待つ女
夜更けである。その女は満月を背負うようにして立っていた。
その横顔は日本人形の様な上品さで、神秘ともいえる柔和な、それでいてどこか哀愁のある佇まいである。
風が吹いていた。その風が紺の留袖の裾を時々
女の目は何処までも続く丈高い塀を見上げ、月光がなよなよとした身体の輪郭を照らし出している。
後ろには果てしない一筋の道が霞んでいた。その道を女はとぼとぼと歩いてきたのであろう。
そして塀と塀の切れ目には黒々とした厳めしい門が、闇の中で扉を閉ざしていた。
伝馬町牢屋敷。
女は凛として門を見上げ、拳をつくって門をたたいた。
鈍い音が辺りに重く響いた。反応がない。女が焦ったような顔になった。
だが女は何度も門をたたいた。執拗にたたいた。すると門がゴトリと音を立てて微かに開いた。浅黒い殆んど表情のない男の目が女を見とめた。
「こんな夜更けに誰だ」
男の目は女を
だが女はそんな事にはお構いなく、門を尚大きく開けようとした。男の身体がぬっと月光の中に現れた。すると女が
「孝之進を迎えに参りました。お裁きで潔白が証明されたと
だが男の顔は無表情のまま女を凝視した。
「女、帰れ」
「いえ、帰りませぬ。孝之進は何処でございます。会いとうございます」
「なにをいうか、この女め」
すると女は懐から文を取り出して見せた。
「ほれ、ごらんなさいませ。孝之進からこのように確かに文が届いているのでございます」
「ええい、うるさい奴め、帰れと言うに」
男は女が差し出す文を取り上げて路上に投げ捨てた。女が慌ててそれを拾おうとする。だが風に煽られ、薄明かりにさらされたその文はまったくの白紙である。
その時、男の後方からいくぶん身分の高そうな初老の男が現れた。そしてこう言った。
「信乃、また来たのか。おまえの倅はもう五年も前にこの牢屋で自害して果てた。まだそれが解らぬのか、哀れな女め」
その時の信乃は地に両ひざをついて笑っていた。
しかしそれは尋常な笑いではない……。
月明かりに映る丸髷にはずいぶん白髪が混じり、身に着けた留袖は薄汚れ、あちこち綻んでいた。そして女は幽霊のように立ち上った。
「あれあれ、これはいけません。日を間違えておりました。ああ、わたしとした事が……。よくよく、どうかしておりました。それではせめて孝之進に母が元気で待っていると、どうか、どうかそうお伝えくださいませ」
女が深く頭を下げると男は静かに頷いてみせた。女の頬を伝う滴が月光を浴びて鋭く光っている。
――中天に満月の冴える、妖気さえ漂う一夜の出来事であった。
了
奇妙な女 松長良樹 @yoshiki2020
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