第40話

 意識はせずとも、僕の足はベッドに向かった。そもそも意識は既に途切れ途切れで、どうせ小清水は隣室に暫く住むのだろうという不自然な安心感があった。

 指を見る断裂した舌の破片は無い。ただ、厚くて弾力のある冷たい筋肉の感触だけが、指先に居座っていた。そうやって五感を澄ませても、特に変化はなかった。義母の纏りのない足音も、義兄と義妹の対話も聞こえない。先生の安否は心配こそしないが、あの皮肉交じりの嘲笑が聞こえないのは、些か寂しくはあった。

 羽毛入りの布袋が僕を包む。態々新しく仕立てたらしい枕からは、ラベンダーが香った。

 "静"と"香"、そして自身の"熱"は、僕を眠りに誘うには十分だった。瞼を下げる。世界は一度、黒で塗りつぶされた。


 ――――少女が、いた。


 僕ではない。彼女は白い皮膚と銀の髪を雨の中に捧げていた。湖の畔、雨音だけが僕達の耳を潤す。ゆっくりと彼女は目を開ける。瞳は紫水晶を加工したように透明に見えた。

 この森を、僕は知らない。少なくともこの国の風景ではない。明らかに植生も雲の形も異なっている。少女の加工品のような風貌を相まって、まるで妖精の王国にでも連れ込まれたかと錯覚させられる。


 まあ、それも良いかもしれない。


 雨に打たれているうちに、それが浮かんだ。僕は少女の手を取った。僕の手もまた、少女性を保った幼い曲線だった。


「行こう」


 一瞬、少女の目が開ききる。眼球に僕がいた。曲面で不明瞭ではあったが、確かにそれは、姿形が異なる僕だった。少女の手を握り、足元に転がった血塗れのレンガに躓いたのは、僕だった。

 地面に伏す。空を見上げると、少女が僕の顔を覗きこんだ。雨水が彼女の銀糸を伝い落ちる。その水は甘く、僕の顔の血を洗い流そうとしていた。


「大丈夫だよ、ノゾミ」


 僕は彼女の名を呼んだ。上半身を起こす。少女――――ノゾミの首を撫でた。


「大丈夫、大丈夫だからね」


 痛む足から目を逸らしながら、僕はぎこちなく笑った。その感情は、多分、おそらく、きっと、正しく――――愛情、というものだった。


「大丈夫、これからはいくらでも食べて良いんだよ」


 もう、君を止めてくれる人はいないからね。


 僕は最後の言葉を飲みこんだ。目線の先、湖に浮いていたのは、頭の潰れた、彼女の母だった。


 瞼を上げる。角膜が冷えて乾いた空気に触れた。空調は正しく動いていた。


 なら、この汗は何だというのだ。


 額、首、と続いて、足先まで熱と悪寒が、濃い体液と共に伝播していく。息を整えようと、口で息をする。口内が渇きで蹂躙される。壁にかかった時計を見る。時刻は未だ明るみを見ない。

 一気に全身から水が逃げていく。近くに冷蔵庫は備えられていない。厨房に行って、五人家族にしては大きいあの冷蔵庫を開ける他に、出来ることは無かった。

 壁紙をなぞり、指先の汗を滲ませる。汗腺は一か月前より明らかに発達していた。頭が痛い。脳すらも自発的に、僕に水分を摂るように命じている。そんなことをしなくても、僕は自らそれを口にしようとしているじゃないか。僕は脳を黙らせるために、壁に額を打ち付けた。数秒、脳が体液の中を揺れて、その叫びを止めた。


「誰だ」


 僕の頭上から声が降った。それは父の書斎から現れたが、地獄の使者のような父の声ではない。


「七竈? どうしたんだ、大丈夫か、お前」


 膝を曲げて僕の顔を覗きこんだのは、小清水だった。彼は珍しく眉間に皺を寄せて僕を見ていた。


「水」

「水?」

「喉が渇いたんだ」

「脱水か? ちょっと待て」


 小清水は穏やかに言葉を弾ませると、僕を片腕で抱え、厨房に向かった。自分で歩くよりも、小清水に死体のように運ばれる方が数段早かった。

 僕は軽く厨房の床に放り投げられると、そのまま仰向けに天井を見た。白い清潔な光は、病院で浴びたそれと似て、不快だった。


「ほら、水」


 突然視界に入ったのは、グラスに入った無色透明の液体だった。上体を起こされ、硝子を握る。指先から汗が引いた。唇に触れた水が、順を追って喉、胃にまで染み渡った。


「前に熱中症で運ばれたばかりだろう。気をつけろよ。こまめに水分を摂って、体を少し冷やせ」


 小清水はそう言って、僕の隣に腰を置いた。換気扇の音がする。小清水は咥えていた煙草に火を点けた。その様子は随分と久しく、懐かしささえ感じた。煙を吐いては熱を吸う。僕に体を冷やせと言っておきながら、この男は自ら熱を口と肺に運んでいるのだ。


「何、お前も吸うか」


 僕は首を横に振った。声を出す気力が無かった。小清水はそっかと言って、二本目を仕舞った。

 それでも口寂しさは消えない。僕は、やっとのことで声帯に鞭を打った。


「お前、何故父さんの部屋から出て来たんだ。本を借りたわけでもないだろうに」


 自分でも聞き取れないほど掠れた、小さな声だった。それでも、聡い彼は、僕の眼を凝視した。その表情は驚きを含んだ、恐れのようだった。


「何か話してたのか」

「い、いや、まあ、うん、今後のこと話してた」

「狼狽えることを聞いたつもりはない。今後ってなんだよ」

「……ほら、大学も暫く閉鎖するらしいし、ここで一緒に過ごさないかって」

「父さんが言ったのか」


 僕の問いに、小清水はこくりと頷いた。僕は口に水を含む。それ以上の会話は、脳が拒絶していた。

 再び、目の前が暗くなる。今度は深い眠りのようだった。倒れた先には小清水の腕があった。ぼやけた視界で、彼は確かに無表情だった。


 思考が、巡る――――暫くの住処を与える、それが、深夜、僕のいないところでこそこそと話すことなのか。本当は何を話していたんだ。お前と父さんの間に何がある。父さんは何を隠している。お前も何か知っているのか。お前は何故僕の傍を離れない。お前は何故怪異の影響を受けない。お前に"小清水"の名を与えたのは誰だ。何故お前は、お前は、お前、お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前――――








 ――――お前の本当の名前って、何だっけ、なあ、■■■■。

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