第22話

 プシューと気の抜けるような音と共に、バスの車体が止まった。僕と小清水、その他見覚えの少ない学生が、ダマになって流れ出た。狭い車内から出ると、それぞれが散り散りに、各々の求める建物へ吸い込まれていった。立ち竦む僕の隣で、小清水がスマホを見る。暫くして、あっちだと空を指差した。その先にあったのは、少し急な傾斜と『学生課』の看板だった。よく見れば、その建物そのものが事務関係をまとめている場らしい。迷いなく歩き出した小清水を追って、その坂を上る。足の角度が、坂の角度に比例する。数歩で息を上げた僕は、残りの十数歩を小清水に引きずられるようにして進んだ。古く暗いガラス扉の入り口が、口を開けて僕達を待っていた。

 僕は深呼吸で心拍を整える。


「大丈夫か」


 小清水がへにゃりと笑った。僕はそうやって見下す彼を睨む。小さく、煩いと呟いて、僕は冷気の洩れる建物の中に飛び込んだ。

 スッと汗が引いていく。まるで冷蔵庫に入ったかのように、体の芯が冷えるのを感じた。顔を見上げれば、受付の奥でパソコン作業をする女性の一部は、季節に似合わぬカーディガンを羽織っている。


「すみません」


 そうやって、僕はその中の一人に声をかけた。一番近い席の女性が、ハイと短く応えた。彼女は一度、顔を暗く顰めるが、僕を見てすぐに微笑み、口をパッと開いた。


「貴方が七竈君だったのね」


 唐突に、彼女は僕の名を呼ぶ。そうして、己を指差した。


「私、新原って言います。あの、日比野さんの隣の部屋の。ほら、君、お掃除が終わって、日比野さんと後ろの子と一緒に、外にいたじゃない」


 気を張ることも無く、彼女はジェスチャー交じりに何度も説明を重ねる。

 僕は小清水と顔を見合わせた。そういえば、あの時、大きな鍋を持っていた女性がいた。どうやら彼女――新原さんは、あの時の女性だったらしい。


「七竈君は今朝お電話させてもらった件で来たのかな。君、日比野さんの部屋の前で、学生証を落としてたんだよ」


 彼女はそう言って、僕の前にプラスチックケースを出す。その中には、数枚のプラスチックのカードが重ねられていた。そのうち、一番上のものを新原さんが取り出す。そうして、手で胸に抑えるように、カードの表を隠した。


「学籍番号を暗唱してもらえる? うちの学生証、顔写真が無いものだから、本人確認はそれでお願いしてるの」


 丁寧に、彼女は指先で僕のカードの表面を撫でる。僕が淡々と数字を口にするのと合わせて、彼女も指と目でカードの番号を追っているようだった。唱え終えてすぐ、新原さんは僕の顔を見て笑った。


「はい、ありがとう。もう落とさないでね」


 そう言って、彼女は受付カウンターにカードを滑らせる。


「ありがとうございます」

「あ、もしもだけど、今度こっちから電話するような時は、必ず電話を折り返してからここに来てね。その方がスムーズなの」


 新原さんは、お願い、と小さく手を合わせた。僕が頷けば、彼女はすぐににこりと口角を上げる。ここの大学の事務員にしては、愛想の良い人だと思った。

 そうしているうちに、背後に小清水以外の気配が近づいた。すると、新原さんはハッとして、僕達を見た。


「ごめんね引き留めて。後ろの子は何か御用があるかしら」


 彼女は小清水にそう問いかける。すぐに小清水は掌を見せて苦笑した。


「いや、俺は付き添いです」


 あらそう、と、新原さんは少し興味なさげに言った。数秒の沈黙の後、耐えきれなくなった小清水が、僕の肩を叩いた。


「もう行こう。教科書買わないと」


 僕はそうだなと口を開いて、新原さんに背を向けた。直後、隣を見知らぬ女子学生が通り過ぎる。彼女もまた、事務に用があるらしい。入れ替わりに、新原さんは再び笑っていた。その表情は、僕に向けたものよりも、何処か営業的に見えた。僕は彼女のその唇に気を取られ、僅かに足をふらつかせる。小清水が僕の背を支えた。扉の前の足ふきマットが、僕の体重で少しずれた。


「体調悪いのか」


 外からの風を受けてすぐ、小清水は僕の目を見てそう言った。その問にも、僕は返答するのに時間を要した。


「また夢を見たのか」


 心底心配そうに、彼は口角と眉を下げる。顔色が悪い、とガラス窓を指差した。ブラインドの落ちた窓には、隈の出来た僕の顔が映っていた。正確な顔色こそわからないが、どうやら酷くやつれているらしい。少しかさついた唇が切れた。口の中に鉄の味が広がる。


「今日はもう帰ろうか」


 僕の返答を待たずして、小清水が再び口を開いた。


「いや、いい。僕も後期の教科書を買わないと」

「でも」

「良いんだ。夢は確かに見た。けど、だからと言って、帰れば解決する話じゃない」


 自分の語尾が鋭くなったのを感じた。無意識に額に力がかかっていた。どうやら僕は、今、酷い顔をしているらしい。小清水が、まるで子犬のように僕を見ていた。


「……わかった。じゃあ、行こう」


 小清水は不安そうにそう言うと、瞬きを数回して、また口を開いた。


「買い物が終わったら、次に行きたい場所があるんだ。付き合ってくれないか」


 繋がれた言葉は、今しがた考えついたように、あやふやで、妙に居心地が悪いものだった。どうやら今思いついた策のようなものがあるらしい。このお人好しのことだ。悪い事では無いだろう。僕は溜息を交えながら、応えた。


「良いよ。今日はこれで平等イーブンだ」


 答えを聞いた目の前の彼は、歯を見せて笑う。

 それじゃあ、と、小清水は売店を目指して、一歩、足を出した。僕はそれに合わせて二歩歩く。下り坂で、また足がふらついた。今度は自分のつま先で重心を取り戻す。小清水は気づかなかったのか、そのまま坂を下って行った。

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