第18話

 そのうち、僕の震えに気付いた日比野が、子犬のような表情で問いかけた。

 

「何かトラブルでもあるのかい?」


 その問いに答えることは出来なかった。僕はゆっくりと呼吸を整える。何も知らないであろう日比野に、僕の夢のことを言って良いものだろうか。頭の中が目まぐるしく動き続けた。

 

「……もし、その風貌の男が、所謂悪人であるというなら、注意をしておこう。今のところ、僕はここでは出会った覚えはないよ」


 彼は、その人当たりの良さそうな笑顔で、僕に語りかける。安心させたい一心なのか、それともまた別に何か考えがあるのか。その本心こそわからなかったが、日比野はただ、笑っていた。

 僕は落ち着いた脳で、日比野への言葉を絞り出す。

 

「出来るだけ避けたい相手なんだ」

「ストーカー被害にでもあってるの?」

「いや、そういうわけではない」

 

 結論としては、それ以上、踏み込んで欲しくはなかった。日比野は僕の見る夢を知らない。初対面の人間が無理に知ることでもない。

 僕は好奇心を顕著に見てくる日比野に、人差し指を突きつける。

 

「知らないならそれで良い。確認がしたかっただけだ」

 

 僕がそう言うと、日比野は少し困ったように身を引く。ころころと表情の変わる男だな、と思った。自由気ままな、衝動性に富み、思慮に欠ける人間だった。

 

「あと少しで掃除も終わる。旨い肉を食べるためにも、頑張ってくれ」

 

 切り替えて行こう、と、彼は風呂場から出て行く。それと入れ替わるように、小清水が僕の顔を覗いた。

 

「無理はするなよ」

 

 僕よりも青い顔で、彼は呟く。僕は首を縦に振って、共に廊下へと足を踏み出した。

 風が流れる。玄関が空いていた。日比野の部屋は、最初に比べれば、ほとんど物は失われているように見えた。角に溜まる埃などは、発掘された掃除機で吸い取った。謎の水分が半分固まった痕跡などは、当分放置するとのことだった。

 

「うんうん、大分片付いたね」

 

 日比野が汗を拭った。共に部屋を見渡す。台所の生ゴミは既に処理されていた。クローゼットのまだ着れそうな服でさえ袋に詰め込まれていた。残るはベランダを埋めている大量のゴミ袋を、玄関に移すのみだった。

 日比野宅のベランダは、部屋の何処よりも熱と甘酸っぱい臭いで埋められていた。台所の生ゴミのような、苦味のあるそれよりも、幾分か果実のそれに近い。常温でヨーグルトを放置し続けている、そんな臭いだった。それが外からの風に乗って、部屋中に染み付いていた。

 息を止めて、僕はそのゴミ袋にそっと手をかける。中身は潰れたビールの缶や、ワインの瓶ばかりだった。発酵しすぎたワインから、甘い果実の匂いがする。腐敗臭の正体はこれだったらしい。僕は袋を二重にして、強く口を縛った。次々にそれらを小清水に投げ、玄関へ置いていく。

 ゴミ袋があった後には、茶色の艶やかな汁が水たまりを作っていた。大量の蠅と蛆が、僕の足にかかる。その群集に反応できない程、気力の一つ一つを失いかけていた。僕はそれをサンダルの裏で一気に潰した。ブチブチと、内臓と体液が飛び出る感覚が、足裏に伝わる。僕は潰れて固体と液体が混ざるソレをベランダの床に擦り付ける。

 小清水が、おい、と僕に声をかけた。もう玄関のゴミを下ろしに行くとのことだった。


 玄関とその外には、高く積まれたゴミ袋の山ができていた。僕はそのゴミ袋の塊を押し除け、部屋から這い出す。

 

「これ、近所に怒られたりしないのか」

 

 自分の背丈より高い山を見て、そんな言葉が漏れた。僕が蒸れた軍手を外していると、日比野と小清水もゴミの山をかき分けて、外の新鮮な空気を吸う。

 

「一応、お隣さん達には顔を合わせて、掃除する旨は伝えているよ」

 

 日比野には僕の呟きが聞こえていたらしい。ひと休憩、と背を伸ばしながら、日比野がそう言った。小清水がやれやれと煙草を咥えた。

 僕もポケットから煙草を取り出そうとする。しかし、何度叩いても見当たらない。ライターだけを左手に握った。

 

「しくった。煙草、ゴミの中に入れたかもしれない」

 

 今日一番の舌打ち。すると、小清水が仕方がないと自分の煙草を差し出した。ありがたく一本頂戴して、火をつけた。いつもと異なる銘柄を、主流煙で吸ったのは久しぶりのことだった。日比野は喫煙者じゃなかったらしく、ここ禁煙なのに、と、少し困った表情で、煙を避けていた。

 

 ふと、ガチャリと何処かの部屋の扉が開く音がした。僕達は急いで煙草の火を消し、携帯灰皿へと証拠隠滅を図る。

 

「あの、日比野さん」

 

 それは日比野宅の右隣の部屋からだった。柔らかい女性の声が、耳に入る。そちらを見ると、部屋の住人であろう女性が目に止まる。彼女はその声色と遜色のない、柔らかい曲線的な印象だった。おっとりとした目尻に、筋肉よりも程よい脂質が際立つ白い肌。

 

「お掃除終わったんですか?」

「あぁ、新原さん。今からゴミ出しに行くところですよ。もう一踏ん張りです」

 

 隣人の名は新原というらしい。増して物腰が柔らかな日比野は、にこやかに彼女に応対する。小清水が女好きめ、と悪態を吐いた。

 

「丁度良かった、あの、良ければこれ、どうぞ。お手伝いしてらっしゃるお友達も、ご一緒に。今回もいっぱい作りすぎたんです」

 

 そう言って、彼女は明るい表情で一度部屋の中に引っ込んだ。すぐにバタバタと玄関に戻ると、その両手には真新しい寸胴鍋が抱えられていた。その中身が何か確かめるまでもなく、日比野はいつもありがとうございますと、礼を言った。新原は笑顔で部屋に戻り、玄関の扉が閉まる。

 

「時々こうやって食事をくれるんだ。料理が好きらしくてね」

 

 日比野がそう言って、鍋を持ったまま、入れない玄関に立つ。さて、どうしようかと、日比野が一人で慌て始めるのに、さほど時間はかからなかった。

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