ピリオド

「くそ……」


 行き詰って動かない。テキストは真っ白なまま、一文字も進んでいない。そんな状態がもう一週間以上続いている。もはやカレンダーに書きこまれたスケジュールはただの落書きと化した。

 真っ白なテキストを前に、僕は役にも立たないエナジードリンクを嚥下する。脳味噌の中では色々なアイデアが浮かぶが、どれも形にはなりそうにない。

 ダメだ、どれもこれもダメだ。自分の無力さに溜息を吐く。僕はこんなに無力だっただろうか。


「……」


 無意識のうちにスマホに手を伸ばす。どうする? 部長に助けを求めるか?


「ちっ……」


 それを止めたのはプライドか、それとも別の何かか。僕はスマホをベッドに放り投げ、無意味にエロゲを起動させる。そしてタイトル画面が映ったところで消した。何の目的もないただの手遊びだ。

 今書いている物が面白いのか、つまらないのかすら分からない。五里霧中。地図も無くコンパスも無く、霧の中を彷徨っている気分だ。


「はぁ……どこが面白くないんだろう」


 それが分からないから苦労しているのだ。駄目なところが正確に分かるのなら、物事においては苦労など無い。どこが駄目か、どうすればいいのか全く分からない。


「エロの再確認、か」


 自分の性癖、他人の性癖。何がエロくて、何がエロくないか。それを分かっていないからこんなに文章がつまらないのだろうか。自分のことが分からない人間には、何も書けないとでも言うのだろうか。


「僕の性癖、その根幹」

『例えばボクはケモナーだ。けれどもそれはケモノに興奮しているわけではない。ケモノの持つ様々な要素、背徳感であったり非日常感であったり、人間との違いや体毛に対する欲求だったりだ。これを理解しない人間が作った、例えばケモノ娘がただ裸のイラストがあったところでボクはまったく興奮しない』


 いつか部長が言っていたことを思い出す。あの人が作った作品が面白かったのは、性癖を理解し、向き合い、そして表現したからだろうか。ゲームに正面から向き合って、ただひたすらに自分を磨いたからだろうか。


「ちょっと見るか……」


 うちの文芸部のホームページを開く。十八歳以上の人間であるとクリックし、昔の作品一覧を見る。そこから体験版をダウンロードした。香苗部長のペンネームが載っている作品だ。

 部長が一番最初に作った作品。僕はそれをオートモードで眺めながら、漠然と見つめていた。

 所々がたどたどしい。描写に分かり辛い所があるし、視点のずれがあって感情移入ができない。ヒロインの可愛さもよく分からない。動きがテンプレというか、どこかで見たような可愛さをわざとらしく見せてくる。

 エロシーンも無闇に喘ぎ声を上げるだけで、どこか作り物の気が抜けない。わざとらしいというか、フィクションらしい。どうしても演技っぽく見える。


「ははっ……」


 部長らしくもない。彼女はもっとすごい物を書く。もっとしっとりと、それでいて官能的に。僕たちプレイヤーを世界に没入させ、空気に馴染ませる。感情移入させ、投影させ、ゲームが終わった後に息を吐かせる。


「下手くそだなぁ……」


 例えるなら、僕のような下手さだった。

 だけど、部長は突き進んできたのだろう。エロが好きだから、物語が好きだから、可愛い女の子が好きだから。エロゲを愛したからこそ、絶対に止まらなかった。真摯に向き合い、自分の駄目さに向き合い、どうすれば面白くなるかを毎日考え続けて。


「僕よりずっとおもしれーや」


 二作目、三作目と続くにつれどんどん文章は磨かれていく。鋭く、深く、そして耽美に。どんどん成長していく。それを見て、僕は泣きそうだった。

 僕と何が違うんだ。僕はどうして彼女になれないんだ。

 どうして、と思う。そんなの当たり前だろ、とすぐに答えが出る。

 だってそれは――。




 その日は土砂降りだった。まさしくバケツをひっくり返したような大雨で、外を歩く人たちは傘を片手に無理やり帰るか、雨宿りをするか悩んでいるようだ。

 灰色の雲で埋め尽くされた空の下、ぼくはいつもの部室に居た。そこにいるのは香苗部長だが、僕は完成品の原稿を見せに来たわけではない。むしろその逆だ。


「よく受験のストレスに耐えかねた中学生や高校生が言うね。『勉強なんて何の意味があるんだ』と、『こんなの日常生活で使わない』とね。それには残念ながら世の中の大体の人間が同意するだろう。日常生活でレ点を見ることもなく、微積分をするわけでもない。原子が何と結合しようが知ったことではないし、歴史を現代で生かすことも生かしているところも見たことがない。ではなぜこんな非効率的なことをやり続けているかというとだ、宿題というものを通して生徒の発想力や持続力などを鍛えているわけだ。解くための思考力や想像力、分からなければ調査力や人に尋ねるコミュ力、長期休みの宿題では予定を組む力や持続力を養っている」


 本題に入ろう、と部長は僕をじっと見つめた。冷たい静寂が部屋の中を包む。早く終わってくれ、と僕は視線を下に落とすことしかできない。


「この日まで、と期限が決まっていたらその日までにやってくるのは当たり前だ。こんなことは、小学生の頃から分かっていたことだろう? 当然君も分かっているはずだ」


 そこまで一気に喋って部長は手元のお茶に手を伸ばした。


「さて、では完成していない理由を聞こうか、シナリオライター」


 香苗部長が、真っ直ぐに僕を見つめていた。


「ボクとてこんな嫌な上司の見本のような怒り方はしたくない。だが、これは君の作品であると同時にボクの作品であり、この文芸部全体の作品でもある。ボクも慣れていない叱責をせねばならない」


 怒っているのだろう。そんなことは誰だって分かる。だけどどう弁明すればいいか分からない。何か言わなければならないのは分かっているが、何の声も出てこない。


「だからとっとと終わらそう。作品はどうした、そしてこれからどうする」

「……僕には、書けませんでした。何をどう書いても面白いと思えなくて、進んでも進んでも駄作にしか見えなくて」


 僕は何を言っているのだろう。ただの言い訳が、みっともなく僕を汚していく。やめろ、止まってくれ僕の口。恥の上塗りをする必要などどこにもない。ただ黙って怒られていればいいんだ。頭を下げるだけでいいんだ。


「君にそんな傑作は求めていない。最初に言っただろう。君に一大ヒロイックサーガなど求めていない。何年もかかるような重厚な作品などいらない。一年かけた傑作より、一か月でできる凡作だ。ボクたちが求めているのはそれだ」


 部長はひどく冷たい目でそう言った。


「甘えるな。これは商売だ。芸術作品ではない。君はクリエイターであってアーティストではない。君が生み出すのは商品だ。ゆえに優先度が存在する。一に完成すること、二に面白いこと、三に面白いと思ってもらえること、四に売れることだ。君はまだ一にも達していない。そんな君が先のことを言うなど、笑えるな。君は客に言うのか。絶対に面白いから一年待ってくれと。発売日を楽しみにしている人間に我儘を通すのか。いいか、同人ゲームなんてのはちょっと風が吹けば沈む泥船なんだ。信用が無いと思われればもう誰も買わなくなる。なんせ代わりはいくらでもいるからな」

「商業でも延期することなんてよくあるじゃないですか。だったら僕らがしたって……」

「よそはよそ! うちはうち! 馬鹿か君は! 小学生でも分かることだろう!」


 どこかの誰かにとってできなかったことは、自分ができないことの言い訳にはならない。そんなことは分かっていて、分かり切っていて、だから僕は声を荒げてしまった。


「だったらどうすればいいんですか! つまらないものを売るのが商売ですか! 楽な商売ですね!」

「つまらなければ指摘してやる! 間違いがあれば直してやる! どうすれば面白くなるか一緒に考える! だけどまず原型が上がらなきゃ何にもできないんだよ! ボクたちは今まで下手な物を多く作って来た! 中には記憶から消したいような物もある! けれども客はどこがつまらないかを言ってくれて、それを次に生かせる!」

「だけど……!」

「これは仕事だ! 納期が決まり、売り上げによって給料が出て、それぞれ役割が振られる! ならば君には責任が発生する! 期日までにテキストを書いてくるという責任だ! ボクたちはクリエイターだ! 創る人間だ! 創れなかった人間は無価値だ!」


 その言葉は僕にとってとても残酷だった。今の僕の全てを否定しているのと同じだ。だって僕は作れなかったのだから。頭の中がもやもやで埋まってどうにもならない。そのもやもやが反射的に口から出た。


「先輩は才能があるからそんなことを言えるんです! 僕には先輩みたいな作品を書ける才能なんてないんです! どうしようもない凡人なんです!」


 初めてエロゲをやって、こんな作品を作りたいと思った。流れるスタッフロールを見て、この人のようになりたいと思った。部長のいる場所に自分も行きたいと思った。

 でも僕には無理だった。苛立ちが、むかつきが、絶望が、嫉妬を全て口からぶちまける。まるで吐しゃ物だ。二日酔いの人間が吐くゲロと変わりない。


「だって全然分かんないですよ! 何を書いてるのか、どうやったら書けるのか。僕だって頑張ってるんです! でもできないんですよ! 仕方ないじゃないですか!」


 書いては消して、書いては消して。自分の何が悪いのかを何度も探した。部長の書いた文章と何が違うのかを確かめた。でも見つけられなかった。

 僕には何かが足りなくて、欠けていて、失っているのだろう。僕には無くて、彼女にはあるもの。深い溝を形成する謎の何か。

それは才能だ。僕には才能が、力がないのだ。面白いものを作る才能、エロいものを作る才能、人の感情を動かすものを作る才能。そうに決まっている。そうでなきゃ僕は――。

 そんな、行き場の無い言の葉を僕がぶつけると、部長はうってかわって静かになった。


「君は、今才能って言ったか……?」


 ゆっくりと、それでいて決して間違いの無いように言葉を紡いでいるのが分かる。

僕をぶん殴りたくて震えているのだろう。


「だったら君はこういう仕事向いていないよ。もうやめたほうがいい」


 部長は僕の胸倉を掴み上げた。彼女の切れ長の目はいつもの気楽なものではない。今にも僕を切り裂こうとする、ナイフのような眼だった。

ぎりぎりと僕の襟が締め上げられる。それは、部長が本気で怒っていることの証左だった。彼女の細腕からは信じられないほどの力が籠っている。


「今まで書いてきて、ほんとに作家に才能がいるって思ったのか? 君が成功しない理由は才能がないせいだと本気で思っているのか? ボクと君の差は才能か? ボクが書けて君が書けない理由は生まれで決まっているのか?」

「それは……」

「ボクたちの作品を、そんな言葉で片付けるな!」


 部長が声を張り上げた。決して大声ではないのに、僕の身体はフッ飛ばされそうになった。びりびりと鼓膜が震える。


「勝義も次郎も歌子も、もちろんボクも。才能のせいにしたことも、おかげだと思ったこともない。無我夢中で進んできただけだ。一つずつ積み上げてきたからこそ、ゲームになった」


 そんなことはとっくに分かっていたはずだった。ただ僕はそれを認めたくなくて、誰かのせいにして、自分のせいだと思いたくなかったのだ。


「ゲームは正直だ。やった分しか進まないし、力を込めた分しか面白くならない。ボクらには金も技術も無い。だから努力でいつもどうにかしてきた。できないことはできるようにするしかない。できないことを放っておいても、残るのはできない自分だ」


 勝義先輩の擦り切れた教本を見た時、部長の表面が削れたキーボードを見た時にそんな簡単なことは分かっていたはずなのだ。

 0と1の積み重ねがプログラムを作り、ドットの積み重ねが絵を作り、文字の積み重ねがシナリオを作り、声の積み重ねがボイスを作る。そんなことは分かっていたのだ。


「ボクたちに必要な才能は三つだけだよ。書き始める才能、書き続ける才能、書き終える才能。それだけだ。それ以外は誤差だ。あろうがなかろうが一緒だ。そしてその才能は誰でも持っているものだ。もちろん君も。……知らなかったようだがね」


 部長は僕の肩を掴んだ。ギリギリと布に皺が作られる。


「そこでそうやって他人のありもしない才能を羨んで死ね。責任を他者に追い求めて死ね。自分に幻想を見て死ね。ただ運が無かっただけだと、環境が悪いのだと、ただ他とは才能が違うのだと、自分は本当は出来る人間なのだと、本気を出していないだけだと、正しく評価されていないだけだと。死ぬまで勘違いし続けろ。だったら幸せだろうから」


 部長が僕の肩を突き飛ばす。それは明確な拒絶のサインだった。僕という存在を拒み、不必要だと判断したのだ。もうシナリオライター橋上友樹という存在は、ディレクター柳田香苗にとって路傍の石より無価値な物と化した。


「君とボクらは友達になれても、仲間にはなれなかった。さようなら。もうボクが、ボクたちが君に求めるものは無い。それじゃ」


 縁が切れた。今この瞬間、僕と文芸部の道は別れた。何もできなかった僕と、何かを成し遂げた彼女らに。二度とこの道は交わらない。

 足の力が抜け、僕はその場に座り込んだ。それはとても情けなくて、立ち上がろうとしたが足は震えたまま力が入らなかった。


「みじめだな、僕は」

「説教、終わりましたか? 私、ああいうの見るのも聞くのも好きじゃないんで避難してましたけど」


 扉を開けてひょっこりと歌子が顔を出す。いつもはムードメーカーの彼女も、今は真面目な顔だ。


「自分では頑張ってたつもりなんだけど……駄目だったよ」

「はい?」


 不思議そうに歌子は首を傾げた。


「この前言いませんでしたか? 同人活動なんてものは熱意によってのみ成り立っていると。だったら努力するのは当たり前です。それにユーザーは別にクリエイターの努力なんか見ませんよ。『製作時間何時間!』なんてむしろ痛々しいだけです。努力とは結果ありきです。結果が良くて初めて『スタッフ努力したんだな』って言われるんです。どれだけ努力してもクソゲーには言われません」


 そんなことは分かってる。だから言わないでくれ。努力よりも結果が、結果が無くては意味がないことなどこの二十年弱で痛いほど分かっている。


「小学生の宿題でもなければ、サラリーマンでもありません。私たちはクリエイターで、作っている物は同人ゲームです。努力とは結果に対する褒賞としてのみの言葉です。結果を出せなかった人間の努力は、ただの無能の証明です。それだけ努力してもなお結果を出せないという、自分の能力の無さを晒しているだけです」


 やめろ。やめてくれ。

 歌子は僕の目を覗きこんだ。水晶体に僕の顔が映る。どうしようもない間抜けの、半泣きの姿が。みっともない間抜けだ。


「友くん、もう一度訊きます。努力がどうしました? 頑張ったね、と頭を撫でられるのをお望みなら、自分の母親にでも泣きついてください。私たちはそんなに優しくないです。この部活は仲間ではありますが、保護者ではありません。傷の舐めあいをするほど暇じゃないので」


 僕の口から乾いた笑いが漏れる。とんでもない追い打ちだ。慰めてくれるなんて思っていなかったけれど、こうもタコ殴りにされるとは。


「そもそもどうして友くんはライトノベル作家になろうと思ったんです? 前から不思議だったんですよね。あんまりそういうタイプには見えないので」

「それは……」

 どうしてラノベ作家を目指したのか。僕がこの世界に入るきっかけ。僕はそれを思い出していた。忘れたくても忘れられない記憶。


「僕の学校では、いじめがあったんですよ」


 今でも鮮明に覚えていることだ。おぼろげな幼少時代の、数少ないくっきりとした記憶。嫌でも脳に染みついた想い出だ。


「いじめられていた子はオタクでしてね。だからこそなのかは分かりませんが、とにかくいじめられてました」


 小突かれたり、無視されたり。よくある話、どこにでもある話だ。今更珍しくもない、いじめっ子といじめられっ子の話。そして僕はどちらでもなく、傍観者だった。


「でも僕もオタクだったんです。いじめられっ子の同類、いつ矛先が向いてくるか分からない対象でした」


 怖かった。視界の隅にいじめが映るたび、来ないでくれと願っていた。ただ自分が目を瞑っているうちにどこかへ行ってくれと望んでいた。


「世の中の大人たちはいじめを見逃すなって言いますけど、そんなの無理ですよね。だって助けたら次にいじめられるのは自分で、そうなったら何をされるかをずっと見せられてたんですから」


 僕は正義のヒーローではなかった。ただただ隅っこで、自分にその拳が飛んでこないことを祈るだけの臆病者だった。それはただの祈りだ。神にでも祈るかのように僕はただ目を瞑っていた。

 主人公ならそのいじめを止めるのだろう。なんならいじめっ子と殴り合いの喧嘩でもするかもしれない。でも僕はそうじゃなかった。ただ震えているだけだった。誰かのために自分を犠牲にするような、高尚な精神を持ち合わせていなかった。


「だから必死でした。絶対オタクがバレちゃいけない。そのために興味のないバンドやアイドルの情報を仕入れて、やりたくもない部活をやって、話したくもない奴と友達になる。そんな息の詰まる生活をしていました」


 少数派になってはいけない。常に多数派の中にいる必要があった。だから常に空気を読む。賛成に回るべきか、反対に回るべきか。自分はどのポジションにいるべきか。まるでゲームのように――まったく楽しくはないが――自分の立ち位置を調整する。そうやっていじめられないよう僕はずっと生きてきた。

 CDショップや書店に行っても、買うのは自分の好きな物ではない。今流行っている物、これから流行りそうな物。それらを義務的に買い、義務的にインプットする。それが僕の生活だった。


「中学生の頃、ライトノベルっていうのに興味を持って、でも買えなかったんです。誰かに見られてたらどうしよう、女の子が表紙の本を握り締める僕を見られてたらどうしようって。だからわざわざ休日には自転車漕いで、隣の市でラノベ買ってたんです」


 どこまで行っても僕の行先は真っ暗だった。けれどもそこから脱出しようとはせず、ただ怯えていた。大多数が進んだ道を後ろから着いて行けば排他される心配はしなくてよかったから。


「毎日退屈でした。だってどれもこれも僕の好きな物でも、楽しい物でもなくて。ただ自分を型に押し込むだけの存在だったんです。布団の中で親にも隠れて読む一冊のラノベだけが、僕の楽しみでした」


 どこまでも広がる灰色の世界。何も知らない他の人間からは楽しいバラ色の世界に見えていたのだろうか。いや、そんな考えに意味はない。他でもない僕が、これっぽっちも楽しくなかったから。本一冊読むのにも怯える、哀れな子供だったのだから。


「ある日、僕の隣の家に住んでいる人が漫画家を目指してるって知りました。仕事を辞めてフリーターになったそうです。それを話題に出した両親は心底馬鹿にしたような声色でした。やれ将来性がどうだの、やれいつまでも子供気分だと。僕もそう思ってました。いい歳した大人が仕事辞めて漫画描くなんて馬鹿だって思ってました」


 かわいくない子供ですよね、と僕は自嘲気味に笑う。あの時の僕は変に冷めていて、それは何かに熱を持てない子供だった。ただただ冷たくて硬い氷を溶かそうともせず、内側にしまっておく子供だった。それが賢いと考えている、どうしようもない馬鹿だった。

 夢を持たず、希望を持たず、目標を持たず。ただただ留まり濁るだけ。それで自分が美しいと思っているとんでもない泥水が僕だった。


「でもそれからちょっとして、僕と漫画家志望のお兄さんは仲良くなったんです。きっかけが何だかは覚えてないんですけど、とにかく僕は放課後の度に彼の家に行くようになったんです」


 どういうわけだか波長が合った。接点などまったくなかったのに、いつの間にか仲良くなっていた。あのお兄さんは僕の隠している思考を読み取ったのだろうか。


「懐かしいなぁ。今思えば資料だったんでしょうね。神話の武器だとか、世界の伝承だとかを書いた本がいっぱいあって、僕はずっとそれを読ませてもらってました」


 夢のような場所だった。辺り一面に漫画、ゲーム、小説。図鑑やら何やらまで揃った本棚は、ずっと隠れていた僕にとっては黄金だった。そこでなら、誰の目も気にしなくて済んだ。

 お兄さんが原稿を描いて、僕はその横で本を読む。時々お兄さんが描いた原稿を見せてもらって感想を言う。そんな日々だった。楽しくて幸せな日常だった。


「完成品の原稿は全然面白くなかったです。ストーリーはありきたりだし、絵は下手だし、背景の描きこみは足りてないし。でも、すごい感動したんです。こんないい大人が漫画の中で美少女描いてるって。周りから白い目で見られながら、かわいい女の子とお色気シーン描いてるんだって。仕事辞めてまでパンチラ描いてるんだって」


 下手くそな漫画だった。ジャンルとしてはラブコメだっただろう。エロが多少入った、青少年向けのラブコメ漫画。

背景も白くて、パースが狂ってて、コマ割りなんてど下手くそすぎて笑えるぐらいだった。審査員じゃない素人の僕でも鼻で笑うようなものだった。だけれど、他の何より僕の心に響いた。タイトルも内容も覚えていないが、あの作品以上に僕の心を殴りつけた作品を僕は知らない。

 お兄さんはヒロインのどこが可愛いとか、どこに力を入れて描いたなんて笑いながら教えてくれた。けれども目はどこまでも真剣で、「この子は俺の嫁!」と大声で叫んでいた。


「僕は羨ましくてたまらなかったです。毎日毎日好きでもないものを好きって言ってる僕を尻目に、大声で二次元の女の子と結婚したいって叫べるんだから。「これが好きだ」って明確な意思を持って言えるんだから」


 馬鹿だと思った。そんなことを大声で言うなんて。だけど、僕とどっちが馬鹿だ?

 彼は白い目でご近所に見られ、両親からは溜息を吐かれる生活だっただろう。けれどもそこに突き進む勇気があった。傍から見れば無謀でも、僕にとっては紛れもない勇気だった。誰かを気にせず、自分を信じられる。そんな感情が僕も欲しかった。


「僕は臆病者でした。嫌われるのが嫌で、蔑まれるのが嫌で。誰かに合わせて、誰かのために生きて。心身が休まるときも無い中で、欲望をたった数十ページの原稿に落とし込んでる人間がいるのに、僕はなんて馬鹿なんだって」


 一生自分は隠れて生きていくのだろうか。一生自分は誰のものでもない視線から逃げて生きていくのだろうか。そう思うだけで心臓が止まりそうになった。

 自分の人生は誰のためにあるのだろう。そんな柄にもないことを毎日考えて、でも変えることは怖くて。ただただ毎日が過ぎて行って。自分の生きている理由なんて考えるだけで頭が痛くなった。


「仕事を捨てて自分の好きなことをやってる人。好きなことを諦めて仕事をする人。多分、社会で勝つのは後者でしょう。人生を正しく進んでいるのは間違いなくまともな仕事をしている人です。でも僕は好きなことをする人になりたかった」


 羨ましくて、妬ましくて。この部活はとても楽しかった。誰の目も気にせず好きなことをやる様は、黄金のごとく輝いていて。僕もそうなりたいと思っていた。


「だからなろうって決めたんです。ラノベ作家になって「僕はこれが好きなんだ」って、「僕は下劣なものが好きな変態だぞ」って叫びたいんです。叫びたかったんです」


 あの日、僕が心をハンマーで殴りつけられたあの日。本屋に急いで走り、片っ端からラノベを買った。そして執筆のハウツー本も。クラスメイトの誰かが見ているかもしれない、なんて不安は存在しなかった。


「僕は好きなんです。妄想を形にすることも、それを人に見せることも。頭の中に広がる物語を文章に落とし込むのも。だって、この百何十ページの紙の上だけが、僕が僕でいられる場所だから」


 僕は首を落とした。もう全てを失った僕には関係ないことだ。ここにいるのはクリエイター未満の愚か者。この世で最も信頼されるべき人間の信頼を失った馬鹿だ。


「ああ、そっか――」


 僕がこの部活に惹かれたのは、どんなに変だと思っても辞めなかったのは、この部活にいる人間が眩しかったからだ。憧憬と羨望と、わずかな嫉妬。そんな感情が僕の心の奥底で渦巻いていたのだろう。

 好きな物を好きと言って、やりたいことをやって、仲間と笑い合う。好きな物のために一生懸命努力して、妥協なく遠慮なく忌憚なく意見をぶつけ合う。誰の目も気にせず、ただ自分の信じた道を突き進む。

 エロは表に出せないことだ。表に出すと途端に変態として扱われてしまう。

 だけど部屋の中でぐらい、画面の前でぐらい、作品を作っている時ぐらい、信頼できる仲間の前でぐらい。変態でいたっていいじゃないか。自分の心に正直になっていいじゃないか。

 そんな、僕の理想を、僕には叶わなかったことを心の底から笑いながらやっているから。僕が望んで仕方なかったことを、当たり前のようにやっているから。


「悔しいよ……ッ! 僕はもう、二度と……仲間にはなれないから……!」


 気づいたら僕の目からは涙が流れ落ちていた。

 悔しい。悲しい。僕は馬鹿だ。こんな簡単なことに気づかず、大事なものを失った。正真正銘の愚か者だ。自分の駄目さを誰かのせいにした子供だ。


「でも、もう無理ですね。部長には怒られて、首になっちゃいました」

「知ってます」


 歌子が凛とした声で僕の言葉を遮る。そして地面にへたり込んでいる僕に合わせてしゃがんだ。そのまま子供を慰めるように僕の手を握った。


「この世界は現実です。どれだけ祈ってもロード画面に移行することはありませんし、前の選択肢に戻るボタンもありません。永久オート機能のまま、バックログも無しに進むしかないんです」


 そう言うと歌子は僕の顔を両手で掴んで、ずいっと顔を寄せてきた。その目はまっすぐで、意志が籠っていた。眼光が僕の目を捉えて離さない。


「で、どうするんですか? このままAlt+F4で終わりますか? それとも何かしらの選択肢を取り、ゲームを進めますか?」


 そんなの僕が訊きたい。一体どうしろというんだ。僕にはもう何も残っていないというのに。


「どうするも何も……僕には何もできないよ」

「このダメ男!」

「両目ッ!」


 歌子の右手がぶれたと思ったら視界が真っ暗になった。目を押さえて僕は床でのたうち回る。


「諦めることは誰にでもできます! でも、諦めたらそこで終わりです!」

「おまっ……お前! 普通ビンタっ……百歩譲ってもグーパンだろ! なんでチョキで眼を潰しに来るんだッ!」

「弱点かと思いまして」

「そりゃ弱点だよ! 大体の生物は眼球が弱点だ!」


 どこの世界に叱責で眼を突く女がいる!? 歌子はドラマや漫画を見たことが無いのか!?


「諦めちゃだめです! 失敗しても、立ち上がらなきゃだめですよ!」

「でも部長がどうせ許可してくれないよ……」

「意気地なし!」

「爪先ッ!」


 急所を的確に狙ってくる歌子に、僕は足の甲を押さえてのたうちまわることしかできない。なぜ普通の位置を狙ってこないのかと問い詰めたい。


「頭下げて、必死に頭擦りつけて、諦めるのはそれからの話でしょ。何もしないで泣いてる友くんが言っていい言葉じゃないです」

「眼を突かれたから泣いてるんだよッ」

「それぐらいで泣くんじゃありません! 男でしょ!」


 残念ながら性別と眼球の強度に因果関係はないんだ。僕の意志関係なく目を押されればそりゃ涙も出ようもんである。


「謝りに行きますよ。どんなにかっこ悪くたって、何もしないよりはかっこいいですから」

「許してくれないかもしれないじゃないか」

「だから? その時はその時です!」


 再び歌子の手が動く。二度も眼球を突かれてたまるか!


「同じ手は食わん!」


 ガードを上げて対処する。足元を狙ってくるなら後ろに跳んでかわすまでだ!

「甘いッ!」


「みぞおちッ!?」


 歌子が腰を捻り、左拳を僕のみぞおちに捻じ込んだ。僕はたまらず咳き込みながら床に這い蹲る。うまく呼吸ができない。


「何事もやってから考えるべきですよ。特に、締切に遅れている時なんかは。ほら、行きますよ!」

「ちょ、ちょっと待って! ゲホっオエェ!」


 地面に転がる僕の腕を掴み、歌子は無理矢理引っ張っていった。まるでキャリーバックのように廊下を引きずられている僕の様子を見て、すれ違う学生たちが笑っている。


「歌子! 下ろしてくれ!」

「しょうがないなぁ」

「なぜ僕のベルトに手をかける!? 誰がズボンを下ろせと言ったんだ!?」


 引きずりながらズボンを下ろそうとする歌子と、引きずられながらズボンを下ろされてたまるかと抵抗する僕の争いではどうにか勝利を治めた。

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