第57話
「僕は彼女の目線で、彼女の母親を見ていた。愛憎というものがどれだけ痛むのか、それで初めて知ったよ。それから何度も彼女の夢を見た。彼女の人生はある意味で豊かだった。親友の幽冥、義兄の友美さん、義妹の君……そして、理解し難く怖ろしい実の父親」
「その全てを、アンタは夢で見たと言うの」
「その通り。僕は夢で、断続的だが、彼女の過去を見た」
望は紅茶を一口含んだ。
「馬鹿げていると思うかもしれないけど、きっと本当に、彼女の過去なんだ。証拠に、僕は義妹の匡香ちゃん、今、君と出会って、話をしている」
夢の中にいた、君。彼はそう私を示した。事実なのだろう。彼は、望は、夢でハラヤを知った。その中で、過去を知ったのだ。何故ハラヤなのかは上手く飲み込めなかった。が、一応の合点はいく。この赤檮望と七竈祓は、
「だから僕は、ハラヤが君の為にしたことも、知っているよ」
黙りこくった私へ、反応を求めるように、望は笑って見せた。
「いや、君のため、というよりも、それも一つの"家族"だから、という感覚だったけれど」
表現を探す彼の表情は、毎秒変化していた。多分、ハラヤの思考を理解してはいないのだ。何より、そもそもアレの無味無臭な精神を、上手く表す手段は、恐らくこの世にはない。
「ハラヤは君のストーカーだった同級生を、君の目の前で殺したことがある。両手いっぱいのカッターの刃を飲みこませて」
それは、私とハラヤしか知らない出来事だった。格段にそれが過去を明示していると信じることが出来た。一人の男子中学生が血と鉄の欠片を吐いて、のたうち回る景色を知るのは、私とハラヤだけだ。
「ごめんよ。怖がらせるつもりは無かったんだ。ただ、信じてほしくて、この話を出してしまった」
「怖がってなんて、ないわよ」
「強がらないで。手が、震えているよ」
咄嗟に、自分の両手を見た。確かに、私の手は制御を失っていた。感覚を忘れる程に、指先は冷え切っていた。
「ともかく、アンタは夢でハラヤを、ハラヤの目線で、過去を見てたのね」
「そういうことだよ。だから君の知らないハラヤを知っている。けど、客観的な彼女を知ることは無い。それこそ、顔も、どう笑うかも」
「アレは鏡を避けているんだもの。一人称視点なら見ることは無いでしょうね」
「やっぱりそうだったんだね」
「アレは自分の顔が嫌いなの。実の母親の生き写しだから。それに、私、アレが笑ったところなんて見たことが無いわ。不機嫌な時以外、それが下に出ていることが無いから」
大学入学以降は知り得ないが、ハラヤが笑うことなど無いに等しかった。
「そう、それは、なんだか、悲しいね」
望が絞り出した共感性には、雑味があった。その悲しみを、憐れみを、何処に向けたのかはわからない。
回って止まらない精神に蓋をするために、私は目の前の紅茶を飲んだ。私の舌は、苦み以外の認知を許されていなかった。
「……お茶を淹れなおそう。話をしているうちに、冷え切ってしまったでしょう」
そう言って、望は私のティーカップを取り上げた。揺れる液体のうち、茶渋が水平線に描かれていた。
ふと視界に入った日比野のカップは空だった。取り分けられていた肉片も、綺麗になくなっていた。彼は私の目線に気付いて、舌なめずりをして笑う。どうにもこの男は、他人の神経を逆なでするのが好みらしい。手の震えは止まっていた。けれど、新たに私の手には、鳥肌が目立つようになっていた。
再び、静かに湯気が立つ。電気ケトルの中で気泡が躍っている。
「――――五つ」
ポツリと、日比野が呟いた。彼は目を閉じて、上半身を揺らしていた。声は、近くに座る私にだけ聞こえていた。
「四つ」
揺れる彼の身体は、安楽椅子で微睡む老人にも見えた。きっとそれは二割くらいは一致しているだろう。彼の動きは、夢で作品を創る芸術家のそれだった。
「三つ」
その数字を表した頃になって、ようやく望が日比野の様子に気付く。同時に、私はそれがカウントダウンであることを理解した。
「二つ」
あと数秒で、日比野は目を開けるだろう。彼の瞼の裏で起きていることは、大体の予想がついた。当の望は、まだ、正答を与えられていない。
「一つ」
耳を澄ませる。どうしてかはわからないが、息が詰まった。
三人の時間が終わる。次の瞬間には、彼等は私を客人とみなさないだろう。私以上に待ち望んでいた存在が、自ら足を運んでくれたのだから。
「零」
数字が終わった。玄関の開く音がした。
「遅いじゃないか、兄弟。美味しいお茶が、冷めてしまったよ」
扉越し、廊下に向って日比野が笑う。それはゆっくりと開く。時間の経過は遅く感じられた。
入り込んだ部屋、何も言わず、座る私達を見下していたのは、赤檮望が切実に待ち望んでいた、七竈ハラヤだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます