第56話

 何の不自然さもない望の行動。私の目は一瞬、それをロールケーキか何かと勘違いしていた。事実、望はまるでケーキのようにナイフとフォークで足先を切り分けていた。よくある、あり得ないものを目の前にしたときの吐き気だとか、眩暈だとかを感じることは無い。というよりも、感じている暇がない。私の目の前では、当たり前のように茶菓子として何処かの誰かの脚が、二人の男の口に運ばれようとしている。


「豊は何処が良い? 分けてあげるよ」

「僕は親指を。それと、足の甲の皮をとってあれば、付け足してほしい」

「残念、皮膚は汚れがひどかったから、全部捨ててしまったよ」

「じゃあ、膝裏を」


 はいはい、と、軽い口で望は日比野の皿を作っていく。日常の一片を切り取ったような、異常。遅れてやってきた不快感は、助走をつけて私の脳を殴りつけた。


「匡香ちゃんは何処が良い?」


 どんな善意の言葉でも、私はその答えを持っていない。


「私はケーキだけで良いから」


 辛うじて喉から出たものを、吐き出す。胃液は目まぐるしく流転していた。

 思考の方は反転する。目の前の二人は、平然と肉を切りわけあっていた。この場所で少数派なのは、私の方だった。

 ハラヤは望を一言、食人鬼と呼んでいた。現実味の無い単語は、今までの私の思考の隅で、ただひっそりと転がるだけだった。それが今になって、再現性を伴う現実として、存在している。

 ナイフとフォークで小さくなっていくそれは、大きさと骨の発達具合から、思春期前半であることがわかる。血液が滴らない以上、上手く血抜きされている。つまり、手慣れたものが処置した肉だということだった。望の手元を見るに、処理したのは彼ではない。では、と目線を日比野に移すが、何もしない彼の様子からは何もわからなかった。

 状況は理解出来た。だが共存は不可能だろうということもわかった。


「ジャムが欲しいな」


 そう言って、日比野が冷蔵庫から半分残ったいちごジャムを取った。中身は全てティースプーンで掻き出される。それが頭蓋骨から脳を掻きだすようにも見えた。そうして、半冷凍の肉は赤く赤みを帯びていった。


「豊は甘いものが好きだよね。ハラヤはどうなのかな」


 望は独り言のようにそう呟いて、私に目線を移した。


「あまり食べている所を見ないわ。けど、出されたものを残すことは無いから、好物があるというよりも……味に興味が無いのかも」


 私が言い終えるより前に、一筋、冷気を帯びた視線が刺さった。鋭いが、私に対してというよりも、別の誰かに対するそれであった。その眼のある顔を見た。日比野の表情は少し暗く、あの気軽そうな姿とはかけ離れて見えた。これと似た顔を、つい数時間前に、私もしていた。これは羨望、または嫉妬と呼ぶもの。その先にいるのは私ではない。そも、ここに感情をぶつける相手がいないから、彼はずっと黙っているのだ。その精神が、私が可愛く思えるほど、どす黒くなっていることは、その沈黙の在り様から察せられた。同化と何か、もう一つ、別のものが、彼の中で混ざっているのが分かった。


「そういえば、アンタはどうしてハラヤのことを知っているの。会ったことは無いようだけど」


 だからこそ、望がハラヤを求める理由が知りたかった。この異常者が、別の異質に引き付けられた理由が。彼等は私の理解の外にいる。それはきっと、小清水君も。なら、私は引き留める人が一人としていない今こそ、飛び込まなければならない。


「少し、不思議な話になるけれど」


 望は、そう優しく笑った。


「先月、豊と一緒に人魚を作ったんだ」


 また突拍子もないことをと、口が滑りかける。けれど、黙っていなければならなかった。彼の仕草は、本心を物語っている。


「何処だったかのお寺に、人魚のミイラがあるんだって。丁度良いから、僕達も真似しようと思ったんだ」


 そうして、望はおもむろにスマホを取り出した。見て、綺麗でしょと、突き付けられたのは、極彩色の魚体と、黒髪の艶やかな美しい女――――の、上半身だった。それらは乱雑に赤い糸で縫い合わされ、辛うじて人魚の形をしていた。ずっとそれを見ていれば、血の気の無い女の皮膚が、画面越しに動いた気がした。


「冬に貰ったお肉でね。足は美味しかったけど、上はあまりに綺麗で、もったいなくて。リサイクルしてみたんだ。ただ、うちでは綺麗に飾れなかったから、大学の冷凍庫に置いて来たんだけど……見つかってしまってね、警察が持って行っちゃった」


 残念だけど、と、彼は苦笑した。実物があれば見せることも厭わなかったのだろう。行為の一つ一つが子供のようだった。やってみよう、作ってみようという経緯は多少わかったが、その発想は理解出来ない。真面な人間のすることではない。悪意や善意はそもそも無いのだ。本来ある筈がない感情を、思想を、その望という青年は大量に抱え込んでいた。


「そうした頃に、僕は夢を見るようになった」


 慄く私を置いて、望は思い出語りを続けた。楽しそうだった表情筋は、一転して頬をほころばせ、恋を秘めたる乙女のようだった。


「自分の母親を、殺す夢を見たんだ。包丁を振り下ろして、脳漿を浴びる、彼女の夢を」


 その夢物語は、穏やかな吐息を飲むことから始まった。

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