第21話

 眼球の奥が潰れるような感覚があった。酒で血圧が上がったからか、横になっても眩暈がする。僕は立ち上がり、壁伝いに台所を目指した。

 シンクに顔を突っ込んで、蛇口を捻る。真夏日の温い水が、僕の髪を濡らす。顔に伝う水が、唇までもを侵し、口へと入る。急に、嗅ぎ慣れた鉄錆の臭いがした。ハッと、目を開く。

 眼前にあったのは赤い水の流れる川。否、水と共に洗い出される、僕の身に染みついた血液。

 僕は急いで水場から離れる。手や周囲に恐る恐る焦点を合わせた。触れた場所が分かるくらいにはハッキリと、赤い自分の手形が、銀色のシンクに残っていた。いつの間にか存在しているまな板に、そっと目をやった。その上の、不可思議な物体は、血の滴る肉塊のようにも見える。しかし、形状は塊とは言い難い。幾つかの物体が一つに集められているようだった。その一つ一つは、人の指に似ている。だが、人の指というにはどうも短く節は無い。また、指紋のようなものは見えず、皮に包まれている。

 僕は意を決して、それに触れた。グミのように柔らかく、また弾力もある。何かしらの道具で切り取られたのか、綺麗な切断面があった。骨こそ通っていないが、切るのには力がいるだろうと思える。僕はそっとそれをまな板の上に戻した。手を離すと、ねっとりと血液が糸を引いた。いつもと感触が違う。どうやら別の粘液も混じっているようだった。乾いたまな板の一部に赤い粘液を擦り付け、僕はシンクを背にする。目の前にあったのは、見慣れた冷蔵庫だった。上部にゴミ出しの日の一覧を貼り付け、いつでも確認できるようになっている。いつも通りの、僕の部屋の一部だった。白いボディが赤で彩りを添えられている以外は、ごく普通の冷蔵庫だ。

 僕は溜息と共に、その場に座り込んだ。水と血が混ざり、生臭さが鼻を強く刺激する。手で眠たい目を擦る。バリバリと乾き始めの血が落ちた。引っかかり合う皮膚同士を、シールでも剥がすように静かに離す。唇がパックリと割れた。自分の血と、他人の血が混ざって、口を流れる。その味に違いは無い。少し塩気の強い、鉄の味だった。

 ふと、あることに気づく。僕は足を引き、眼前の赤黒い扉を見た。キッチリと閉じた冷凍庫の扉は、この部屋で一番の異常性を放っていた。恐る恐るそれに手をかける。磁石同士が吸い付き合う感触があった。胃がギュルリと鳴った。

 この感覚には覚えがある。だからこそ、この手を動かしたくなかった。このまま布団に戻って、やり過ごすのも手だと思った。

 しかし、それが無駄であることも理解できてしまう。この夢は僕の意志など関係ない。見なければいけない。知らなくてはならない。そんな脅迫概念が、僕の夢を縛る。

 そうして、手を引いた。力がかかった内肘が、少しだけ筋肉痛様の痛みを主張する。同時に、光が漏れる。冷凍庫の中は、光でいっぱいになっていた。音も無く扉が解放される。溢れ出たのは、冷気と僅かな生ゴミに似た苦みのある臭い。そして、最早見慣れた赤い塊。凍った血液に、霜がついていた。僕はそれを指先で溶かす。ぬるりと血の塊が落ちて、肉眼に認めるのは、白く硬く凍ったヒトの皮膚だった。

 見た目には弾力のありそうな、若々しい足。指先は固く閉じられていて、開きそうにない。大きさは僕より一回り小さく、少女的な丸みが見て取れた。しかし、所々に見えるのは、大人になる一つ手前の刺々しさ。成長期特有の歪な肢体。それは血の気が失せた表面を強く主張するように、白く反射していた。四肢の先から伝って、胴を見る。少年性の徴は切り取られ、唯一そこから生命的な血が流れた痕があった。そっとそれを手で視界から隠す。氷を掴むように、掌の感覚が損なわれていく。腹と肋には、無駄な肉が少ない。頸筋は張って、喉仏は未発達だった。その上の、ささやかな青紫の唇は、半開きに冷気を吐き出していた。頬を伝う体液は、恐怖と苦痛に殺されたことを物語る。少年は白濁した角膜を見せつけるように、その大きな目を見開いていた。

 少しだけ身を引いて、少年を見下ろす。彼は小柄な身体を赤子のように縮めていた。凍って固くなった髪の隙を覗くと、彼が所謂、美少年の類であることがわかる。

 そして、無意識に口が動いた。


「似たようなことをする奴が、この世には溢れてるもんだな」


 僕はゆっくりと、冷凍庫を閉める。憐れみに近しいものが、喉奥から漏れる。急に、また目の奥が痛んで、全身から力が抜けた。


 もう一度、薄暗い視界を揺らす。瞼を開ける。目の前にあったのは、扉の閉まらない冷凍庫だった。冷気も血も、底からは漏れて出ていない。プチプチと顔の中心から何かが切れる感触がした。どろりと、鼻奥から濃い体液が流れでる。鉄分と塩気が口内を蹂躙する。口で呼吸をすれば、吐き気が走った。

 手探りでシンクまで体を伸ばす。僕はそのまま水を被り、頭を冷やして顔を洗う。その様子は、夢で見た血染めの己とよく似ていた。ふと隣を見るが、まな板と肉の山は無かった。

 一呼吸置いて、タオルに顔を埋める。薄めた血糊が、布に染みこんだ。やっと垂れることを止めた血液が、最後に一滴だけ、カーペットの上に円を作った。それを足で踏む。温い感触が、僅かに足から脳に走った。僕が歩く度、部屋が汚れていく。生臭さが室内を覆う。

 すると、唐突にピルピルと甲高い音が耳を突く。聞きなれたスマホの着信音だった。画面には見知らぬ固定電話の番号があった。不信感が僕に電話を取らせない。数回のコールの後、それは止まった。同時に、インターホンが鳴る。


「七竈、起きてる?」


 小清水の男性的な声が聞こえた。僕はスマホを掴んで、玄関の鍵を開ける。眠そうな彼が、僕を見下ろす。小清水が口を開くより前に、僕は丁度良かった、と手にあったスマホを顔に押し付ける。


「お前、この番号に心当たりはないか」


 スマホの画面を見ると、彼はきょとんと眼を丸くする。が、すぐに苦笑した。


「それ、うちの大学の学生課だろ。忘れ物とかすると、かかって来るんだ」


 そう言って、小清水は僕を押して玄関に入り込む。彼の服装は、大学に行くときのそれだった。


「俺も後期の教科書買いに行くから」


 付き合うよ、と彼は笑った。どうやら、僕の準備をここで待つつもりらしい。僕は血で詰まった鼻から息を吐く。最低限の荷物を詰めた鞄を取る。ジャージを替えて、濡らしたティッシュで顔を拭いた。


「学生課って何処だ」


 僕は小清水の背を叩いて、立ち上がらせる。交通量の多い大通りから、いつも通りの、人間達の話声が聞こえた。

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