第26話

 “それ”が見えた時、新原の手が止まった。

 呼吸音だけがその場でリズムを刻んでいた。四肢の筋肉は硬直していた。


「何で」


 新原は目線一つ動かすことなく、気の抜けた声を上げた。彼の鋏を持つ手が、緩んだ。


「何で無いのよ」


 新原が僕の少年性をそう称した瞬間、透かさず左手を前に出す。指先まで血が瞬時に満たされる感覚。全身が、ポンプ式の機械にでもなった様に、連動している。

 僕が新原の手から鋏を奪い取るまでに、一秒もかからなかった。


「二番煎じなんだよ、クソ野郎」


 動き続ける全身とは別に、口と意識が動いた。再認する憎悪。そして苦し紛れの愛情は、この男へは見当たらない。ただ明確に、冷静に、脳だけが動く。

 新原は目を丸くして、僕の顔を見た。僕はその眼に、力いっぱい鋏を振り下ろす。

 眼球を貫く感触は、プチトマトにフォークを入れる時と似ている。飾りの無い男の無様な雄叫びが部屋を震わせた。煩わしく叫ぶので、喉笛を切り出そうと、眼孔から鋏を引き抜いて、刃を開く。立ち上がり、刃を二つ、新原の喉に添えた。しかし、体液で滑って、上手く刃が内臓まで到達しない。仕方が無く、頸動脈を露出させるに留める。僕はもう一度、大きく振り被って、握りしめた鋏を突き立てる。今度は気道に真っ直ぐ鋏の先が埋まった。引き抜けば微かに空気が漏れた。

 そして、顔と首を抑えこむ新原が、僕を見上げた。床に這い、潰れていない片目に、震えながら僕を映していた。


「つけま落ちてるぞ。拾えよ」


 ふと、床に落ちていたのは、つけ睫毛の張り付いた瞼と、その奥にしまってあったはずの眼球。それを足先で新原の傍へやる。すると、彼は顔から手を離して、その眼球を取り戻そうと伸ばした。抑えを無くした眼孔からは、涙のような、脳髄のような、血のような何かが垂れ流しになった。そうして、僕の足元まで手が伸びる。眼球に手が触れた瞬間、僕はその上に鋏を落とした。さっくりと貫通した鋏の先が、反射で裏返った掌から見えた。

 血の泡を吹きながら転げまわる彼の滑稽さに、急に頭から血が引いていくのが分かった。


 煙草吸いたい。お腹も減った。


 ふとそんな言葉が浮かんだ。新原と棗を置いて、部屋に唯一の戸を開く。僕の『記憶』が正しければ、数歩進んだ所に台所とリビングがある。とんとんとん、と、軽やかに、清潔な廊下を汚した。可愛らしいマグの敷かれたリビングを歩いて、台所のシンクに辿り着く。家具やインテリアこそ違うが、やはりそのおおよその配置はあの部屋と同じだった。

 冷蔵庫は白く大きく、可愛らしいマグネットが大量に張り付いていた。

 夢から醒める直前のように、僕は義務感で目の前の扉を開けた。血の匂いも、生ゴミの腐敗臭もしない。

 タッパーに入った作り置きのスープと、使いかけのジャムやバターが目に入った。僕はその中から、苺のジャムと箱に入ったバターを取り出した。未開封のバターから乱雑に銀紙を剥がし、ごろごろ実が残るジャムをかけて、口に運ぶ。手と口から溢れる糖と脂質が、どうにも幸福だった。




「――――相も変わらず、美味そうに食うね、君は」


 粘着質な声が、背後から聞こえた。直感で、振り返ることが許されないことに気づいた。この声を、僕は知っている。


「隣室が随分と楽しそうだったから、来てみたんだ。何、君、結構な料理の腕を持っているらしいじゃないか」


 彼の髪が揺れる度、鼻を抜ける柘榴の香り。彼は僕の肩に手を置いて、首を撫でた。


「……良い子だ。やっぱり君は小清水より数倍頭が良い。シュレーディンガーの猫である方が、状況を悪化させるリスクを取るよりずっと良い。そうそう、そのまま、僕の言う通りにしてはくれないだろうか」


 僕は彼の手を払って、息を吐いた。


「その見返りは」

「君の日常と僕の親友の平和」


 かけられた天秤の重さの違いが分からなかった。ただ、一つ、日常というものが守れるなら、それ以外はどうでも良く感じた。

 了解の意を短く、わかったと呟くと、彼は僕の耳元で笑った。


「少年を連れて、大通りの交番へ。誰が止めても、何を言われても、何をされても、交番へ行くんだ。そこでただ『助けて』と言うだけで良い」


 彼はそう言って、僕の肩から手を離した。数秒の後、玄関の扉が開く音がした。それを合図に、僕は振り返る。背後にはもう誰もいなかった。そのまま部屋に戻って、まだ小さく息のある二人を眺めた。新原が邪魔だったので、顔を蹴り飛ばして、道を作った。そうして棗を抱える。彼の体重を感じると同時に、薄っすらと目が開いて、僕の顔を見ていることに気づいた。


「出るぞ」


 頭から血を流す少年の睫毛は、自前ながら長く美しかった。彼に意識があるかはわからなかったが、それでも、僕は一歩ずつ、ゆっくりと歩を進めた。


 マンションを出て、路地を抜け、大通りへ。

 そうしている間にも、僕達を指差して、声を上げ、通報し、スマホを向ける者達が集まった。数人に囲まれる頃、耳に何も聞こえなくなった。そして、急激に棗の体重を背に感じた。

 よろよろと通りを歩いて、人だかりの中に交番を見つける。そのガラス戸に手を当てて、青い人影を睨んだ。


「たすけてください」


 僕は糖分で張り付いた喉から、それだけを絞り出し、重心を前に崩した。

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