冴えない休日

鯵坂もっちょ

冴えない休日

「この子に釣り竿を買ってやりたいんだが」

 それを聞いた瞬間、八歳の杉浦すぎうらゆたかはこう思ったのだ。

 おいおいマジかよ、この親父。


  ◆


 玉ねぎ、人参、豚肉を切ってマヨネーズを油にして炒める。

 ある程度火が通ったらそこにモヤシを入れて炒める。モヤシはなんとなく後で入れたほうがいい気がする。

 最後に焼きそばの麺を入れて炒めて、ソースを目分量で入れてあと塩コショウも適当に振って味を調える。

 キャベツがなかったので全体的に茶色いが仕方ない。

 仕上げに目玉焼きを乗せる。ひろは目玉焼きが好きだから。


 年に数回、こういう休日がある。つまり、さとだけが出かけていて家には俺と息子の紘貴だけが残されている。

 紘貴は朝からテレビに釘付けだった。今は昼のバラエティ番組で、俺にはあまり面白いとは思えないが紘貴は興味深そうに見ている。

 十月にしては温かく、開け放たれた窓からは近所の小学生の喚声が流れ込んでくる。

 のどかな休日だった。少なくとも表面上は。


「紘貴〜焼きそばできたぞ〜」

「……」

 返事はないが、紘貴は一応テーブルにはついてくれた。

 分かっている。おそらく、俺とどう接したらいいか分からないのだろう。

 無理もない。もうずっと、紘貴とまともに会話をした記憶がなかった。

 早く風呂入れよ。うん。制服脱ぎっぱなしだぞ。うん。

 まともな父親だったら、中学校は楽しいか、とか、友達と普段何話してるんだ、とか、聞くんだろうな。すごいな。そんなこと、怖くて聞けやしない。

 向こうも気を使ってくれてはいるだろうから無視されることはないだろうが、話を続けられる自信がない。「学校は楽しい?」「うんまあ」「そうか」。……その先は?

 最初から無言であることよりも、会話の後に訪れる無言のほうが何倍も恐ろしいものだ。


 紘貴はうまいともまずいとも言わず俺の作った焼きそばを口に運んでいる。

 どうだ。うまいか。ドラマやなんかではそんなシーンがよくあるが、あれ聞ける奴すごいな。まずいって言われたらどうするんだ。

 実際、紘貴はこの状況をどう感じているんだろうか。気まずいのか。それとも、特に気にしていないのか。

 まあ、自覚してはいた。結局のところ、紘貴が何を考えているのか、俺にはまったく分からないのだ。

 なんか、冴えない休日だよな。そう思って、俺は去年死んだ親父のことを不意に思い出していた。


 ◆


 父・杉浦裕一郎ゆういちろうは信用金庫とかいうやつに勤めていたらしかったが、家で親父と会話なんてめったにしなかったし仕事の話もほとんど聞いたこともなかったので、幼い頃の俺はシンヨーキンコがどういうものか分かっていなかったし何なら今でもあまりよくわかっていない。

 そもそも親父は普段あまり家にいなかったので、ちょうど今日みたいな休日に親父と二人きりになった日は、それはもう気詰まりで落ち着かなかった。

 まあ、有り体に言えば、俺は親父が苦手だったのだ。


 母が同窓会だか何かで家を開けていた日があった。

 俺は今紘貴がそうしているように朝からテレビを見ていたが、ずっと本を読んでいた親父が突然言った。

「裕、今日釣りでも行くか」

 意を決して、とか、事もなげに、とかではなく、本当にただ言った。

 その時の自分の感情が思い出せない。だが、親父の表情だけはよく覚えている。笑顔だった。ほとんど見た記憶がない親父の笑顔だった。

 親父と家で会話すること自体珍しかったから、当時の俺は大いに戸惑いはしたと思う。実際どう答えたかはっきりとは覚えていないし、どんな顔で対応したのかも忘れたが、行ったは行ったんだよな。


 なんで釣り? とは思った。親父に釣りの趣味があったなどとは聞いたことがないし、俺がそんな話を向けたこともない。まあ会話がないから当然なんだけど。

 釣りなんて言うぐらいだからいろいろ準備や道具がいると思ったが、親父は何もいらないと言った。長靴だけは持っていこうか。そうも言った。

 二人だけで車に乗って、二人だけで国道を北上し続けた。この非日常感に俺はけっこうワクワクしていたと思う。何が釣れるんだろう。どんな餌を使うんだろう。学校の友達になんて話そうかな。


 当時八歳の俺は本当に何も分かっていなくて、だからこの後は海か川に行くんだろうと思っていたが、実際に着いたのはリサイクルショップだった。

 そこで店員に釣り竿の在り処を聞く親父の姿を見て、俺は思ったのだ。マジかよ。この親父。

 親父は海でも川でも、ましてや釣り堀ですらなく、まずはリサイクルショップで釣り竿を調達してから釣りに行こうとしていたのだ。そこからかよ、と思ったが俺は何も言わなかった。


 案の定、というべきか、釣り竿は見つからなかった。店を三軒回っても駄目だった。

 そして三軒目の店員に言われた。海ですか川ですか。どっちにしても釣りをするならそれなりの装備が必要です。その日に買ってその日に釣れるという認識ではとてもお勧めできませんね。まずは釣り堀から初めてはどうですか。ここから車で十分くらいのところに立松園たてまつえんという釣り堀があって……とかなんとか。

 なんだ、じゃあその釣り堀行けばいいじゃん。俺は思ったが、その店員は最後に一言付け加えた。

 あっ、でもすいません。もう営業時間終わってますね。


 親父は「ごめんな」と一言言って車に戻った。

 母親には内緒で。男どうしの秘密。休日に二人で大冒険をして帰ってくる。一生忘れない思い出になる。

 それこそドラマやなんかでは、よくある話だろう。

 休日に一度も息子と連れ立って遊んだことのない親父は、だから「釣り」を選んだ。父親と息子二人だけで休日にやる遊びといえば、釣り。それ以上のことは考えていなかった。釣具店でちゃんとした釣り竿を見繕うほどの金もなかった。

 結局、その大冒険の目論見は失敗に終わったわけだ。冴えない休日というほかなかった。

 戻った車内には、結局一度も履かれなかった長靴が二足、転がっていた。


 帰り道にあったファミレスでハンバーグライスを食べた。

 親父にとっては酷い話かもしれないが、このときのファミレスが今日で一番嬉しかったし楽しかったのだ。

 しかし、なんとなく、学校の友達には今日のことは話さないでおこうと思った。

 俺と親父とは、この日を最後に二人だけで出かけることはなかった。


 ◆


 焼きそばを残さず食べ終わった紘貴は再びリビングに戻ってテレビを眺めていた。

「寒くなってきたから窓閉めようか」

 紘貴はうん。とだけ答える。窓を閉めると、部屋にはテレビの音だけが残る。

 ……本当に冴えない休日なのはどっちなのか。

 親父。あの時の冒険は、実は結構楽しかったんだよ。ついに伝えることは出来なかったけど。ああ、言っておけばよかった。

 紘貴の考えていることがわからない。それは紘貴があまり自分の感情を表に出さないからで、その部分は、紘貴からすれば祖父である裕一郎のほうに似たからなのだろう。そう思っていた。

 果たして俺は本当に紘貴を理解しようとしたことがあったのか。

 紘貴は本当に目玉焼きが好きなのか。

「紘貴、」

 紘貴は返事はせず、顔だけをこちらに向ける。あの時の親父も、こんな気持ちだっただろうか。

 意を決する。

「今日、釣りでも行ってみようか」

 大丈夫。釣り堀から始めればいいんだろ?

 それを聞いた紘貴の表情が変わる。

 何だ、と思う。そうだったのか、と思う。

 あの時の俺は、そんなに嬉しそうな顔をしていたのか。

 親父の心の中にも、あの顔をした俺がいるといいな、と思った。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冴えない休日 鯵坂もっちょ @motcho

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説