第58話

 真夏の夕暮れを歩いた汗が、ハラヤの喉を伝う。だがそれは、まるでセルロイドの表面に水を滴らせたように、無感性に見えた。部屋にいる誰のことも見えてはいない。興味関心は私と日比野には絶対に向いていない。ハラヤが現れて数秒が経つ。

 誰よりも先にその彼の目の前に立ったのは、それを待ち焦がれていた望だった。


「は、はじめ、まして」


 たどたどしい言語で、彼はハラヤにそう笑いかけた。何の躊躇いもなく、望はハラヤの手を取る。懐かしむように、愛おしそうに、彼は末端を滑らかに味わっていた。


「そう、この手、この足だ。そうか、なら、君が」


 感動に押しつぶされそうな望は、より一層、ハラヤと顔を近づける。それにすら無反応なハラヤの姿が、私には不気味で仕方がなかった。


 と、咄嗟に、日比野が望の首根っこを引っ掴む。


 望の首の有った空間で、殺意を顕わにしていたのはハラヤの両手だった。背中から倒れる望は、理解が追い付かないままに、ハラヤと日比野を見上げていた。


「随分と今日は礼儀が無いじゃないか、君」


 日比野が苦笑する。やっと反応を示したハラヤの表情は、不快感を表していた。


「お前と比べれば、僕のは可愛いものだろう。そちらも今日は、妙に余裕が無いじゃないか」


 相対する二人を同時に見れば、その骨格の共通項がよくわかった。顎の形状などは特に近い。何より、黒く光の無い瞳は、殆ど同じと言って然程違いは無い。


「僕はノゾミに会いに来たんだ。お前に興味は無い」


 一蹴して、ハラヤは望を見た。だがその目線は興味だとか、そう言った正の感情には見えない。


「僕はお前に話があって来た。いや、話と言うには一方的なのかもしれないが」


 真っ直ぐ、ハラヤは声を通す。それに対して、望は上半身を起こす。膝を立て、目線を合わせた。


「良いよ、言ってごらん」


 何でも聞くよ。と、彼は穏やかに笑う。先程首を絞められそうになっていたとは思えない程、彼はハラヤに好意を示していた。何処かの感動映画でも見るような、清廉なヒロインの姿と、望の巨躯が重なる。


「――――僕は、男だ」


 する、と、ハラヤは言葉を吐いた。それは生臭い罵倒でこそないものの、大量の悪意を纏っていた。


「ノゾミ、お前が思い描いたような、可愛らしい女ではない。僕は日比野豊の双子の兄弟で、身体、精神、その全てが男だ。これ以上、お前の幻想を、僕に向けるな」


 苦虫を潰した様な表情で、ハラヤは言った。


「気色悪い。お前のお花畑のような在り方は、反吐が出る」


 凡そ人生で投げられかけることは無い罵声で、望を彩る。声こそ荒げていないが、これがハラヤの最上級の悪性であることは理解出来た。七竈ハラヤは男である。それを伝えるためだけに、ここまでの言葉を用意する必要があっただろうか。


「そうか……それは、僕の、思い、違いだったね。謝る必要が、ある。すまない」


 感情を押し殺して、望は肩を落とした。一時間程度の対話でも分かる。彼は怒ることが出来ない。どんなに悪意を向けられたとして、出来るのは悲しむことだけだ。怒りという、防衛手段を持たない哀れな人。


「僕はお前を視て、知っている。お前が見た夢が僕の視点なら、僕が夢で視たのは日比野の視点。お前は少女のような幼少期を送った。僕と同じ様に」


 ハラヤは追撃の如く、再び口を開いた。それを遮ろうとした日比野が、体を震わせて、動くのを止める。黙っていろというハラヤの目が、私と日比野を刺殺さんとしていた。


「だから僕は少しだけ、理解できると思ったんだ。お前なら、僕を」


 言葉の端々を拾い上げる。アレは女性的であることを嫌う。だから望に怒りと類した悪意をぶつけたのだ。だがそれだけではない。ハラヤには好意があった。好意が転じて憎しみに変わる感覚を、私は知っている。きっと、それは本人も同じ。ただ、そんな豊かな感情が、ハラヤに備わっていたことが驚きだった。


「――――それは、少し、君が何か、異なっているな」


 ふと、ハラヤの息が詰まったのを皮切りに、望が声を上げた。反論と言うには優し気で、諭すと言った方が似合っていた。


「僕がかつて少女であったのは、僕の意思だよ」


 淡々と、濁らない言葉が、床に落ちた。ハラヤが目を丸くするのを視たのは、初めてだったかもしれない。


「今、僕はこんな身体であるけれど、精神は」


 溜息を吐くように、それは意思から言葉に置換される。


「僕の精神は、女性を宿している。そして、僕のこの身は


 望はそう言って、下腹部を摩った。見上げる程の巨躯には、確かに柔らかさと硬さが混じっていて、不安定さを見せていた。


「そして君のその身体が、基を豊と同じとするなら」


 息が止まる。私が、家族である私が、絶対に言わなかった言葉を、彼、否、彼女はハラヤに放とうとしていた。


「君は性を剥奪されたのだろう。君は無性。僕の反対であり、確かに女ではない。けれど、


 そうして、望はハラヤの頭を撫でた。

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