七シフトだ、好きに入れていいぞ」

「実質一択じゃないですかやだー!」


 とてつもないブラックシフトが目の前で組まれていく中、僕はなぜだか笑っていた。辛いことがこれから待っていることを知っているのに。どういうことかワクワクするのだ。


「友樹。いいことを教えてやる。予定が遅れることを業界用語では予定通りと呼ぶんだ」

「どこの業界ですかそれ……」

「同人業界だ。同人誌、同人ゲーム、同人音楽。あらゆる物の制作が、予定通りに行くことなどまずない。むしろそれが普通だ」

「今までも遅れることはあったでござるが、今回ばかりはマジで無理でござる!」

「そういう状態のことを業界用語ではやや遅れと呼ぶんだ。つまり! 許容範囲内だ」


 同人製作者の締切に対する器は海よりも広い、ここテストに出るぞ、と部長は僕の肩を叩いた。


「頼んだぞ、シナリオライター。ここからは君の仕事だ」


 その手は温かかった。熱が、エネルギーがその手から伝わってくるような。そんな感覚にさせてくれた。


「さて、ここからは現実のターンだ。現実的に期限を守るとして、どれぐらいのクオリティになる」


 部長がそう尋ねると、全員が黙り込み頭の中でそろばんとカレンダーを弾き始めた。


「シーンの差分は一部削るでござる。立ち絵が二枚ぐらい減るでござる。あとは……イベント絵もそうでござるな。CG全部を誤魔化し誤魔化しやっていくしかないでござる」

「……演出はかなり弱くなる。どうやっても時間的に無理だろう。バグを修正する時間も無い。フリーズのような致命的な物を浚って、後は客にデバックしてもらうしかないな。デバッグに必要なのは人手と時間だ。それがないのはどうにもならん。ノベルゲーだからそれほど致命的ではないが……納得がいかん」

「声に関してもだいぶ難しいです。チェックと撮り直しをする時間がおそらくありません。一部ボイスが入らないかもしれません。最悪後日パッチ配布ですね。というかボイスの収録は早くしようと思ってできることじゃないですし。早口言葉で喋っていいなら別ですけど」


 シナリオは土台であり柱だ。完成しないことには窓も屋根も付けられない。土台が無い以上、どうしようもない。その土台を崩した戦犯である僕に全員の視線が集まる。


「文章は突貫工事させれば明後日には上がる。そこからならどうだ」

「……それでもキツイな。それで完成じゃなく、そこから修正やらなんやらあるんだろう? しかも香苗がシナリオを付け加えることも考えると、スタートはもっと遅いはずだ。締切を考えると……過労死ラインはぶっちぎりだな」

「スタートの遅さは速度で補うしかない。こっちも出来る限り最速で書く」

「結果次第でござる。そちらが最速を約束してくれるなら……拙者も全速力で描きましょうぞ。最良を尽くしてくれるならこちらも最良を尽くすでござる」

「やればできる、か」


 やればできる、ただそれだけのこと。逆に言えばやらなければできない。そしてそれは僕のやるべきことだ。


「やろう、みんな。やれるべきことはやるんだ。エロを作ろう」

 心に耳を傾けよう。正直になろう。欲望を生み出そう。それはきっと、僕らにしかできないことだから。

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