二章 産業廃棄物
第17話
夏の長期休暇も終わりに差し掛かる今日この頃。僕は入眠障害を抱えつつも、なんとか冷凍庫の無い夏を生き延びようとしていた。
友人である小清水も、教職課程の実習やら集中講義やらで忙しそうだった。そんな中、大学教職課程への恨み辛みを垂れ流してはいたが、決して遅刻や自主休講には至っていない。やはり何処までも真面目な男である。忙しい中でも僕の生存確認は毎日怠らない。
しかし、そんな性格も、言い換えればお人好しという悪癖になる。かつてから彼はその性格でトラブルに巻き込まれることも多かった。それに僕まで一緒にされるという事故も多々ある。勿論、つい最近のように、僕が巻き込んでいる事例もあるが、それ以上に、小清水の広い友人関係は、豊富なトラブルの元だった。
「いやあ、本当に迷惑をかけるね」
僕達を自室へと案内していたその男は、ヘラヘラと笑った。その男は小清水曰く日比野というらしい。彼は僕とは学科違いで、今までに面識は無い。教職課程を通して小清水とは既知の間のとことだった。
「迷惑かけてると思うなら、後で飯の一つくらい奢れよな」
小清水がそう言って、持参していた手袋をつける。僕もそれに倣って、マスクと軍手を装着した。
目前に広がる日比野の部屋。それは、所謂汚部屋というものだった。散乱したコンビニの袋。丸めたティッシュの山。多分、以前は米だったろう何か。判別不明の黒い干からびた物体X。それらが散乱して、僕の視界から色を奪っていた。
それらが集まった結果、腐った生ゴミの臭いが鼻腔を襲う。全開になった窓で換気こそされているものの、扇風機がこちらに首を振る度、発酵熱に似たものが顔を撫でた。
「夕方までに終われば高級焼肉にでも連れてってやる」
「偉そうに言うな」
調子乗りの様子がある日比野に対して、小清水は冷静に呟いた。ははっと、日比野が軽く笑う。すると、彼は僕の方に目線を落として、少しだけ不思議そうな表情をした。
「小清水、僕は明日の飯にも困っていそうな、手伝える人間を呼べと言った。けど、こんなお嬢さんじゃ可哀想だろう。もっとなんかいなかったのか、ボディービルダーみたいな奴。お前なら知り合いにいそうじゃないか。野球部とかこう……五人くらい」
「こんなクソ暑い時にそんな暑苦しい男達を集団で呼べるか」
日比野が僕と小清水を交互に見て、困ったような顔をする。どうやら日比野には僕が女性に見えているらしい。確かに比較的男性的特徴の強い小清水を隣にすれば、僕は女性に見られても仕方がない。
小清水が反論を展開しようとしたとき、自然と僕の方から声が漏れた。
「僕は身も心も男なんだが、お前は華奢な人間を全て女だと思っているクチなのか?」
どうも、日比野は突きたくなる性格をしている。僕の言葉を聞いて、スッと黙る様子が、滑稽で仕方がなかった。
だが日比野は、すぐに再び軽薄な笑みを浮かべた。
「実にすまない。そうか、男性の方だったのか。僕は日比野豊という。君は?」
「七竈だ。七竈ハラヤ」
日比野が差し出した手を、僕は反射的に掴んだ。小清水ほど筋張ってはいない。育ちの良さそうな、小綺麗な手だった。こんな男が何故、ここまで部屋を汚く出来るのか、不思議で仕方がなかった。
そうしているうちに、珍しい名前だ、と日比野はまた笑う。僕は首を鳴らす。不快でこそ無かったが、この問答自体が不毛なものに聞こえた。
「主観的に見ても力が強い方ではないが、体力はそれなりにある。是非とも高級焼肉の肉が食いたい。さっさと始めよう」
どうせ、することというのは、この汚部屋の片付けだろう。汚い、と言っても、足の踏み場もない、というほどではない。部屋の輪郭こそわからないが、動線はしっかりと確保されている。
「袋に詰めたら、玄関に一回出してくれるかい。一気に持っていくから」
日比野曰く、このマンションには二四時間使えるゴミ置き場があるらしい。住人は皆、そこにゴミを集めているとのことだった。
腐敗臭漂う物体を一つ一つ拾い上げては、黒い袋に詰めていく。中には割れたガラス瓶などもあって、よくここで怪我もなく生きていたものだと、感心すらできた。度々、日比野にこれは要るのかあれは捨てるのかと聞くが、彼はその度に笑って、捨てていいとしか言わない。
じわじわと、体力が削られていく。臭いを感じる機能は失われていって、時々出てくる黒い虫にも反応出来なくなっていた。日はまだ高い。熱と、汗と、水蒸気が、時間を緩めているようだった。
次々に巨大なゴミ袋を作っては、玄関に投げる。そのうちに、部屋の輪郭がはっきりとした線へと変わる。埋もれていたカーペットの、まだらの変色がわかった。
部屋の隅やダイニングの位置を見る。目は僕の意思に関係なく、ぐるりとその点や線を追う。耳元で、小清水が僕に、どうした、と呟いていたが、僕はそれに反応出来なかった。
……僕は、この部屋の間取りを知っている。
僕は、この部屋と全く同じ形の部屋に、いたことがある。
「日比野、ここの風呂は何処だ」
「バスルームだったら、玄関の方に行って、すぐだけど……」
日比野が大丈夫か、と問いかける。僕はそれを無視して、風呂場の扉に手をかけた。
洗面台と、白く大きな湯船。洋風の、所謂バスルームというらしいそれには、大きな鏡もあった。一つ一つの備品は異なるが、高級感はかつての「それ」と同じだった。
「日比野」
「今度は何?」
赤茶の髪を振って、日比野は眉間にシワを寄せる。
「ここのマンションの住人で、銀髪の、えらく顔の良い大男を見たことがないか」
僕の問いに、日比野は小清水と顔を見合わせた。小清水が俺も聞きたい、と冷静に言うと、眉がほんの数ミリ上がり、彼は短く唸る。
「ここ、部屋だけで百はあるからなあ……」
高層マンションの一角。開いた窓と、ゴミ袋で詰まった扉の間に、熱の籠もった風が吹く。そこで立ち尽くす三人のうち、僕だけが手足を震わせていた。
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