第27話

 自然と、瞼が開いた。

 久しく経験していなかった、深い眠りから覚める感覚。スッキリと脳の霧が晴れていることが分かる。

 しかし、爽快な目覚めとあっても、管が絡む腕や、鈍く重い体が、僕の動きを制限する。

 白い天井には見覚えがあった。左腕の太い針の感触には、最早懐かしさすら感じられる。


「すみません」


 か細く、唇だけを動かして、声を出す。自分でも驚くほど、掠れた音だった。まるで喉の水分が全て失せているのではないかとすら思える。

 そんな声は何処にも届くはずがなく、僕を囲うカーテンは風で揺れることさえなかった。

 動かない体で、何とかナースコールを押せないか試みる。そうして、手指を動かした時だった。

 手の甲を、生温いものがぬるりと這う感触。指の間を抜けるのは、長く濡れた髪。それは僕の腕を伝い、生臭い顔を寄せた。


「おはよう。よく眠れたかしら」


 見た目に反して流暢に、彼女――――和泉恭子は笑った。霧子と同じ声で、より粘度を含み、僕に息を吹きかける。死者なれどもその息を共に飲むほどに、美しいと思った。白い指と、濡れた黒く波打つ髪が僕の唇に触れる。


「これは夢じゃないのよ。よくよく見なさい。私は現実。ずっと貴方の傍にいた」


 僕が動けないのを良いことに、彼女は僕の首筋に舌を這わせる。嫌悪感が募った。表情を見て察したのか、彼女は顔を近づけて、楽しそうに、にんまりと口角を上げる。


「ハラヤはとっても可愛いねえ」


 そう言って、和泉は僕の視界から解けて消える。頸筋と耳に、粘液をへばりつかせたような、ねっとりとした不快感が残った。


「クソ、あんなのばっかりか」


 ふと勝手に口が動いた。乾燥した喉の粘膜が互いに絡み、嗚咽を促す。肺と気管に強い衝撃が走る。


「ハラヤ?」


 車輪が回る音がして、病室の扉が開く。誰かが僕の名前を呼んだ。あの粘ついた不快な女の声ではない。ハッキリとした、若々しい男の声。若い男で、僕をハラヤと呼ぶ人間は、この世に一人しかいない。


「義兄、さん」


 カーテンを開き、迷わずナースコールを押そうとしたのは、正しく義兄の七竈友美だった。凛々しい彼の横顔は、よく見なくても、焦りを含んでいる。


「無理に声を出すな。一週間も眠っていたんだ。上手く話せるわけがない」


 そう言って、彼は眉を顰める。ナースコールを押そうとする手が止まる。僕を見下ろすその姿は、真面目で忙しい義兄にしてはラフな、ダボダボのパーカーだった。


「……義兄さん、仕事は?」

「喋るなと言ってるいるだろう。被害者に家族がいるんだ、外されて、休暇を貰ったんだよ」


 今年二五歳のこの義兄は、よく言う刑事という奴で、周囲から聞くには、相当優秀らしい。


「外されたってことは」

「あぁ、捜査をしていた」


 僕に対し、黙らせることを諦めて、義兄はベットの傍の椅子に腰を掛ける。


「……でもお前が行方不明になったと小清水君から直接連絡されて、よく聞けば、今までの被害者が消えた付近での失踪で……それに、その、お前は顔立ちが……少女的だろう。報告したら、関連性アリと判断され、それで」


 丹念に彼は、事実を語る。僕への気遣いか、何度も口籠りはするものの、大体のことは理解が出来た。


「それで、捜査から外された、と」

「外されたは良いが……まさかお前が被害者になったその日のうちに、自力で脱出してくるとは、思っていなかったよ」


 少し呆れたような、気の抜けた顔で彼は言った。安心感や、何処か困ったような様子も滲み出ていた。半年ほど顔を合わせない間に、老けたようにも見える。


 そんな話をしているうちに、ふと思い出して、僕は再び口を開いた。唇が切れて、血の味がした。


「それで、新原はどうなった」


 僕からの突然の問いに、義兄は一瞬で顔色を変えた。憎悪を絡めた、苛烈な怒り。それらを含んだ表情で、彼は短く言った。


「取り逃した」


 一瞬、聞き間違えたのだと思った。取り逃がすはずがない。否、新原の体が移動するはずが無いのだ。彼は、僕の手で死んだのだから。


「監禁場所のマンションを調べたらしいが……新原は既に何処かへ消えていた。お前がもう一人の少年を連れて逃げた時点で、ヤツも警察が来ることを察して逃げたんだろう。新原たかしには縁者もおらず、何処へ向かったのかも不明だそうだ」


 義兄はそう言って、長く、深く、息を吐いた。


「すまない。怖がらせるようなことを言って。不安だろう」

「別に」

「お前はこういう時冷静だな。俺よりも刑事に向いているんじゃないか」


 感情がくるくると動く彼は、少しだけ笑った。僕はやっと動かせるようになった手で、頬を掻いた。


「……そういえば、もう一人の少年も、落ち着いていたな。彼なんか、より長い事あそこに監禁されて、トラウマになっているだろうに」


 少年、という単語に、耳が傾く。


「棗、生きてたんだ」

「名前を知ってたのか」

「あそこで、少しだけ話をした」

「そうか。親御さんがお前に礼がしたいと言っていた。実際、お前が連れ出さなければ、彼は殺されていただろう。醜いが、良い縁だ。後で棗君とも面会すると良い」


 清々しいまでの善意で、義兄は言った。

 きっと、棗が落ち着いているのは、新原が死んだことを知っているからだろう。それでも、現場からは僕が新原を殺したという疑いさえ出ず、棗も僕を理解して、何も言わずにいるのだ。僕はそれ以上、何も深くは語らないと決めた。


「……帰ったら考える」

「そうか」

「義兄さん」

「なんだ」


 話の区切りがついて、彼は僕の枕元に合ったナースコールを握った。


「煙草吸いたい」


 僕が願望を垂れ流すと、義兄は困った様に眉を顰めた。数秒後、溜息と共に、ナースコールのボタンを握る。


「帰ったら考えてやる」


 そう言って、彼は朗らかに笑った。

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