第30話

 艶の確かな子供らしさが強い頬。指先は以前あったような穢れを失って、爪が整えられている。隅々まで清潔さを体現した棗というこの一人の少年は、実に愛らしく、遠目に見ても美しい。


「もう歩けるようになったのか」


 入口からそれ以上踏み出せないでいる彼を誘うように、ワントーン上の声を出す。棗はパッと明るく目を開いた。


「見た目ほどに危ない傷じゃなかったって、お医者さんが」


 彼は自分の頭を指差し、目を細めた。同時に、ニパっと開いた口には、八重歯がチラリと見えて、活動的な印象を見せる。その頭には物々しくも包帯が巻かれてはいるが、傷口を抑える軽い固定といった様子だった。


「それで、あの、ハラヤさんと少し話をしたくて、その」


 棗はふと僕から目線を逸らす。その先には、義兄がのほほんと壁に背を預けていた。


「俺のことは構わずに話してくれ」


 義兄は棗に微笑むと、彼と目線を同じくした。もう一度、笑顔を作り直して、口を噤む棗を宥めるように言った。


「七竈友美という。ハラヤの義理の兄だ。心配せずとも邪魔はしないよ」


 彼の絶妙にズレた言葉は、棗にはイマイチ刺さらなかったらしい。棗は困った様子で、僕の顔を窺っていた。


「義兄さんは刑事だ」


 そう、僕は言葉を零す。その後に続く意を、棗なら汲み取れるだろう。

 僕はベッドの手すりを握って見せた。少しだけ、僕に合わせて口角を上げた棗が、再び口を開いた。


「なら、悪い人じゃないんだね」


 僕は、棗の作り笑いに、短く「あぁ」とだけ一つ返した。

 やはり棗は、ある程度は僕に近しい部分がある。自分の武器、見目の良さを知っていて、それで自己の強かさと秘密を、うまく隠している。もしかしたら、僕よりも日比野の方に近いのかもしれない。打算的で、自己中心的で、それを基とした合理的な思考をする人種。


「初めまして、友美さん。青木棗といいます」

「話には聞いているよ。元気そうで良かった」

「さっき、違う刑事のおじさんにも、同じことを言われました。話がしやすくて安心した、とも」


 棗の言う『おじさん』の正体に、何となく気付いて、僕は義兄と目を合わせた。


「それで、ハラヤさんの方にも、来てるんじゃないかと思って。あのおじさん」

「来たよ。それでさっき、ひと悶着あった」

「その反応、なんか、予想通りって感じ」

「トータル五分も会話していない奴が僕を語るな」

「うん、ごめん」


 何の為にもならないような、中身のない対話。僕は暇を持て余した指を、煙草の草を詰める時のリズムで、机に叩きつけた。


「……茶でも飲んでいくか」


 耐えきれず、ベットから足を下ろす。同時に、義兄が棗に椅子を差し出した。流れるように場が整う。

 まるで不思議の国のアリスに出てくるような、奇妙な茶会だった。何も知らない刑事正義の人殺人者が揃って、幼い美少年を持て成そうとしている。

 ティーカップの中でじわじわと赤い靄が滲んでいく。渋みと甘みの混ざった。明るい香りが部屋に浸透する。義兄が、いつの間にか僕に代わって、それぞれにカップを回していく。


「で、あの刑事について、話したいことがあるんだろう。手早く言え。愚痴くらいなら僕も聞ける」


 寂しい口を、渋い湯で慰める。手の甲で口元を拭った。棗は目の前でチビチビと湯気を口に含んでいた。彼は品良く唇を潤わせていた。


「これ、馬鹿にしないで欲しいんだけど」


 棗はチラリと義兄に目配せして、口を開く。


「あのおじさん、幽霊をたくさん連れて歩いてて……」


 幽霊、と言う単語に、義兄が揺れた。僕は口を止めかけた棗に、続けろ、と言った。


「もしかしたらハラヤさんにも見えてるんじゃないかと思ったんだ」

「僕にも見える、と思ったのは、何故だ」

「ハラヤさんにも僕にも、憑いているから。幽霊」


 ジッと、真剣に語る棗の顔を見た。その髪の隙間から、棗と同じ年程度の、細い手が這い出る。現実感の薄い、白い指と、頭髪が交差する。血管の浮いた眼球が、僅かに僕を覗き込んだ。


「ハラヤさんの、その女性は誰」


 棗は誰かの指と眼を、冷静に拭う。その間にも、彼は真っ直ぐに、大きな瞳で僕を捉えていた。


「誰と問われて、答えられる相手じゃない。元々、関わりは無い相手だ」

「そう、そっか」


 納得はしていない。棗はそんな顔を浮かべていた。

 息を整え、互いの背後、体を舐めるように観察する。それは、見えているものの、整合性を得るための、儀式的な行為だった。


「お前に憑いているのは、あの真昼とかいう奴か」

「うん。喋ってくれることとかからも、そうだろうと思う」

「……ふうん。仲が良くて羨ましい限りだ」

「そういうハラヤさんの人魚さんだって、美人じゃないか」


 棗の言葉が吐き出される次の瞬間には、頸筋にひんやりと粘液が垂れる感覚があった。水分が僕の首を絞めつけるようと、必死に縋っていた。


「和泉恭子。最近あっただろう。大学の冷凍庫から、加工された女の上半身との一部が見つかった、そんな猟奇事件が」


 そいつらしい、と、僕は首を摩った。和泉の指を、ひっそりと手折る。冷気は微熱に変わり、そしてゆっくりと霧散した。


「なんの話をしているんだ、お前達は」


 僕と棗の間で、義兄が唸る。


「……見えるものを語っているだけだよ」

「子供を巻き込んでまで揶揄わないでくれ」

「僕らはいつでも正気で、本気で言ってるんだけど」


 歪に頬に力が入った。繕う余地が失われつつある。それでも、手で口を隠し、棗と共に義兄を睨んだ。


「お兄さんには、やっぱり見えてはいないんですね」


 凍り付いた部屋で、再びの解を歩み出したのは、棗だった。


「だってお兄さんには、何も憑いてないじゃないですか」


 棗は義兄を指差す。その周囲に、暗い気配は一つも無い。見えるのは、青ざめた本人の顔だけだった。


「これは僕の予想だけど、もしかして、幽霊って、幽霊に取り憑かれてる人にしか見えないんじゃないかって」


 棗の言う『幽霊』を『怪異』に落とし込む。そうして、近々の体感を反芻した。

 確信こそ出来ないが、何となく、その考えには理解が及ぶ。


 ――――しかし、ならばこそ。


「確認しないといけないことが出来たな」


 僕は再び、義兄と正面で対峙した。背筋の美しく伸びた彼を、僕は猫背で仰ぎ見た。


「立花さんと、ちゃんと話せる環境が欲しい。棗と、あともう一人、知り合いと一緒に……小清水は離れていてもらって」

「それは、事件捜査に協力するためなのか」

「そうでもある。決して立花さんを揶揄うわけじゃない」


 信用して欲しい、と、僕が付け足すと、義兄は眉間に皺を寄せる。棗の不安そうな表情に目を移した後、数秒の沈黙を捨てた。


「一日待て」


 短く、義兄はそう吐いて、部屋を出る。その背を見送って、僕と棗は、互いに顔を見合わせ、息を吐いた。

 外はもう、夕刻の赤に染まっていた。

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