第32話
白く痛いほどの明るさが、角膜を刺す。視線を横に移動させると、照りの有る暗色が視界に入った。
安物のスーツを着た立花の顔は、どうも不服そうに見えた。視界をずらすと、部屋の隅に棗と義兄を見つける。
「呼び出しておいて、自分はグッスリ寝こけているとは、良いご身分だな」
立花は僕を睨みながら、口角を上げた。
「……一応、病人なんで」
「今日、退院だろ」
「そうらしい、とは聞いているけど」
「じゃあ、病人としては扱わない。誤差だろ」
論理よりも感情が先行している。だがこの立花という男の思考が、本当にこんな単純だと言える確証は無い。視線の一つ一つ、指先や筋肉繊維の一本ずつに、違和感がある。義兄のような愚直さも、小清水のような甘えも無い。この男は『人間』として優秀な部類だ。
「どうぞ、ご勝手に」
短く切った僕の言葉を、立花は飲み込んだ。数秒の後、再び彼は口を開いた。
「話がしたいんだろう。時間は少ない。効率的にやろう。テーマは何だ」
掌を僕に向ける。立花の大きな手は、広げられるだけで威嚇とそう変わらない。
「それじゃ、本題を一つだけ」
上半身を起こし、猫背気味に彼を仰ぎ見る。目線を合わせるように、立花も近くの椅子に腰を落ち着けた。
「立花さん、本当は視えてるんじゃないの。後ろの四人……僕に憑いてる和泉も、本当は全部」
怪異という言葉を切り取って、瞳の動きを見つめる。『和泉』という名前を聞いた時、大きくそれが動いた。右、下、左、そして再び僕に向けて真っ直ぐと動揺の視線が繋がる。わかりやすい動きこそ少ないが、確かにこの男は、揺れた。
「俺はオカルトは信じない」
「論点を濁さないでよ。視界の違和をオカルトと呼ぶべきじゃない。僕は、アンタに『視えているのか』聞いてるんだ。イエス、ノー、どっちかしか無いだろ」
どろりとした、冷めた静脈血のような、粘液が僕の首筋を侵す。
全く、所々で都合の良い女だ。
「僕の首に手をかけて、生臭い息を吐く。コイツを、アンタは理解しているだろう」
僕が言葉を吐くと、一転して、立花は顔をしかめた。
「――――コイツ? こいつら、じゃないのか」
訝し気な瞼のまま、彼は指し示す。僕の上半身を這う和泉――――ではなく、その先にあったのは、僕の左手足だった。棗が小さく悲鳴を上げて、そこを見つめている。
同じ場所に目線を揃えた。白いシーツに次々と血痕が滲む。獣の生臭さと、硫化水素が香り立つ。血液のムッとした熱と水分が、僕の足を這い上がり、胴体に触れるその時に、和泉の白い手によって払い除けられていく。
「良いさ、認めてやる。俺には見えていた。被害者も、お前に憑いているそいつらも……」
立花の口上を余所に、僕はシーツを床に落とした。顕わになったのは、僕の足に縋る十数人の手と、多様な
「だがその上で聞かなければならないことがある。いや、それ故に、と言った方が早い」
饒舌になる立花に舌打ちを漏らす。ひっそりと部屋の隅にいた棗が、肩を震わせたのが見えた。
「どうしてお前はそんな――――悍ましい姿なんだ」
立花の声が、震えている。ふいに地獄を見せられた、人間的な反応。昔、マンホールを覗きながら聞いた、親友のかつての口と似た語調。
「そんなの、わかっていたら苦労してないんだよ」
僕は感情に任せて拳を振り落とした。僕を仰ぎ見る少年の、焼け爛れた頭を砕く。それは豆腐のように脆く、簡単に赤黒い泥となる。
「勝手に憑いて来た奴を、一々理解してやる程、僕は繊細さを持ち合わせていない」
糸を引く手をもう一度振るい、今度は痩せぎすの男の舌先を掴んで引き千切る。次は、女の頭をベッドの角に叩きつける。そして、次の目の無い女、否、新原の脳天を割ろうと――――して、僕の腕は動きを止める。
「ハラヤ、落ち着け。幻覚なんだよ。皆、緊張して集団パニックを起こしているだけなんだ。疲れてるんだよ。大丈夫、もう大丈夫だから。暫く家族みんなで静かに過ごそう。ね、立花さんも、仕事のし過ぎなんです」
祈るように、義兄が僕の両手を包む。次第に指先から感覚が抜けていく。それほどに強い力で、彼は僕の手首を握りしめていた。振り払おうと腕に力を入れた時、立花が義兄の肩を掴み、強引に僕から引きはがした。
「まずはお前が落ち着け」
「落ち着いてますよ。幻覚を見ている貴方達以上に、俺は」
「現実に対して盲目になるな。だからお前は踊らされ続けるんだ、そこの義弟に」
立花が、僕を見る。疲弊した視線を仰ぐ。彼からは目立った感情が見当たらない。理不尽な僕への怒りと、焦燥と、僅かな憎悪が入り交じり、冷静さを増している。酷く感情的だが、それ故に理知的である……という方が、この類人猿の評価として合っているかもしれない。
「立花さん、アンタ、本当は何なんだ……本当に、意味が分からない」
余りにも僕とは離れていて、分析が出来ない。そして、誰も僕の問いに、答えを示すことは無かった。
そうしているうちに、義兄は立花の手を振りほどいて、ベッドの縁に体重を乗せた。昂った感情を飲みこむように、彼は肩で息をしていた。
「どいつもいつも……」
珍しく、義兄が苛立ちを顔と声に出した。立花も初めて見たのか、目をギョッとさせる。
唐突に、右手に柔らかな指の感触があった。死者とは異なる温もりに、僕は顔を向けた。
「ハラヤさん、僕達、おかしく何てなってないよね?」
棗が、僕の隣で身を寄せながら言った。可愛らしく首をコテンと傾げるが、その唇は震えている。
「何を言ってるんだ。初めから狂ってるに決まってるだろ」
僕は瞳孔を拡げた棗への言葉の続きを飲む。目の前では元から反りの合わなそうな刑事二人が、睨み合っている。
時間は昼に差し掛かっていた。僕は時計を見て、この場にいるべきもう一人が来ることを待ち望んでいた。
「――――何してんのよ、アンタ達」
ハスキーで、押しの強い声。全員が病室の扉へ目を向けた。
「和泉」
彼女をそう呼んだのは、紛れもなく、困惑を顔にする立花だった。
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