第31話

 翌日、義兄は僕の部屋の戸を開くことはなかった。

 代わりに、無傷の僕を診ている年老いた医者が、貼り付いたような笑顔で、男性看護師と共に僕の管を抜きにやって来た。彼は減っていく僕の束縛を眺める。決して、僕とは目を合わせようとしなかった。


「目も覚めて、落ち着いて来ましたし、明日の夕方には退院しましょう」


 上擦った声で、看護師がそう言った。表情こそ無を呈しているが、その内心は異なるらしい。彼もまた、僕とは目を合わせない。そのように、打ち合わせでもしているらしい。


「何か、僕について、問題でもあるんですか。ここにいてはいけないような、僕と最低限の話しかしてはいけない、というような」


 問いかけをすれば、看護師はビクリと肩を震わせて、少しの間の後、小さく口を開いた。


「いや、別に、何も」


 表情の乏しさは、その小心さとは釣り合わないらしい。手先は細やかな仕事をしているが、その心情はコントロールしきれていない。看護師の目が、自然と病室の窓を見る。

 そういえば、ここに来てからというもの、窓辺に立っていない。何より、あのカーテンが開いた覚えも無かった。


「先生」


 僕は窓を見つめながら、小さく口を開いた。


「はあ、何でしょう」


 老医は落ち着いた声色で、僕に返す。その瞬間、僕は老医の顔に目を向ける。そうしてやっと、その瞼で隠された瞳を見ることが叶った。


「外は、どうなっていますか」

「良い天気ですよ。夕方は雨の予報ですが」

「いいえ、そういうことではないんです。外にいるのは、警察ですか、それとも報道関係者ですか」


 僅かに、看護師の口元が揺れる。老医の目線はしっかりと僕を捉えたままだった。


「退院時には人払いはしますよ。ご家族からは、そのまま郊外の別荘で暫く一緒に過ごすと聞いています。貴方自身は、何も伝えらえていないんですか」

「そうですね、特に何も」


 僕の冷淡な言葉に、彼は一考して、ベッドを見下ろす。ちらりと見えた胸の名札には、「稲井」という文字が確認できた。


「稲井先生」


 名を口にする。口に含んだキャンディを転がす様に、ころりと甘く、老医・稲井の名を唇に宿した。


「先生は、僕の家族や警察から、僕のことをどう聞いていますか。

 儚く弱々しい、生白い手足が浮かぶ肉の無い青年?

 それとも、この口で人を惑わす危険人物?

 ――――もしくは、人を殺しておいて、冷蔵庫を漁り糖と脂質に浸っていた狂人、ですか」


 舌の回りが、異常に速い。次々に言葉が漏れる。演じているだとか、周囲の言葉を誘うために畳みかけているわけではない。これは僕の意志から漏れている言葉だが、完全に自分で支配した選択ではない。


 ――――僕は、この感覚を知っている。


 それは、床に這いつくばって自分の眼球を取り戻そうとする男の手に、鋏を落とした時。

 或いは、腐った眼球が煮詰まった風呂を漂った時。

 壊れた冷凍庫の中で、妖美な女に口づけをしようとした時。


 否、僕はもっと前からこの感覚に足首を掴まれて、誘われている。


 ――――それは、母の頭蓋に、包丁を何度も振り降ろした時。


 グッと、胃の上部から何かが込み上がる。同時に鼻腔で沸騰した血液がプチプチと血管を破る。

 喉からは胃酸が、鼻からは混濁した血が、それぞれ僕の上半身を汚していく。


「七竈さん!」


 稲井医師の、焦った声が聞こえた。看護師は、僕の手を握っていた。吐き気で真面に状況が飲みこめない。

 泡立つ脳と視神経で、医師の目を見上げた。


「知っているんです。僕、知っているんですよ」


 体液の流れる口が、勝手に動く。気ままな舌を制御する術は、既に無かった。


「これは、興奮――愉悦と呼ぶんです。僕は今、とても心躍っているんです」


 バツンと、ブラウン管テレビの電源が落ちるように、視界が消える。そこに残った感情は、やや冷めた二〇度くらいの血液のようなナリをしていた。


 気が付くと、暗い、部屋があった。一点で切り取った視界でもわかる。これは、いつもの夢――――銀細工の男の、台所だった。悪夢を前にしても平然としていられるのは、慣れというのかもしれない。いや、慣れているというよりは、今、目の前に、その家主が赤子のように蹲っている、という要素が大きい。

 白く巨大だが、衣服は黒で統一されていて、高級感がある。それら衣裳で着飾らなくても、彼は氷の彫刻の如く、冷たく完成された造形をしていた。まるで僕とは正反対の彼は、酷くやつれた顔から、ボロボロと涙を流し続けていた。


「これを呟くのはもう八七回目なんだ」


 唐突な彼の言葉に、足がすくんだ。ただ、よく咀嚼してみれば、その声色は、今まで聞いた誰の声よりも柔らかく、冷たかった。


「いつ君が僕の夢を見ているのか、わからないから」


 だから、もう一度言うね。

 彼はそう言って、宙に目をやる。僕はそんな目線の先に、自ら腰を掛けた。


「僕ね、君が人を殺す夢を見るんだ。僕は君として、人を殺す。きっと、これは君の過去だ。僕は、過去の君として、夢を見ている」


 ぽつりぽつりと、音が床から落ちてくる。涙は既に止んでいた。


「切って刺して割って潰して焼いて……正直、気が狂いそうだった。けどね、人間というものは、慣れるもので……三回目くらいからね、楽しみを見つけたんだ。成長する君の手を見るのが、嬉しかった。何となく、君が生きた人間なのだと、生き物の暖かさを実感できた」


 成程、彼は僕と似た状態にあるらしい。僕達は、お互いを夢で体験し合うことがある。特に彼については、僕の過去そのものを、一人称視点で見ているらしい。


「だから僕は、君に会いたくなったんだ。段々と歳を重ねて、今に近づく。そうすると、君と僕の歳が近いことも分かって……それで、君を知りたくなったんだ。知りたくなった頃、僕は君の部屋の夢を見た」


 次第に、言葉が支離滅裂になっていく。知りたい、知りたいんだ、と何度も口を開けた。そして暫くの後、やっと、文節の有る言語を吐き出す。


「何も無さ過ぎて、不安だったよ。それでね、ふと、思い立ってね、君の姿が知りたくて、僕は、探したんだ。でも見つからなかった」


 次の言葉を、予測するのは簡単だった。彼は僕の顔を俯瞰することが出来ない。


「――――ねえ、どうして、君の部屋には」


 思考が透き通っていく。その続きは――僕の部屋には――――


「鏡が無いの?」


 クローゼットにも、玄関にも、風呂場にさえ、僕の部屋には鏡が無い。僕の部屋には、僕を見るためのものが一つも無い。


「きっと、凄く可愛いのに。もしかしてお化粧もしていないのかな。勿体無いよ。君はもっと、着飾るべきだ」


 最後、ふわふわとした口の端から、男のそんな一言が漏れた。その言葉が、まるで着火剤のように僕の頭の血を沸かす。


「ふざけるな! この××××が!」


 不快感を吐き出して、銀細工のその顔に投げ付ける。自分でも何を言っているのかわからない。それでも多種多様の罵詈雑言を、喉が焼けるまで唱え続けた。


「僕は、僕は可愛くない。僕は女の子じゃない!」


 吐き出すものが無くなった頃、そんな言葉が浮かんで、ぼろりと舌の上から転がり出た。


「お前も母さんと同じことを言うのか――――ずっと、お前ならわかってくれると思っていたのに」


 ふと、僕のような、そうじゃないような、そんな、切望が胸から溢れた。

 急激な吐き気で、再び視界が揺れる。今度は白い光が、僕から暗闇を奪い、現実へと引き摺り戻した。

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